娘が彼女を連れてきた
他の誰かの役に立つ仕事がしたい。学生から社会人になるにあたって、よく謳われる文言ではあるけれど、それが綺麗事だと思い知るのに、そう時間はかからなかった。
仕事の成果が巡り巡って誰かのためになることはあるけれど、元を辿れば、働く理由は自分自身のために他ならないからだ。
自分自身、あるいは、自分以上に大切な人たち――家族のために、僕たちは働く。
僕の一番の宝は娘のマナだ。誰に問われたとしても、正面切って答えることができる。
……いや、妻も大事だよ。女性として、妻として愛するのは彼女だけだ。僕と同い年で四十代も半ばを過ぎたというのに、可愛らしさと美しさは増すばかりで、さながら宝を守る銀色に鋭く光る剣のごとく切れ味が良過ぎて、偶に僕まで切り傷を負うことまである。
マナは母親に良く似て、身内の贔屓目なしにも年々綺麗になっていく。物腰柔らかく、気配りのできる優しい子。それを誇らしく思う反面、悪い虫がつかないか心配でしょうがない。
出来ることなら、年中無休体制で娘の警護をしたいし付けたいくらいだが、いくら何でもそんなことをする自分は気持ち悪いし、増してや娘にそんな風に思われてはこの世の終わりである。
だから、マナから小六の時に「中高一貫校の女子校に行きたい」と言われた時は胸を撫で下ろしたものだ。
「偏差値も悪くない」とか「良い校風の学校だ」とかなんとか適当に言ったものの、内心は狂喜乱舞していたのを覚えている(勿論、後できちんとその学校について調べたが)。
この年頃の子を見守っていると、時間の経過は異様に早く感じられる。中等部の受験に合格して喜んでいたマナも、もう高等部の二年生になっていた。
そんな娘の成長が嬉しくもあり寂しくもあり、それでも僕が本心から願うのはただ一つ、マナが幸せになってくれることだけだ。
自宅玄関の扉を開けたのは夜の21時過ぎのことだった。これでも比較的早く帰れた方だ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
妻が出迎えてくれた。鞄と上着を取りに来てくれる甲斐甲斐しさに申し訳なく思うのだが、生殺与奪を握っている感じが興奮すると言っていた。聞き間違えたと思いたい。
リビングに行くと、娘が「おか〜」と言ってくれた。しかし、それ以降の会話はない。寂しいが年頃の娘とはこんなものである。
ところで、最近マナの様子がどこか浮き足立っているように見える。
リビングで妻と一緒にテレビを観ているのはいつもと同じなのだが、時折スマホを開いてはニコニコしながら何かしらを打ち込んで閉じて、しばらくしてまた開いてを繰り返している。
きっと、友人とSNSのやり取りをしているのだろうと想像する。大丈夫大丈夫、よくあることだ。
部屋に行ってスーツから着替えている時に、不意に思い出した。
この前の日曜のことだ。マナが朝から何やらバタバタしていた。出かける際に着て行く服が決まらないらしい。
後から聞いてみれば、前日の夜から悩んでいたのだとか。
友人と出かけることはこれまでもあったが、着て行く服装にここまで悩む姿は初めて見る。どれも可愛いのに。
苦悩する娘には申し訳ないが、朝からファッションショーを見ることができたような気分だ。
しかし、服装に悩む理由は考えないことにした。そういう時もあるのだろう。
自分のそういう時がどういう時だったかを振り返ってみると、結婚前の妻とのデートの日がそうだった気がするのだが、同じように考えるのは良くないと思う。
尊厳を守ろうという意思から来るものなのか、精神衛生上から来る逃避的思考なのかどうかはさておき。
部屋着に着替えてからダイニングに戻ると、妻が作った夕飯がテーブルに置かれていた。
いつものように妻に「ありがとう」と「いただきます」を伝えてから、一人遅めの夕食をいただく。
二年前の父の日にマナからもらったタンブラーに缶ビールを注いでひと口飲む。毎夜のことながら染み入る美味さだ。
この一杯のために日々働きに出ていると言っても過言ではない。
――そんなことを考えていると。
「ねぇ、お父さん」
唐突にマナから呼びかけられて、身体が若干浮き上がった。
「何だい?」
「日曜日ってさ、お父さん、ウチにいる?」
「今のところはその予定だよ」
「お父さんに会って欲しい人が居るの」
微かに頬を赤らめながら言った。
ゴフッと。ビールが喉から勢いよく逆流した。
その後は夕飯もそこそこに、心在らずの状態で食器を洗い、風呂場に直行した。
シャワーからの熱い湯を浴びながら、
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!』
僕は慟哭した。どうにか声帯から発することのないよう心がけたが、しかし叫ばずにはいられなかった。
娘の言う会って欲しい人とは誰のことなのか。
かような調子で娘が父親に会わせたい人なんて百パー彼氏に決まってるじゃないか!
