帰還
新紡歴千六百四十年―――――
「北の七国」と呼ばれる大陸の最北端に、列強諸国のなかでも一、二位を争う大国「蒼の国エストラド」はある。
農耕は土地柄上乏しいが資源が豊潤であり、宝石の鉱物資源や燃料資源、また絹などの繊維産業が大変豊かであった。
しかし「蒼の国」が豊かである事は、産業面だけの事ではない。
そもそも大陸の七つの国はそれぞれ七人の古の神を始祖に持つといわれる『神族』と呼ばれる王族のみが国を治めていた。
そして神の血脈を穢さぬ為に『神族』間のみで婚姻を結ぶ決まりとなっている。
すなわちそれは国々との繋がりは自国が抱える『神族』の数に左右されるといっても過言ではない。
「蒼の国」は大陸でも屈指の大人数の『神族』を抱えており、「蒼の国」の豊かさの要であった。
「蒼の国」に存命する『神族』は十三人―――――――――
その王都は海岸線の、切り立った崖の上にしがみつく様にして王族の住む白亜の宮殿はある。
・・・・・・・・・・・
「ねえエル。あなた今お兄様がお帰りになられたと言った?」
「はい。サーシャ様が長い長い午睡をとられておいでの間にお着きになられたそうです。」
エルと呼ばれた侍女が午睡でもつれた少女の長い髪を櫛で梳きながら、事も無げに言った。
目の前にいる少女にとって、それがどれ程重要かわかった上でのちいさな罰であった。
午後から受けるはずだった歴史学の授業時間をさぼり、しかも自室で眠っていたのだから。
「ほんとに?お兄様が今いらっしゃるの?」
「前をお向きになってくださいまし。姫様!そのような薄着でいけません!!」
侍女の止める声も聞かず、勢いよく扉を開け放ちサーシャは廊下を走りだした。
途方もなく長い廊下に敷いてある毛の長い深紅の絨毯がサーシャは嫌いだった。
だが今はそのふわふわした踏みごこちさえ夢の中にいるように感じられる。
(お兄様が帰っていらっしゃったなんて!!)
今までこんなに必死に走ったことがあっただろうか。
サーシャの北の『神族』特有の色白な頬が薄桃色に変わり、銀に近い金髪は滲む汗で額にうっすら張り付いている。
「っ!サーシャ様!!」
角を曲がると王家近衛騎士であるルーファウスとぶつかりそうになった。
絨毯に足がもつれて傾いた体を彼がとっさに支えてくれなければ、あわれ、壁にぶつかっていたかもしれない。
「たまたま私だったからよかったものを!!」
「ルー!ご・・ごめん・・なさ」
体が呼吸を求めてるせいでまったく言葉が紡げない。
幼い頃から少女を知っている青年は彼女が求めるものをすぐに理解する。
「サーシャ様、殿下は瑠璃の間にいらっしゃいます。ですが・・」
「ルー!わか・・!わかっ・・た!!」
ルーファウスの頬に自らの頬を軽く当て感謝を表し、彼の言葉を遮ってサーシャは走りだす。
瑠璃の間は国王陛下と謁見する大広間で、この廊下の突き当たりに位置する。
「サーシャ様!!お待ち下さい!」
サーシャはルーファウスが止めるのも聞かず勢いよく扉を開いた。
「ユリウス兄様!」
そう、瑠璃の間は謁見の間。
サーシャがそう気づいたのは兄に抱き着いた後であった。
「「サーシャ!」」
瑠璃の間にいた者すべてが同時に叫ぶ。サーシャはようやく抱き着いた兄の向こうにある世界に気付いた。
(あ・・ら・・。お父様・・と他のお兄様、お姉様方もいらっしゃる・・)
すべてを理解して真っ青になる。
玉座に座る父王のエストラド王は深い溜息をついた。
「サーシャ・・大分寛容な私でも・・」
「お父様!ご機嫌麗しいご様子にて、わたくし第四王女サーシャ・カー・ユン、馳せ参じ致しました!いつ如何なる時にも御身の傍らに。」
ドレスの裾をもち膝を折り王に礼をとる。
下を向いた時に自分が午睡をとったままの薄絹のドレスしか着ていない事に再度青くなった。
(あぁ!またやってしまったわ!!)
