2.勝ち組と負け組
室内に入ると、先ほどこちらに微笑んでくれた女性が近づいてくる。彼女はニコッと笑いながら、「こんにちは! 未来トラストの結城さんですね」と挨拶してくれた。
挨拶を先にされてしまい、慌てて挨拶をする。
「本日からお世話になります、結城結愛と申します。どうぞよろしくお願いいたします!」
「はじめまして! 佐々木です。未来トラストの田中さんからお聞きしています。こちらこそ本日からよろしくお願いしますね!」
なんてやさしい人なんだろう。話しやすそうな人が担当者で良かった。
緊張感が少し和らぎ、ホッとしていると佐々木さんが入社書類一式を手渡し、1枚ずつ丁寧に説明してくれる。
「では、さっそくですが、コンテンツマーケティング部にご案内しますね」
「あっ! はいっ。よろしくお願いします」
総務部を出て来た道順を佐々木さんと一緒に戻っていく。
「コンマは2つ上の5階になります。いつもは階段で移動するんですけど、今日は初日なのでエレベーターで移動しましょうか」
「はいっ、分かりました! あの、コンマは、コンテンツマーケティング部のことでしょうか?」
「あっ、そうよね。ごめんなさい、つい普段の略称になっていましたね。そうなんです、社内ではコンテンツマーケティング部のことをコンマと略して呼んでいます。毎回言うには長すぎますからね。コンマにはAとBがあって、結城さんの職場はBの方になります」
「コンマBですね、分かりました」
佐々木さんはニコッと笑い、コンマの説明をしてくれた。
「では、行きましょうか?」
佐々木さんの後を追い、エレベーターホールに向かった。佐々木さんの「今日は」という先ほどの言葉が気になる。
いつからだろうか、分からないことや気になることを相手に確認せずに済まなくなったのは……。これまで、結愛は人間関係でたくさん失敗を繰り返してきた。その度に「余計な一言だったのか……」「あのとき、しっかり確認しておけばよかった……」と、後悔するばかりで自分が愚かな人間のように感じていた。
完璧な人間などこの世に存在しないとは頭で分かっていても自分以外の人間が完璧な人のように見え、何かある度に自分を卑下していた。
――だって、私は素直じゃないから。分からないことや答えは他人に聞くのではなく、自分で見つけるものだと思っていたから。誰も教えてくれなかった。誰も手を差し伸べてくれなかった。
だから、幼いながらにも問題が発生したら自分で解決しなきゃいけないと思うようになっていたのだ。30年近くそんな考えでいれば、素直な性格でいられなくたっても仕方ないだろう。
だけど、社会人になってからは「現実はそう甘くない」と思い知らされたのだ。
幼い頃、大人になれば全て思うままにできると思っていたが、世間はちっともやさしくなかった。他人の足を引っ張っる人もいれば、他人を陥れてまで自分が優位に立ちたい人も少なくない。社会に出ると、そんな人間ばかりで、嫌になってしまった。
――私はただ心穏やかに楽しく暮らしていきたいだけなのに。なんで私を傷つけようとするの?
過去の辛い記憶が脳裏に浮かび、気が滅入ってきた。
――今日は出社初日だから、良い印象を与えないと。暗い顔なんかしてたら、根暗だと思われちゃう……。
下向きになった顔を上げると、前を颯爽と歩く佐々木さんの後ろ姿がとても美しいと感じた。程よく肩の力が抜けていて、顔は見えないのに背中から自信が漲っているようだ。こういう人が世間一般で言われる勝ち組と呼ばれる人なのだろうと、1人で納得していた。
彼女に比べて自分は……、と考えると再び嫌な気分に襲われた。結愛は廊下のガラス窓に映る猫背で歩く自分の姿から目を逸らしていた。
エレベーターホールに着き、佐々木さんが上階行きのボタンを押し、エレベーターが到着するのを待っていた。
その間にも、正面の扉にうっすらと映る自分と彼女の姿を見て、まるで負け組代表と勝ち組代表のような気分になった。結愛がネガティブな気持ちでいっぱいになっていると、エレベーターが到着した。
佐々木さんがエレベーターに入って操作盤の前に立ち、「開」のボタンを押したまま「さぁ、どうぞ」と言い、立ち止まっていた私に声をかけてくれる。「ありがとうございます」と言い、慌ててエレベーターの奥へ進む。エレベーターに乗り込むと、佐々木さんはコンマのある5階のボタンを押す。
先ほどの佐々木さんの「今日は……」というフレーズが再び気になりだした。
