敵だった君を、私は助けた。
戦争は、もうどれほど続いているのだろう。
人間と獣人──異なる種族が果てしなく争うこの世界で、カナは十五歳にして、家族をすべて喪っていた。貧しい戦場近くの村で、少女はひとり、ぽつりと生きていた。
その夜は、風がなかった。静寂が張りつめていたからこそ、軋むような物音が耳に届いた。
目を覚ましたカナは、護身用の古びた剣を手に、そっと戸を開けた。そして──息をのんだ。
倒れていたのは、血に濡れた青年。胸元から溢れる赤が、土をどす黒く染めている。
「ひ、人……?」
近づいたカナは、はっとした。青年の頭に、犬の耳がついていたのだ。
獣人──敵。
その言葉が喉元まで込み上げてきたとき、青年がわずかに身じろぎし、苦しげに息をした。その姿が、かつて飼っていた老犬にどこか似ていた。
「助けなきゃ……」
それは、衝動だった。理屈ではなく、命が命を呼び覚ます、何か。少女は震える手で青年を引きずり、家の中へと運び込んだ。
彼は深く傷ついていた。だがカナには、亡き祖母から学んだ薬草と手当ての知識があった。彼女は必死で調合し、看病を続けた。誰にも見つからぬよう、隠して。
そして数日後、青年は目を覚ました。
無言で目を見開き、自分の傷に手を当て、カナを見て──戸惑い、警戒し、そして小さく、礼を口にした。
「……ありがとう」
それが、彼の最初の言葉だった。
青年の名は「ロウ」だった。寡黙で、多くは語らなかった。だが不器用なほど真っ直ぐで、カナの手伝いを申し出た。耳としっぽを隠し、人間の従兄弟として村に溶け込んだ。
ぎこちなかった生活は、次第にやさしいものへと変わっていった。
あるときロウが見せた笑顔に、カナは胸を締めつけられた。その奥に、痛みと孤独と、それでもなお優しさを秘めた光があった。
だが、幸せは長く続かなかった。
兵士が村に現れたのだ。家探しをしているという噂が広まり、カナはロウを隠し部屋へと導こうとした。だがその夜──彼は姿を消した。
置き手紙すら、なかった。
カナの心には、冷たい風が吹いた。彼がいない日々は、空虚で、息苦しかった。
数日後、一人の若い兵士がカナの家に現れた。目に映る彼女の沈んだ顔を見て、兵士は誤解した。
「戦争……つらいですよね。あいつら、獣人どもは化け物ですから……」
そう言って、兵士は語り出した。犬の獣人──“狂戦士”の話を。
「聞いたことあります? たった一人で百人以上殺したって噂の奴。ここしばらく戦場に現れなかったけど、最近また姿を見せ始めたらしいんです。背が高くて、犬の耳があって、牙をむいて……」
それを聞いたとき、カナは凍りついた。
──ロウだ。
それでも、彼の目の優しさを思い出すと、憎む気持ちにはなれなかった。むしろ、涙が溢れた。
兵士は慌てて謝り、逃げるように去った。
カナは残された家で、胸に手を当てた。
「ロウ……なぜ、戻ってこなかったの……?」
それから一ヶ月が過ぎたある夜、また物音がした。
カナは剣を手に、そっと戸を開け──そして、凍りついた。
そこには、ボロボロの服に血を滲ませたロウが立っていた。目は赤く、獣のような殺気を帯びていたが、カナを見た瞬間、それが消えた。
「ロウ……!」
「来るな」
彼は弱く言った。
「俺は……人を殺した。お前の仲間を、何十人も。だから……来るな」
「でも、あなたは……私を殺さなかった」
カナは涙をこらえ、静かに言った。
「あのとき、私があなたを助けたのは、あなたが“敵”じゃなかったから。苦しんでいた“命”だったから。今も同じ。あなたは、あなたよ」
ロウは崩れるように膝をついた。
「……戻りたかった。だけど、もう……」
カナはそっと彼の手を取った。
「戻っていい。私は、待ってた」
ロウの肩が震えた。犬の耳が垂れ下がる。彼は泣いていた。
彼は再びカナの家で静かに暮らし始めた。
しかし、その数日後。人間と獣人との間で、停戦交渉が始まった。
ある夜、ロウは言った。
「俺が、交渉の使者になる。命をかけてでも、終わらせたい。この戦争を」
カナは、反対しなかった。ただ、小さな包みに薬草を詰めて、彼に渡した。
「必ず、生きて帰ってきて」
ロウは黙って頷いた。そして、去っていった。
──その後、戦争は終わった。
停戦が成立したのだ。多くの血を流した末に、ようやく。
交渉に立った獣人の使者は、命を狙われながらも決して武器を取らず、最後まで対話を貫いたという。
その名は、歴史には記されていない。
けれど、カナの家の裏庭には、一輪の白い花が咲いていた。
それは、彼が去る前に、そっと植えたものだった。
そしてある春の日。カナがその花に水をやっていると、背後から、あの優しい声が聞こえた。
「……ただいま」
カナは振り返り、声にならないほどの涙で、微笑んだ。
(了)