6.天使様と軍神様
ローラがせっせと刺繍を進めているとこつんこつんと窓を叩く音が響いた。視線だけそちらに向けると、不機嫌そうなアンリの姿が見えた。
ローラはため息をこぼし、ドレスを机に置いて窓を開ける。
「玄関からいらしてください」
窓を開けてそう告げると、アンリは頬を膨らませながら窓枠によじ登った。
「どうせローラは忙しいとマリーに追い返される」
彼女の不機嫌の原因は何だろう。ローラは考える。
近頃恋人が中々構ってくれないと言っていた。それが原因だろうか。それとも、単にローラが仕事で忙しくてあまり相手をできないことが原因だろうか。
じっと観察するようにアンリを見る。
「ローラ、あの男と結婚するのか?」
アンリが寂しそうな瞳で見つめると胸の奥がずきりと痛んだ。
彼女の瞳はどうしても突き刺さるような鋭さを持っている。鋭い硝子にも似たそれは常に攻撃的というわけではない。アンリ自身がとても繊細で鋭い女性なのだ。
「あの男とは?」
問いかければ、アンリは僅かに視線を逸らす。
「あのフェイ・ルチーフェロだ」
なぜそんなことを訊ねるのだろう。確かに彼はローラに何度も求婚してくる。けれど、それが本気かどうかなんてわからない。
少なくとも、アンリは彼の真摯な瞬間を知らないはずだ。
ローラは不思議に思い、アンリを見る。
「アンリはローラが好きだ。ローラがあいつと一緒にいると息が苦しくなる。ローラを独り占めしたいと思う。けど、それと同じくらい、アレックスと居たい」
このアンリ・クランティブという人は、困ったことに友情と恋の違いも判らずにローラに執着している。けれどもローラは彼女を嫌うことができない。
強引で自分勝手でわがままな人なのに、目が逸らせない。
「軍神様、私は……天使様に会うのがとても楽しみです。あの方は、軍神様のようにたくさんお話を聞かせてくれます。それに、彼が私の両親のことを話すとき、とても嬉しくなります」
その言葉はローラの本心だ。フェイがローラの両親の話をする時、彼が心から両親を愛してくれていることを感じる。
「あいつは天使なんかじゃない」
アンリは不機嫌に言い放つ。
わかっている。そんなことはローラ自身既に分かっている。
しかし、フェイが天使でなかったとしても、ローラにとって彼は天使なのだ。
「いいえ、軍神様。あなたが私の軍神様であるように、フェイ様は私の天使様です」
ローラが静かに告げると、アンリはまた頬を膨らませた。
「なんであいつばっかり……もっとアンリにも構え」
ぼそりとこぼれた言葉を、ローラは聞き洩らさなかった。
彼女はまるで幼い子供の様にフェイに嫉妬していたのだ。アンリに悪気が無いとローラは知っている。彼女はとても純粋で無垢で繊細だ。
「私は今、軍神様のご依頼のドレスの刺繍をしているのですよ?」
構う余裕などありませんと言えばアンリはさらに膨れる。
「ローラがアンリのことだけ考えるように注文したのに」
「軍神様にとてもよく似合うと思いますよ。そのために、しっかり頑張りますから」
そう、笑えば、アンリはようやく笑みを見せる。
少し少年のような笑み。それは彼女が意図的に作り出しているのか、生来の癖なのかはわからない。けれどもローラはアンリのその笑みが好きだ。
「なら、見てる」
アンリはそう言って勝手に椅子を動かしてローラの隣に座った。
「あの、見られると……恥ずかしいです」
どうもローラは人に見られると緊張してしまう。手元が狂っては大変だと視線を逸らす。
けれどもアンリはローラの目の前まで顔を近づけてきた。
「なぜ? ローラの手は魔法の手だ。とても美しいものを生み出す」
真っ直ぐ、純真な瞳に見つめられ、どきりとする。
フェイとはまた違った美しさを持つ彼女は彼とどこか似ているようにも思える。