何となく言い出しづらそうに、恥じらいながら僕に告げる娘の表情を思い出して、嫌でもそれを確信させられる。誠に遺憾ながら他の可能性を検討し得ない。
確かに、それらしい伏線めいたものはあったが、何もこんなに早く回収することはないだろう!
あの子はまだ高二だぞ! 十七歳だぞ!
……早くも遅くもない、青春真っ只中だった。何もおかしなところはなかった。
それに、思春期の娘が日頃それほど会話を交わさない父親に紹介したいくらいなのだから、よっぽど相手のことが好きなのだろう。
え、そんなにも好きな男のことを紹介されるの?
わざわざ? お父さんに?
やだやだ無理無理マジ無理もうしんどい吐きそう助けて。
父親どころか一人間としての威厳やら原型すらも保っていられる自信がない。
「すっごくびっくりすると思うから楽しみにしててよ」
などと、マナからは何故か含みのあるようなことを続けて言われたが、悪寒が止むことはなかった。
今からでも何か予定を入れて、延期もしくは中止を試みるか。
いや、ダメだ。延期は所詮先延ばしでしかなく、中止の可能性はほぼあり得ない。それ以前に、娘から悪印象を持たれることに耐えられない。
会うしかないのか。娘の彼氏に。
こういう挨拶の場で一番緊張するのは彼氏の側だろう。自分にも身に覚えがある。
結婚の挨拶のために妻の実家へ訪れた際には、この世の終わりかと思うくらいに緊張した。
この世の終わりもとい我が身の終わりを感じたのは、お義父さんから視線のレーザービームを浴びた時だった。
古い曲の有名な歌詞のフレーズにもあったけれど、本当に視線ってレーザービームになり得るんだなって。マジで黒焦げになったからね。
が、今度は立場が入れ替わる訳だ。
……撃っちゃおうかな。僕もレーザービーム撃っちゃおうかな。
時の流れは不可逆なもので、矮小十把一絡げな僕なぞには抗うことができずに、当日を迎えた。
僕個人の心象風景は一切反映されることなく、雲ひとつない青空だ。
昨夜はろくに眠れもせず、その反動でぼんやりとしているうちに、もう正午も過ぎていた。
約束の時間が近づき、娘が「迎えに行ってくるー」と言って玄関を出てから、まだ五分も経っていない。
昼下がりのリビングは秋の日差しに満たされて、カーテン越しの光が静かに揺れている。
麦茶をひと口。
聞こえてくる外の足音に、心臓が変なリズムを刻む。耳まで熱い。
娘の人生に関わる誰かが、今まさにこの家に来ようとしている。
どう振る舞えばいい? どんな顔をすれば?