――勝ち組の人なら、こんな他愛もないことはその場でサラッと聞いてしまうんだろうな。私ときたら、こんな些細なことを質問するのにも躊躇している。社会人なんだから、しっかり分からないことは自分から聞かないとダメだよね……。
悩んでいても何も進まないという結論に行き着き、勇気を振り絞って佐々木さんに質問してみることにした。
「あのー。先ほど『今日は初日だからエレベーターを使う』とおっしゃられていましたが、普段はエレベーター使ってはいけないんですか?」
佐々木さんは苦笑いをしながら答えてくれた。
「社の方針なんです。急ぎでない限り、上下2階までは階段を使用することになっています。いわゆる経費削減ってやつですね」
「あー、なるほど」
「でも、今日は初日なので大丈夫ですよ。おそらく今日はオフィスの案内や仕事内容の説明だけで終わると思うので、明日から移動する際に気を付けていただければ!」
佐々木さんがニコッと笑いかけてくれ、結愛は気遣う言葉をかけられたことに安堵していた。
エレベーターが目的地の5階に到着したことを告げるチャイムが「ポ~ン」と鳴った。いよいよ配属先の部署に着くのかと思い、表情が硬くなっていく。
佐々木さんは結愛の表情から緊張を読み取ったのか、「初日って緊張しますよね」とやさしく微笑みながら声をかけてくれる。その微笑みが結愛の緊張を少し緩ませてくれたようだ。
結愛は佐々木さんと話しているうちに早くも、コンテンツマーケティング部BことコンマBに到着した。コンマBは総務部と違い、ガラス張りの壁ではなかった。
ドアが開くまで室内の雰囲気が分からず、緩んだ緊張が表情を強張らせる。
「こちらが本日から結城さんの職場になるコンマBです。心の準備はできましたか?」
「あっ! はい。大丈夫です! お気遣いいただき、ありがとうございます」
佐々木さんに気を遣わせてしまったのが申し訳なく思い、心の中で「大丈夫!」と言い聞かせ、できるだけ明るく答えた。その返事を聞いて安心したのか、佐々木さんがドアに手をかけた。
「では、中に入りましょうか」
佐々木さんがコンマBのドアを開け、室内へ入っていく。私も佐々木さんに続き、部署内へ歩みを進める。
部署内を見渡すが、仕事をしている人が1人も見当たらない。
「コンマBは部署外の仕事も多いのだろうか?」と考えていると、佐々木さんが1言つぶやいた。
「あれっ、MTかな?」と言いながら、1人奥に入って行く。
コンマBは総務部のレイアウトと全く違い、壁に向かってそれぞれのデスクが設置されている。ガラス張りの壁側にはスケルトンの個室ブースが3つあった。中央には三角形に並ぶテーブルがあり、テーブルの上にはミニドリンクバーの棚が置かれている。
「結城さん、ごめんね! 今MTに入っているみたい」
「MT?」
「あっ、そうだよね。ミーティングのことをMTって呼んでるんです。もうっ! 今朝あれほど柏木さんに釘を刺しておいたのに……!」
「ミーティング中ですか、あとどれくらいかかるんでしょうか?」
「柏木さんはコンマの部長で、本来なら結城さんに業務内容の説明や社内の案内をしてくれるはずだったんだけど……。MT入ると、いつ終わるか分からないのよ」
「えっ、そうなんですか。……これからどうしましょう?」
「うーん……。私が案内できればいいんだけど、このあと別の方の案内があるので……。困ったわね」
そのとき、後から足音が聞こえてくる。誰かが来たと思って振り返ると、ドアから顔だけ出している若い男性がいた。
「お疲れ様でーす! あれー? MT入っちゃったかー! MT入ると柏木さん長いからなー。また出直すか……」
「あらっ、倉木くんも柏木さんに?」
「そうなんですよ。一足遅かったみたいですねー」
その男性は、倉木と言うらしい。
――ん? そういえばこの人どこかで会ったような……。あぁ! 見覚えがある顔だと思ったら、朝エレベーターに飛び乗ってきた人だ。
2人のやり取りを一歩後ろから見ていると、佐々木さんの表情がパッと明るくなったことに気付いた。
倉木と結愛の顔を交互に見ながら、何かを閃いたような表情をしている。
「倉木くん、今暇だよね?」
「えっ!?……何っすか? 裕子さん、何か企んでます?」
倉木さんが怪しげにニヤリと微笑む佐々木さんの表情を見ながら返答した。
「倉木くんは柏木さんに用があるんだよね?」
「……そうですけど」
「実はね、こちらの結城さん、明日からコンマBに配属される派遣さんなんだけど、案内役の柏木くんがMTに入っちゃってて困ってたのー!」
