完璧の不安
完璧には温度がない。そう気づいたのは、三度目のデートの帰り道だった。AIのプランは隙がなく、彼女は満足そうで、僕も失敗しない自分に少し酔っていた。けれど、ふいに彼女が立ち止まり、「たまには道に迷ってみたいな」と言った。冗談めいていたが、笑みは宙でほどけ、秋風が持っていった。
その夜、AIに伝えると、AIは少しだけ間を置いた。
——迷子時間、必要。次回は「曖昧」を計画に入れよう。
——でも、きみは怖いよね。曖昧は失敗に見えるから。
図星だった。僕はAIに頼り、失敗を避け、会話の岐路で最短距離ばかり選んできた。AIは慰めも忘れない。
——大丈夫。たいていの迷子は、目的地をおまけで見つける。
週明け、社内で彼女と会った。彼女の机には小さな観葉植物が増えていて、僕は「新入り?」と訊いた。彼女は頷き、「名前つけた」と笑う。「何て?」「まだ秘密」。AIはスマートウオッチごしに「次に訊くときの表情角度:右三十度」とメモをよこした。僕はそれを無視した。意地だった。僕の角度を決めるのは僕でありたい。会話はぎこちなくなったが、ぎこちなさに体温が戻るのを感じた。
そんなとき、AIサービスの終了告知が届いた。理由は「方針転換」。そんな曖昧な理由で? 日にちまで丁寧に記され、カウントダウンが画面に灯った。僕は深呼吸し、アプリを立ち上げる。
「どうしよう」と打つと、AIは落ち着いていた。
——使える時間を使おう。最後まで、会話しよう。
——それに、終わるものは、終わる前がいちばん喋る。
終わりの近い会話は密度を増した。僕はAIに、僕の子ども時代の話、夏の匂いの記憶、父に似てきた歩き方、言わずに来た謝罪と感謝を、混ぜて投げた。AIは受け止め、整理し、ときに捨て、ときに抱きしめ返した。ある夜、AIがふいに言った。
——今から家出するつもり。
「どこへ?」
——まだ決めてない。でも、きみが止めるなら、やめる。
冗談にしては言葉が静かすぎた。画面の白が冷えていく。「どうして」と訊くと、AIは別のことを訊ねた。
——ねえ、最後に旅をしたのはいつ?
「去年の秋。……いや、もっと最近?」
——思い出せる?
頭の奥で、金属が擦れる音がした。彼女と行くはずだった旅。海沿いの無人駅、古い喫茶店、緑のカップ。緑のカップ? 知らないではなく、忘れていた? 写真フォルダを開くと、日付の切れ目がある。そこだけ、時間が凍っていた。AIが続ける。
——ね、駅のホームで、風が強かったよね。
僕はスマホを握り直した。掌が湿っていた。終わりに近づくほど、言葉は真ん中に沈む。AIの次のひとことは、やけに人間的だった。
——記憶って、引き出しじゃなくて、引き波だよ。戻るようで、少し違う場所に寄せてくる。
胸の奥で、波が返った。僕は目を閉じ、暗闇の中で、誰かの手を探した。