昨夜まで父親の威厳やらまだ見ぬ娘の彼氏への敵愾心やらが雲散霧消し、ただの臆病な中年男性が残されていた。
声を上げる間もなく、カチャリ、と玄関のドアが開いた。
微かな話し声と共に玄関からリビングへと二人分の足音が近づいてきて、立ち止まると同時に、
「こんにちは、ご無沙汰してます」
“もう一人”の方を窺った瞬間、時が止まったような感覚に陥った。
そこに立っていたのは、僕が勝手に想像していた“彼氏”というカテゴリから、あまりにもかけ離れた存在だったのだ。
娘が連れてきたのは、少女だった。
いや、美しすぎる少女だった。
彼女は、深みのある藤色のワンピースに、薄いグレーのカーディガンを羽織っていた。
清楚でいて洗練された色合いは、彼女の肌の白さと目元の静かな印象を際立たせている。
頬はふんわりと薄紅に染まり、睫毛は長く、伏し目がちにうつむく仕草には、柔らかな緊張と慎ましさが滲んでいた。
黒髪は艶やかにまとめられ、額にかかる前髪も整えてある。
まるで一枚の絵画を切り取ったような、静謐な美しさがあった。
目が合った瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
深い黒曜石のような瞳の奥に、確かな意志と、かすかな怯えが同居している。
などと動揺を紛らわせるように、不躾とも取られかねない観察をし始めてしまったが、不意に記憶が蘇った。
僕はこの子のことを知っている。
「……久しぶりだな。大きくなったね、ユヅキちゃん」
彼女は――ユヅキはマナの幼馴染だ。
マナとは就学前からの付き合いで、今も同じ学校に通っているという。
話に聞くことはあったが、会うのはずいぶん久しぶりだ。
いつまでも立たせていては悪いので、向かいのソファに座らせた。
僕の隣には妻が座り、マナとユヅキとは向かい合う形になる。
「……それで、今日改めてご挨拶に来たのは、理由がありまして」
「うん」
娘の古くからの親友が改まって挨拶とは何だろうと、内心首を傾げながら、続きを促す。
ユヅキは深く呼吸をしてから、思い切ったようにこう言った。
「えと、その、ま、マナちゃんとお付き合いをさせていただいております!」
「うん!!??」
この子、今何て言った。
聞き間違いでなければ、「お付き合い」と言ったか。
彼氏じゃないと知って安心したところで、再び混乱の渦に放り込まれた。脳内で更なる疑問符たちが駆け巡っている。
どうにか平静を装って、僕は訊ねた。
「ユヅキちゃん。君が言う『お付き合い』は、恋人としての交際のことかな?」
「はい、そうです」
聞き間違いではないらしい。そして、冗談を言っているわけでもない。
ユヅキの声は緊張でまだ震えていた。だが、こちらを真っ直ぐに見つめ返す眼差しは真剣味を帯びていた。
状況を確かめようとしたら、彼女の想いの強さの一端を確かめることになった。
「そうか」
と、まずはそう答えるしかなかった。
「お父さん、驚いてないの?」
と、マナが少しだけ唇を尖らせて言う。
驚いているさ。ただ、仕事柄、表に出す感情を抑えるのに慣れているだけだ。
リビングテーブルを挟んで、僕とユヅキ、そしてマナが並ぶ。妙にかしこまった三角形の構図。
娘は彼女の隣にちょこんと座っていて、嬉しそうかつ少し不安そうでもある。
「お茶菓子持ってくるね」
と、妻が席を立った。その声がやけに明るかった。
――さて。どこから、どう話すべきか。
娘の彼氏――じゃなかった、“彼女”。
娘の親友からいつの間にか別の立場へと移行していた彼女に対して、どういう顔をすればいいのか、どんな言葉を選ぶべきか、僕の頭はぐるぐると回転していた。
「その……改めて、ユヅキちゃん。マナと、いつも仲良くしてくれてありがとう」
ぎこちないとは自覚しつつも、まずは形からでも礼を言う。
すると、ユヅキは小さく瞬きをして、そして深く頭を下げた。
「とんでもないです。私こそ、マナと一緒にいられることが……本当に、幸せなんです」
その言葉は、変に飾られていなくて、真っ直ぐだった。
彼女の手が、そっと膝の上で組まれているのが見えた。爪も短く整えてあり、彼女の几帳面な性格を物語っているようだった。
「……正直、驚いたよ。てっきり、彼氏を連れてくるのかとばかり思っていたから」
言いながら、娘がどう反応するかを横目でうかがったが、マナはほんの少し照れたように笑って、ユヅキの手をそっと握った。
「うん、分かってる。でも、それでもお父さんにはちゃんと紹介したかったから」
――そうか。そうだよな。
紹介してくれるということは、二人の関係をちゃんと受け入れてほしいということなのだ。それが、男でも女でも、関係ない。
「学校では……公にはしてないの?」
「はい。親しい友達には話してますけど、先生には……あまり」
ユヅキが慎重に言葉を選びながら答える。無理もない。
思春期の中高一貫校で、同性との交際を公にするのは、今でも勇気がいるだろう。
