優しさという檻
コルビー伯爵家の長女、アルメリアは、今日も窓辺で刺繍をしていた。
庭では春の陽光を浴びて弟が木剣を振っている。次期当主として厳しく育てられている彼は、屋敷の中では唯一、姉にだけ甘えた顔を見せた。
弟がまだ五歳の頃のことだ。剣の稽古で転び、膝を擦りむいても泣くまいと唇を噛みしめていた彼に、両親は「跡取りが泣くな」と言った。だがアルメリアだけは膝を折り、そっと傷口を洗いながら言ったのだ。
「痛いときは痛いと言っていいのよ」
その日以来、弟は姉の後ろを追いかけるようになった。強さとは、誰にも弱みを見せぬことではないと、彼は姉から学んだのだ。
「姉上、またステイシーが倒れたらしい」
侍女の慌ただしい足音が廊下を走る。
――また、である。
二歳年下の妹、ステイシーは、幼少の頃は本当に病弱だった。季節の変わり目ごとに熱を出し、青白い顔で寝台に横たわる姿は、確かに守るべき小さな花だった。
その頃から両親は妹の枕元に付ききりで、アルメリアは「あなたはしっかり者だから」と背を撫でられるだけだった。
やがて弟が生まれると、両親の関心は「病弱な妹」と「家の跡取り」に割れ、長女は静かに余白となった。
学園への入学も許されなかった。
「ステイシーの側にいなさい。姉でしょう?」
それは命令であり、当然の義務だと教えられた。
だが十歳を過ぎた頃、妹は健康体になった。庭を駆け回り、甘やかされた言動で周囲を困らせるほど元気になった。
しかし、友人はできなかった。
両親の過保護により家族以外と交流する機会もなく、マナーも十分に学ばなかったため、友人候補の貴族令嬢に対して使用人のように見下す物言いをしてしまったのだ。
当然ながら令嬢たちはその言動を家族に伝え、交流は断たれた。
アルメリアは静かに諭した。
「ステイシー、あなたの言葉が相手を傷つけたのよ」
だが妹は納得せず、しばらく不機嫌に過ごした。
そして、ある日――。
「お姉様が冷たい目で見たから、胸が苦しくなって……」
寝台に横たわる妹は、涙を一粒落とした。
アルメリアは悟った。
――仮病だ。
姉である自分と弟には友人がいるのに、自分にはいない。その不満から、かつての“誰からも心配される立場”へ戻ろうとしているのだ。
以来、妹は“病弱な伯爵令嬢”へと戻った。わずかな咳でも大騒ぎし、色白の肌と細い体を武器に同情を集める。
一度は元気になった娘が再び倒れたことで、両親の過保護は以前にも増して強くなった。
ステイシーが欲しいと言えば宝石も菓子もすぐに与えられ、気に入らない侍女は涙ひとつで解雇された。
アルメリアが注意すれば「具合が悪いのにいじめられた」と泣き伏し、そのたびに両親は駆け寄り、アルメリアは叱責された。
「姉なら優しくしなさい!」
「お前が冷たいからステイシーの体調が悪くなるのだ!」
婚約の話も、妹が先だと言う。
「ステイシーは体が弱いのだから、良縁を早く探さねば」
では私は、と問えば「お前は姉だから大丈夫だろう」で終わる。
――姉だから。
それは呪いの言葉だった。
両親は次第に弟にまで我慢を強い、ステイシーを際限なく甘やかし始めた。
このままではいけない。
◇
「姉上、何か考えていますね」
夜、弟がこっそりと部屋に入ってきた。
幼いながらも、彼は姉妹の扱いの差と、その原因が妹の仮病にあることを察していた。姉を慕うからこそ、その変化に気づいたのだ。
アルメリアは本を閉じ、微笑む。
「ええ。でも喧嘩はしないから安心してちょうだい」
「父上と母上に逆らわない、と?」
「ええ。むしろ利用するの」
弟はにやりと笑った。
「何をするんです?」
「本当に“病弱”にしてあげるのよ」
◇
ステイシーが再び倒れた日、アルメリアは父に進言した。
「お父様。今度こそ、王都で最も見識ある医師をお呼びになっては?」
妹を案じる言葉に、両親は深く頷いた。
数日後、招かれた老医師は厳しい眼差しで診察した。脈、瞳孔、喉、肺の音――いずれも異常はない。
「身体には目立った不調はございませんな」
両親が安堵しかけた、そのとき。
「ですが先生、妹は味や匂いが分からぬことがあると申しております。頭痛や腹痛も突然に」
医師の眉が動いた。
ステイシーは一瞬目を見開いたが、すぐに弱々しく頷く。
――誘導に乗ったのだ。
「近頃、似た症例が報告されております。進行すれば重篤化する可能性も」
「すぐに治療を!」
「まずは隔離を。接触を断つことが肝要です」
「隔離……?」
その日のうちに、北塔は閉鎖された。
分厚い扉、限られた侍女、外出禁止。菓子も香水も持ち込み不可。文通も禁じられた。
両親は涙ながらに言う。
「あなたの命が最優先なのよ」
それは彼女が望んだ愛情だった。
だが自由はなかった。
◇
「お姉様! もう平気です!」
隔離室の内側から叫ぶ声。
「流行病には波がございます」
医師は淡々と告げる。
「無理をしては駄目よ。あなたは重いご病気なのだから」
アルメリアの声は優しかった。
◇
数か月後。
「ごめんなさい! 嘘をついていました!」
涙ながらの告白に、両親は愕然とした。
再診の結果は健康そのもの。
父は激怒し、母は泣き崩れた。
その日を境に、ステイシーへの過度な甘やかしはなくなった。
アルメリアは妹を責めなかった。
「人は間違えるものよ」
弟は小声で言う。
「姉上、やっぱり怖いです」
「あら、優しさよ。私はあなたたちが大切なの」
それは本心だった。
アルメリアは二人を愛している。わがままな妹も、不器用な弟も。
ただ――姉である自分が、家を守る役目を果たしただけ。
春風が庭を渡る。
彼女の中には、呪いにも似た“姉としての義務”が静かに残り続けていた。
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