だが王子五人王女四人の末である彼女は、したたかにもこういう場の切り抜け方を心得ているのである。
顔をあげると、愛らしい満面の笑顔。
まるで花のかんばせ。微笑みを称えた少女は、今は亡き人に瓜二つで、父王はまたまた溜息をついた。
オルガ・カー・ユン。エストラド王の最後の側室でサーシャの実母。
「北の七国」でも最小の国、祖国コンラルドでは「春の女神」と噂される美しい王女であった。
サーシャはその今は亡き寵姫の一人娘であり、父王も末娘に大層甘かった。そして末姫はそのことを熟知していた。
サーシャは父王のそばに行き跪く。
「お父様、申し訳ありませんでした。どうか不躾なサーシャをお許しくださいませ。」
「もうよい。以後気をつける様に・・」
(ああほんとによかった!まあ、父様ったらもしかして涙ぐんでいらっしゃ・・)
「父上!!!」
サーシャが最後まで胸を撫で下ろす間もなく背後から怒号が響く。
サーシャは嫌な予感がして振り返ると第五王子であるクロード・カー・ツォンが睨みつけていた。
「・・クロード兄様」
予感的中。
クロードはサーシャの一つ年上の兄で、歳も近い事もあり犬猿の仲なのだ。
他の兄に比べるとまだまだ幼さの残る顔をした彼は、紺碧の目を細め心底呆れた顔をしてサーシャを見た後、父王に進言した。
「恐れながら父上はサーシャに盲愛すぎる!これがもし国賓行事の場でありますればいかがなされるおつもりか?『貴国の姫は礼儀も無礼なうつけ者』だと笑い者になりますぞ!!
・・サーシャ!いつまでもその浅はかな手、通じると思うなよ!!」
いつもなら買い言葉に売り言葉で言い返すサーシャであったが、久しぶりに会った大好きな兄の手前である事と狡猾な作戦が末兄に見透かされた事、しかも場違いな薄い身衣も手伝って返す言葉もなかった。
恥ずかしさと情けなさで下を向き薄いドレスを握りしめていると、
ふわりと肩に暖かな黒い正装の上着が掛けられた。
「諌言に耳が痛い。」
低いがよく通る声。
「クロード。サーシャをここに呼んだのは私だ。長らく留守にしていたので早く可愛い末姫に会いたいが為に私が急いて越させたのだ。」
上着からは懐かしい匂いがしてその時まだ自分が兄の顔をちゃんと見ていなかったことを思い出し、いつの間にか隣にいた兄をサーシャは見上げた。
すらりとした体躯。長身で上着の下に着ている同じ黒の幾重にも重ねた服の上からでも手足が長いのがわかる。
背中まで延ばした髪は細い三つ編みが所々してあり、服と同じ夜の帳色。
この国で作られる美しい金糸やと銀糸で丁寧に刺繍された長い布を頭に巻いている。
優しく笑いかける瞳はこの国には珍しい菫色。いや、『珍しい』 ではなく『ありえない』 色であった。
そして決定的な『ありえない』事は、彼の肌の色。
褐色の肌。
九人いる他の弟妹とはまったく違う容貌。
彼の名は、ユリウス・カー・アスマー。
蒼の国エストラド王家、第一王子。
―――――――王子は北の七国を治める『神族』内で大変異質な姿をした王子であった。
「兄上がそのようにっ!」
「まあまあいーじゃねーかよ」
食ってかかるクロードを横にいた第四王子であるレクター・カー・ツォンが宥める。
大柄な体躯の第四王子は兄であるユリウスに体を向け、あらためて敬礼した。
「兄上、無事ご帰還大変嬉しく思います。」
「心遣い深謝する。私も皆恙無いようで嬉しい。だが・・三年も経つと我が弟は世辞も言えるようになるんだな。レクター。」
ユリウスは笑いを堪えながら弟を見る。レクターは舌を出して
「お褒め頂き感激の極み。」と屈託無く笑った。
それを皮切りに空気がゆるゆると緩み始める。
「お帰りなさいませ。お兄様。」
「三年間寂しゅうございました!」
憤慨していたクロードを初め、次々に弟妹から声をかけられ微笑み応えるユリウス。
(ほんとうにお兄様だわ)
サーシャはこの三年間、それこそ夢にまでみた兄が真横にいることにえらく感動していた。
だがしばらくすると三年ぶりにあった自分が寝起きで、しかも正装でもないことが改めて恥ずかしくなった。
「失礼します!」
(わたくし三歳も年を取ったのに!!)