ローラは何かを言おうとしたはずなのに、言葉が迷子になってしまった。
ただ、アンリから視線を逸らせない。
このままではいけないと思うのに、真っ直ぐ見つめる瞳から視線を逸らせない。
とくりと、胸が鳴る。
アンリがなにかを言いかけたその時だった。
扉をたたく音が響く。
「は、はい」
慌てて返事をすると、扉は静かに開かれた。
「ローラ、ちょっと休憩して、俺とお茶しない? って……どうしてアンリがいるのかな?」
フェイだった。すっかりと化粧も衣服も直した彼はいつものきらびやかな姿で、手には大きトレイがあり、完全にお茶の準備が整っているようだった。
「なんでお前が当たり前みたいにローラの作業場に来るんだ?」
アンリが不機嫌に問う。
「俺はジョージィにローラを口説く許可を貰ってる。それよりアンリこそどうして当たり前みたいにローラと一緒にいるの? レオがアンリには同性の友達がほとんどいないって言ってたけど」
フェイもまた少し不機嫌そうだった。
彼らは不仲なのだろうか。ローラはそっと二人の様子を観察することしかできない。
「ローラは、アンリが嫁に貰う」
「は? 女の子同士は結婚できないよ。それに、あんまりレオに心配かけるのもどうかと思うけど。あいつは君を溺愛してる。けど、だからといってなんでも好き勝手していいわけじゃない」
フェイがあまりにも落ち着いた声でアンリを叱るのでローラは驚く。
普段の穏やかでどこかお道化たような様子は消え去り、淡々と、それでいて真っ直ぐな真摯な姿勢だった。
まるで彼はアンリの兄のようだ。
ローラとの距離とはまた違う。ぐっと近い。特別な距離。そう思うとローラは落ち着かない奇妙な気分になる。
「お前はいつも小言ばっかりだ。めんどくさい」
アンリは不機嫌にフェイから顔を背けた。
「ローラ、ちょっと休憩にしない?」
いつも通りのふわりとした笑みでそう誘うフェイに安心する。
「では、ここを終わらせたら頂きます」
すでにお茶を注ぎ始めていた彼にそう答え、手を動かす。あと少しだ。この一着が終わればこの長い戦いは終わる。
二人の視線を感じる。そしてローラを眺めている二人は時折睨み合っているのも感じ取った。
「お二人とも仲良くできないなら帰ってください」
思わずそう声を漏らしてしまったほど、アンリから嫌な空気を感じた。
「え? 俺はこんなに友好的なのに?」
フェイは不満を漏らす。それもそうだ。彼は別にアンリを厭う様子は見せていない。問題はアンリの方だ。
「アンリはローラと二人で過ごしたかった」
彼女は不満そうにそう漏らす。彼女は本当に子供のような人だ。純粋無垢で好奇心旺盛。そしてとても独占欲が強い。周囲の人間が自分に注目していないことが嫌なのだ。
「アレックスの様子もおかしいし、伯父上だって近頃は忙しそうだ。ローラまで構ってくれなくなってはアンリは暇だ」
彼女はきっぱりと言い切る。
「……天使様、軍神様と遊んでいただいても?」
彼は国王の友人だ。先程見せたような距離で……。
そう思うとなぜかローラの胸の奥に靄がかかるような感覚がある。
落ち着かない。フェイとアンリが二人で過ごすと思うと体がもぞもぞするような不思議な感覚になる。
「いくらローラの頼みでもそれは無理。もうアンリの遊びに付き合えるほどの体力はないよ」
フェイが困ったようにそう答えたことにひどく安心した。
「情けない。そんなひ弱でローラや伯父上を守れるのか?」
アンリは挑発するように言う。
「アンリの体力が化け物なんだよ。軽い運動どころか決闘になりそうだ」
フェイは困ったように笑う。どうやらこの二人にとって遊びと言えば剣術になってしまうようだ。
「……別に剣術とかそういう話をしたわけではなく、ちょっと街をぶらぶら歩く程度でよろしいのですよ?」