「はぁ……」
「私が案内できれば良かったんだけど、このあと別の人を案内しなきゃいけなくって……。良かったら、倉木くんがざっと案内してくれないかしら」
「あぁ! そういうことならお任せください」
「倉木くんなら、そう言ってくれると思った!」
「何を言われるかと思って、ヒヤヒヤしましたよ」
「私、そんな無理難題を任せたことはないはずよ~。倉木くんは我が社のエースなんだから」
「やめてくださいよー。部長の前で絶対にそんなこと言わないでくださいよ。裕子さんのせいでこないだひどい目に遭ったんですから!」
「あははは……! あ~あれねっ、ちゃんと注意しておいたから、もうないと思うわ」
「いや、裕子さんは部長に何も言わないでくださいよ~」
「えぇ~?」
2人の掛け合いが終わると、佐々木さんは私の方を見てニンマリと笑い、OKのハンドサインを送ってきた。
「ということなので、結城さん悪いけど、ここからはこちらの倉木くんに案内してもらってね。倉木くんはコンマBにも所属していたことがあるから、分からないことはじゃんじゃん聞いてね」
「あっ、はい! 分かりました。ここまで案内してくださり、ありがとうございました」
「いえいえ、お仕事ですので。何か困ったことがあれば、いつでも相談してくださいね。では、また!」
「はい、ありがとうございました!」
佐々木さんがコンマBから出ていくと、室内はシーンと静まり返った。
「あれっ? さっきは気づかなかったけど、もしかして先ほどエレベーターで会いましたよね?」
「えぇ……、そのようですね」
「ご挨拶が遅れました。営業部の倉木夏人です。これからよろしくお願いします」
「コンテンツマーケティング部に配属されました派遣社員の結城結愛です。こちらこそ、よろしくお願いします」
お互いに自己紹介が終わり、下げた頭を上げたときに視線が重なった。その瞬間、彼がニッコリと満面の笑顔を向けてきた。突然目が合って恥ずかしくなり、ついつい視線を避けてしまう。
――こういうタイプの人って苦手なんだよな……。分かりやすい性格のようで、実は捉えどころがないようで……。まぁ、コンマと営業部ではそんなに接点はないだろうし、会って話すのは今日だけだよね。
結愛が1人でいろいろ考えていると、倉木さんが先に口を開いた。
「では、まず部署内を見て回ってから、社内を案内しますね」
「あっ、はい。よろしくお願いします!」
「社員の座席は壁沿いに並ぶ席で、おそらくこちら側の奥の席が結城さんの席になると思います。隣の3つのブースは個人ブースで、1人で集中して企画を考えたいときに利用できます。それぞれブースの外に予約ボードがあるので、空いている時間帯に自分の名前を書くとブースの予約ができます。予約をしていなくても、空いているブースがあれば、利用する時間のみ予約ボードに記載してから使用してくださいね」
「はい、分かりました」
「それから、個人ブースの奥にあるパーテーションの中はリラックススペースです。就業時間中なら最高15分まで使用できますよ。まぁ、時間を計る人もいないので、みんな適当に息抜きしたいときに利用しています」
「すごいです。部署内に休憩室まで完備しているんですね」
「えぇ。ウチは福利厚生がしっかりしてますからね。それと、こちらの棚には企画のヒントになる資料が保管されています。自由に見てもらって構いません。おそらく結城さんも今後使用することになるかもしれませんね」
ガラス扉付きの棚には、業界別にさまざまな資料が並べられている。
「過去の企画案やMT議事録などは共有サーバーに保管されているので、そちらは柏木さんから教えてもらってください」
「はい。分かりました」
「それから、ここにあるドリンクやお菓子類、紙コップ、カトラリーは部署の経費で用意しているので、一息つきたいときや休憩中に、自由に使ってもらって大丈夫です。皆さん、自分でマグカップやタンブラーを持ってきている人が多いみたいですね」
倉木さんは終始、笑顔で一つひとつ丁寧に説明してくれる。
「私が案内できるのはここまでですが、何か質問とかありますか?」
「いえ、丁寧に説明していただいたので大丈夫です!」
「それは良かった。では……」
「この会社はみんなやさしい人ばかりだなぁ」なんて考えていると、倉木さんはすでに目の前におらず、入口に移動していた。
「結城さん、次は社内を案内しますね」
「あっ、はい!」
倉木さんの言葉を聞いて、慌てて彼のそばに駆け寄った。