兄姉達の声も聞かずに瑠璃の間を飛び出した。
廊下に出るとルーファウスが立っており、深緑のガウンを手に持っていた。
おそらくエルに渡されたであろう、サーシャのものだった。
「お召しかえされますか?」
艶やかかな黒髪と灰色をした瞳の青年は淡々とつげる。「ほら、見たことか」と言われたようでモヤモヤする。
「なんで、ルーがもってるのよ・・」
恥ずかしさとモヤモヤで目を見れない姫は下を向きながら早足で廊下を進む。青年は静かに後を追った。
「エルが自分が渡すより私が渡したほうがいいだろうと申しましたので。」
さすが長い付き合いの侍女はどんな時も、より効果的な方法を熟知している。
「性格悪いわ・・」
効果は十分だった。耳まで赤くした少女は青年の腕を掴むと走り出した。
瑠璃の間から少し離れた中庭に来ると、サーシャは振り返り手を離した。
「もうだめ!わたくし、消えてなくなりたい!!」
わなわな震えて顔を真っ赤にした少女は今にも零れんばかりに涙をためて叫んだ。
「三年も、三年間も毎日ちゃんと考えてたのに!!」
ルーファウスはサーシャが今日という日を指折り数えて待っており、兄君との再会をそれはそれは美しく劇的に描いていた事、そしてそれが見事に失敗した事を理解していた。
「殿下はそれ程、気にしておられないとおもいますが」
淡々と告げる青年を少女はキッと睨みつける。
「そんなの駄目!全然駄目!!」
地団太を踏むと急にうずくまり、青年のマントの裾をつかむ。
「大人になった所を見せたかったのに・・」
「いつなられたのですか」
小さい頃から癇癪をおこすと最後、こうやって気が治まるまで絶対に青年を傍から離さないのだ。
「っ!ルーの馬鹿!!バカバカバカバカバカ!!」
「サーシャ?」
呼ばれて見上げるとそこにいきなり兄がいた。
「お兄様!!」
突然の事にサーシャは立ち上がりルーファウスの背に隠れてしまう。
「わっわたくし、あの、違うんです!その・・」
驚きのあまり、少女はしどろもどろになり必死に言葉をつなぐ。
「どうしたのだ?」
「あっ・・」
「あ?」
「あの!さっきお会いしたのは実はルーファウスなんです!!」
少女の言った事の意味がわからず、盾にされている青年と兄は顔を見合わせた。
「ルーファウスがわたくしの振りをしていたのです!」
とんでもない言い訳をサーシャはなおも続ける。
「どうしてもお兄様にはやくお会いしたいと申しましたので!ね!ルー!!そうよね?」
サーシャは無理やり共犯者にした青年のマントを引っ張る。再度兄は青年と顔を見合わせた。
「申し訳ありません。殿下にお会いしたくて我慢できませんでした。」
ルーファウスのあまりに淡々とした物言いに、ユリウスは笑いを必死にこらえた。
「くく・・おまえが?カナリア色のドレスを着て?」
「そう!ドレスを着て!!」
「それは嫌です」
青年は心底嫌な顔をして振り返り、少女をあっさり裏切る。
「ちょ!ちょっと!!」
二人のやり取りに我慢できずユリウスは吹き出してしまった。
「くくく!ははっ!!サーシャ・・・くく!」
ルーファウスの肩に手を乗せしばらく笑っていた。
「殿下、お帰りなさいませ」
ルーファウスは膝をつき頭を垂れる。必然背中に隠れていたサーシャは丸見えになり、急いでしゃがみこむ。
「くく・・ああ、頭をあげよ。立派になったなルーファウス。父御、母御は息災か?」
「はい。恙無く。」
(わたくしったら・・どうしていつも・・)
二人が話している間、しゃがみこんだままサーシャは恥の上塗りをしてしまったことに小さく小さくなっていた。
最後に会ったのが三年前の十三歳の時。今は十六歳になり、早い国はお嫁にだって行ける年だというのに。
(わたくし、いくつになっても道化者みたいだわ・・)
「サーシャ」
不意に名前を呼ばれる。でも、恥ずかしくてルーファウスの背中から出ていけない。
「サーシャ」
甘い声。サーシャが三年間ずっと反芻していた声。
「サーシャ。出ておいで。」
ゆっくりマント越しに見る。これは夢かもしれない。すぐに見てしまうと目が覚めてしまうかもしれない。
差し伸べられた手、優しく昔と変わらない大好きな微笑みがそこにあった。
「・・お帰りなさい、お兄様。」
「ああ、会いたかった。愛しい我が久遠の姫。」