「アンリが大人しくそんなことすると思う? ちょっと目を離したらふらふらいなくなってどこかで問題を起こさないかひやひやするよ。レオだってアンリとエドガーを連れて歩くのは大変だっていつも言ってたし」
皇太子の名前まで飛び出し、ローラはめまいを覚える。
ここにいる二人はローラのような身分の人間が触れ合うことを本来は許されない程の高貴な存在なのだ。
「ローラの前ではいい子にしてる。ローラはか弱いからな。か弱い女は守らないと」
アンリはそう言ってローラに近づき、じっと瞳を覗き込んだ。
「ローラの魔力は不思議だな。決して弱いわけではないのだが、か細い」
「え?」
「アンリはそれが心地よい。おそらく、ルチーフェロのやつもそうだろう。ローラのか細い魔力が言葉を交わすたびに織り込まれていくような気がする」
アンリの表現はよくわからない。魔力に太いも細いもあるのだろうか。そもそもローラは魔力を色や形として認識することができない。むしろ、そうやって見ることができるのは一部の魔術師や特別魔術の才能に恵まれている人だと思っている。
「魔力が細いとはどういう意味ですか?」
鋏で仕上げをしながら、アンリに訊ねる。
「なんというか、ローラの魔力は糸のようだ」
そう言われても、ローラには理解できない。糸ということは、縫うのだろうか。それとも、織るのだろうか。
そもそも魔力がそのように見えたりすることがあるのだろうか。
「あー、確かに、ローラの魔力は糸だね。ひと針ひと針丁寧に縫われているような繊細な魔法を無意識に使っているんだと思う。すごく古いけど、優しい魔法だよ」
フェイが柔らかく笑む。
「それは、どのような魔法ですか?」
正直なところ、ローラはそこまで魔術に詳しくはない。せいぜい初等教育で習う、生活に直結する範囲の知識しかない。
「ローラの、強く信じる心が魔法なんだよ」
優しい手が頭を撫でる。暖かくて心地いい。
「信じる心が?」
思わず首を傾げてしまう。
「そう。ローラが、俺を天使と信じ続けてくれるなら、いつかそれが真実になる。そんな魔法だ」
フェイの言葉が理解できない。けれども、彼がからかったり嘘を吐いているようには見えない。
「ああ、ローラがアンリを軍神と呼ぶ限り、アンリに敗北はありえない」
アンリは美しい姿勢で、凜とした声を響かせる。
「ローラはとても素直だから感じたことをそのまま信じるんだろうね。でも、この魔力は諸刃の剣だよ。ローラが強く信じれば、よくないことを現実にしてしまうこともできる。そういう力だ」
フェイは静かに言う。今まで意識したことのなかった魔力に危険まであるとなると、いよいよ制御の仕方をしっかり学ばなくてはならないのではないかと思う。
「まぁ、ローラの周りには怖いことなんてなにもないから大丈夫だよ」
彼は笑うけれど、自分の魔力をしっかりと理解できないというのは恐ろしいことだ。
「ローラの魔法は信じるものに力を与えるものだ。だから、君が俺を天使だと信じてくれるなら俺は本当に天使にだってなれるかもしれない」
優しい笑みが恐怖を忘れさせてくれる。ローラの魔力はただ危険なだけではないのだと。
「軍神様は、私のこの魔法を知っていらっしゃったのですか?」
「ん? まぁ、ローラが居るといつもより強くなる気はしてた」
彼女は半分興味がなさそうに、視線はフェイが持ってきた茶菓子に向けながら答える。片手で食べやすそうな焼き菓子がいくつか用意されていたようだ。
「ローラの為に用意したからダメだよ。ほら、俺のおやつあげるから」
フェイは苦笑して、用意していた焼き菓子とは別の包みをアンリに渡す。
「お前、菓子を選ぶ趣味は良いんだよな」
アンリは嬉しそうに包みを開けて中から薄い焼き菓子を取りだして食べ始める。とてもサクサクしそうなクッキー生地だけれど、なにかを練り込まれているようだ。
「これ旨いな」