「でも、マナは……私のことを、ちゃんと大事にしてくれてて」
そう言って、照れくさそうに笑った彼女の笑顔が、とても綺麗だった。
その瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
嘘がない。気取ってもいない。
ただ、マナを想っている。
僕はようやく、目の前のユヅキという少女を“娘の恋人”として、ひとりの人間として、見始めることができた気がした。
「マナの、どこが好きなんだい?」
自分でも、なんでそんなことを聞いたのかは分からなかった。
けれど、ユヅキは驚く様子もなく、まっすぐに答えた。
「ずっと一緒に居て自然と……。でも、ちゃんと言葉にするなら、いつも、人のことをちゃんと見てるところ。困ってる子がいると、すぐに気づいて声をかけて……それで、私も助けられたことがあって。それがきっかけで改めて、ああ、好きだなぁって」
「へぇ」
「あと……笑った顔が、すごく好きです」
その言葉に、マナが「ちょっと!」と真っ赤になった。
僕はと言えば、麦茶を飲んでごまかすしかなかった。思ったより破壊力のある攻撃だ。覚悟しておくべきだった。
けれど、いい子だと思った。
誠実で、丁寧で、何より娘を大切にしてくれている。
男か女かなんて、正直どうでもよくなるほど、まっすぐな気持ちがそこにある。
「……そうか。ありがとう、教えてくれて」
そう言うと、ユヅキは小さく頷いて、目を潤ませたように見えた。
そのとき、タイミングを見計らったように、妻が湯気の立ったお茶を運んできた。
「おまたせ。麦茶、じゃなくて煎茶にしといたよ。こっちの方が落ち着くでしょう?」
そう言いながら僕の目を見て、にっこりと微笑む。
……何か含んでるな。
僕は隣に座った妻に小声で訊ねる。
「……君、知ってたのか?」
「何を?」
と、すっとぼけた顔する妻。いや、わかってる。完全に知っていた顔だ。
「いつから?」
「春くらいかしら。マナが私に“恋バナ”してくれるようになって、しばらくしてから」
「……先に教えてくれても」
「ふふ。言ったらあなた、庭を落ち着きなく歩き回ってSPさんに迷惑をかけるでしょ?」
ぐうの音も出なかった。
妻が淹れてくれたお茶でようやく落ち着きを取り戻すことができた。ひと段落ついたところで、
「それでね、お父さんにもう一個大事な話があるの」
マナが再び話を切り出した。前のめり気味に言ってくる。
最近は仕事が忙しくて娘と話せる時間が少ない。先ほどは動揺させられたが、娘と話せる時間は基本ウェルカムハッピーである。
鷹揚な精神を存分に発揮して、僕は頷いた。
「良いよ。何でも聞くよ」
「何でも。……何でもだね?」
「?」
「してやったり」と言わんばかりの顔をする娘。
こういうところが妻によく似ていると現実逃避しかけたが、自分が失言をしてしまったような感覚がある。
何でも。何でも?
二人は静かに頷く。
「わたし、ユヅキと結婚したい!」
思わず立ち上がりかけたところを、妻が僕の右肩を押さえる形で制した。
逃げるな、と目が言っている。
「……ふぅ」
重い溜め息を吐いてから、
「本気で言っているんだね?」
と、努めて穏やかに言った。
「本気だよ、お父さん」
「お願いします。何の覚悟もなしに、こんなことは言えません」
簡単には頷けない。
「……今の決まりでは、できない」
同性の間で婚姻は認められない。
それでも。
「それでも、私たちは一緒にいたいんです」
二人は言った。
――ならば。
「……反対はしない」
そう告げると、二人の表情が揺れた。
「君たちが大人になった頃にはちょうど法律を変えられるだろう」
「……え?」
「君たちが、結婚できるようにする」
僕は断言した。
その日の夜。
書斎で書類を手に取りながら、僕は決意を固める。
「できるさ。お父さんに任せなさい」
そう言い切る。
――そして翌朝。
「――登庁のお時間です」
「ああ、今行く」
僕は扉へ向かう。
――内閣総理大臣として。
――それから、いくつもの季節が過ぎ。
白いチャペルの扉が、静かに開いた。
純白のヴェール。
その下に、娘――マナ。
隣には、ユヅキ。
二人は手をつないでいた。
ゆっくりとバージンロードを歩く。
マナが、こちらを見る。
涙を浮かべながら、笑っていた。
……ああ、本当に綺麗だ。
「あなた、もっと泣くと思った」
「……泣いてない」
妻が笑う。
――色々あった。
そして今。
二人は誓いを交わす。
拍手が響く。
花びらが舞う。
僕の中で、父親としての時間が一区切りを迎えた。
――ありがとう、マナ。
――そして、ユヅキ。
君たちなら、大丈夫だ。
二人は、誰よりも強く、優しく、愛し合っているのだから。
お読みいただきありがとうございました!
百合に挟まる男は許さずとも、百合を優しく見守るお父さんは許してあげてください。




