なかったこと
「そう言えば、昨日結局どうだったん?」
ずらりと並んだプラスチックの弁当箱におかずを詰めながら、あいつが俺に問う。
「あれな、なかったことにされたわ」
俺は素直に答える。別に隠すことでもないし、嘘をつく必要もない。
あいつは一瞬手を止め、俺の顔をじっと見つめてきた。
「よかった」
そう言って、目を細めて笑う。
「なにがだ。なんもよくねえわ」
少し口調が強くなってしまった。別に怒ってるわけじゃない。ただ、あいつの笑った顔が少しだけまぶしく思えて、馬鹿みたいな話だが俺は戸惑ってしまったんだ。
「おーいお前ら、くっちゃべってんじゃないよ。あと三十分だぞ」
現場長のダミ声が飛んできて、俺たちは居並ぶ弁当箱の群れを見据えた。一口サイズに切り分けられた、あるいはプラスチックの小さなカップに盛り付けられた様々なおかずを乗せた腰の高さほどの台車を押しながら、盛り付け台の周りをゆっくりと周回していく。今日は大口の注文が入ったせいで、盛り付け台を埋め尽くしてもまだ注文を受けた分の弁当箱は並び切っていない。配送便に積み込むまであと三十分。焦らず急がず、速く。俺は心の中でいつものおまじないを唱えた。
「お疲れっした」
タイムカードを切って弁当工場の玄関を出ると、薄墨のような雲に覆われた空からぽつりぽつりと雨粒が落ち始めていた。
手にした折り畳み傘を開き、駅へと歩き出すと、後ろから誰かが駆け寄ってきた。肩を叩かれて顔を上げる。あいつだった。
「ん、どした」
「今日はこっち」
「そか」
あいつは普段はなんとかいうごついSUVで通勤しているのだが、今日は友達を乗せてスキーに行きたいと言う妹に貸し出しているらしい。
「てか、妹の車で来たんじゃないんだ?」
並んで歩きながら尋ねると、あいつは珍しくしかめっ面をしてみせた。
「あれには乗りたくない。小さいし、ぬいでダッシュボード埋まってるんだよ?」
「いいじゃん、可愛くて」
「キャラじゃない」
「似合う似合う」
「そういうこと言わんとって……いや、まあいいや」
あいつがふてくされたように前を向いた。少し悪ノリしすぎたか? とも思ったが、このくらいのいじりはいつものことのはずだ。それでも俺は、すまんすまんと謝り、それであいつはあっさり機嫌を直したようだった。いや、そもそも機嫌を悪くなんかしてなかったのかもしれない。
「それより、昨日のこと詳しく聞いてもいい?」
「え? 聞いてどうすん」
「いやいや、気になるし」
正直、話すのに気乗りはしなかった。
十日ほど前、俺の苦手な伯母が、俺に友達の娘を紹介してあげると言い出した。恋人がいるわけではないが、正直まだ結婚なんて考えてもいない俺は最初のうちは遠慮していたのだが、半ば無理矢理のようにセッティングされてしまい、仕方なく会うだけ会ってみることにした。
待ち合わせていたレストランに入って行くと、席に着いていたのは伯母だけだった。
友達の娘さん、ってのは? と伯母に聞くと、『今回は先様からなかったことに、と』という返事が返ってきたというわけだ。乗り気ではなかったとはいえ、それでそうですかと笑って言えるほど俺は出来た人間ではない。そんなしょうもない話を渋々打ち明けると、あいつは少し呆れたように言った。
「そもそもそれって、お見合いだったわけ?」
「今思えば向こうはそう取ってたのかもな。でも俺は写真を見せられたわけでもないし、よく分からん」
「なんにしてもちょっとひどいね」
「お前、さっきはよかったって言ったじゃねーか」
ん? てか、なんだ、「よかった」って。
「ごめんごめん。なんかさ、彼女とか出来ちゃったらあんまり今みたいにできなくなるのかなって」
「なんそれ」
俺は笑ったが、確かにそうかもしれなかった。
「まあ、どのみちたられば以前の話だわ」
そう言ってこの話を終わらせた俺たちは、史上初の記録を打ち立てた日本人メジャーリーガーの話をしながら、駅の改札を抜けてホームへ続く階段を昇った。
五分ほど待つと、ホームに電車が滑り込んできた。ドアが開き、降車する客をやり過ごしてから車内へ乗り込む。ちょうどすぐ近くに二人分の隙間を見つけ、俺たちは並んで腰を下ろした。人が多いこの時間に座れるのはついてると言えるだろう。仕事終わりの疲れた体をシートに預けて、ほっと息をつく。
「今日このまま帰る?」
不意にあいつが聞いてきた。
「んー、特に予定はないしな」
「なんなら、飲み行く? 残念会」
「あのな、傷に塩塗るな」
「え? やっぱ傷ついてたんだ?」
「んなことない」
「じゃあ、祝う会」
「何を」
「んー、大谷翔平?」
「なんでもありかよ」
俺は軽くあいつの肩を小突いて笑った。
(了)