「へぇ、じゃあ今度ローラにも買ってこよう。あんまり噂になってなかったからどんな感じか気になってたんだよね。ローラには絶対美味しいの食べて欲しいし」
カップを並び終えたフェイがローラの方にお茶と焼き菓子を差し出す。片手で食べられそうなカップケーキは包み紙に手が汚れにくい工夫がされているようだった。
「このケーキ、学者とかに凄く好評なんだって。作業しながら食べても手が汚れないって」
「確かに、これなら仕事の合間に食べるのにも良さそうですね」
彼のこういう気遣いが嬉しい。ローラのことをよく見てくれていると感じさせてくれる。
「ローラ、この仕事終わったら、俺とデートしない?」
いつもの軽い調子で、まるで断ってもいいんだよと言うように誘われる。
本気なのか遊びなのか読めない。けれどもきっとそれが彼の優しさなのだろう。強制はしないよ。ローラが決めて良いんだよとでも言うような彼の気遣いは嬉しさと同時に戸惑いを生む。
「えっと……その……」
「俺と二人で出かけるのは嫌?」
傷ついたという様子ではなく、ただ訊ねられたという印象だ。けれども彼の声には不思議な色気があるようで少しくらくらとしてしまう。
「どこに行くのでしょうか」
行き先次第ということにしよう。そう思うと彼は少しだけ考える仕種をして口を開く。
「ローラの行きたいところどこでもいいよ、と言いたいけど、そうしたら困らせてしまうね。美術館は? ローラの好きな天使の絵や彫刻がたくさんあるよ。でも……あんまり俺がモデルしたやつはじっくり見ないで欲しいけど……」
つい数秒前まできらきらしていた彼は途端に暗い顔になる。
「そんなにモデルになった作品があるのですか?」
「こいつ、若い頃は芸術家にモテモテだったらしいぞ。本人も調子に乗っていろんな作家のモデルになってたからとにかく作品数が多い」
アンリがからかうように言う。どうやら焼き菓子で機嫌が直ったらしい。
「それは是非、全て拝見したいです」
部屋の天井画はお気に入り。教会の天使像も。他にもローラの好きな天使様がたくさんあるのだろうか。期待してしまう。
「じゃあ約束。ジョージィにはローラをデートに誘う許可までは貰ってるから。門限までに送り届けないと怖いけど」
フェイはきらきらとした、それでいて少し少年のような笑顔を見せた。
「アンリも行く」
「え?」
突然口を挟んだアンリにフェイが驚きを見せる。そうだ。普段の彼女なら美術館に興味など示さないだろう。
「モデルと作品を並べて見る機会はそうそうないからな」
まるでからかうように笑う彼女はどこか上機嫌に見える。
「とか言って、俺とローラのデートを邪魔したいだけでしょ」
「まぁ、そうとも言うな」
またちくりとする。どうしてフェイがアンリと親しそうにするとこの妙な感覚が生じるのだろう。もぞもぞと落ち着かない。針を刺した時とは違う。ただ、胸の奥からなにか仄暗いものが湧き上がるような、そんな感覚だ。
「ローラ、大丈夫?」
フェイの心配そうな声で現実に引き戻される。
「え? あ、はい……その、お出かけ、楽しみにしています」
天使様も軍神様もローラの大好きな人だ。大好きな二人と一緒に居られるのはとても嬉しいことのはずなのに、どうして落ち着かないのだろう。
「アンリはレオの許可を貰っておいでよ。ついでに監視係を五人くらい連れてきて。俺一人じゃアンリを止められない」
「やだ」
「じゃあアンリは置いてくよ」
「ローラの為なら少しくらいは大人しくしてやる。ローラが手を繋いでいてくれるなら大人しくしてやるぞ」
「それはだめ! 俺だってローラと手を繋ぎたい」
二人はまるで子供の頃から友人同士だったようにとても気軽なやりとりを繰り広げている。
本当に仲が良さそう。
またなにかが込み上げてくる。
それがあまりに恐ろしくて、誤魔化すようにお茶を流し込んだ。




