表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

敵だった君を、私は助けた。

作者: 背骨

戦争は、もうどれほど続いているのだろう。


人間と獣人──異なる種族が果てしなく争うこの世界で、カナは十五歳にして、家族をすべて喪っていた。貧しい戦場近くの村で、少女はひとり、ぽつりと生きていた。


その夜は、風がなかった。静寂が張りつめていたからこそ、軋むような物音が耳に届いた。


目を覚ましたカナは、護身用の古びた剣を手に、そっと戸を開けた。そして──息をのんだ。


倒れていたのは、血に濡れた青年。胸元から溢れる赤が、土をどす黒く染めている。


「ひ、人……?」


近づいたカナは、はっとした。青年の頭に、犬の耳がついていたのだ。


獣人──敵。


その言葉が喉元まで込み上げてきたとき、青年がわずかに身じろぎし、苦しげに息をした。その姿が、かつて飼っていた老犬にどこか似ていた。


「助けなきゃ……」


それは、衝動だった。理屈ではなく、命が命を呼び覚ます、何か。少女は震える手で青年を引きずり、家の中へと運び込んだ。


彼は深く傷ついていた。だがカナには、亡き祖母から学んだ薬草と手当ての知識があった。彼女は必死で調合し、看病を続けた。誰にも見つからぬよう、隠して。


そして数日後、青年は目を覚ました。


無言で目を見開き、自分の傷に手を当て、カナを見て──戸惑い、警戒し、そして小さく、礼を口にした。


「……ありがとう」


それが、彼の最初の言葉だった。


青年の名は「ロウ」だった。寡黙で、多くは語らなかった。だが不器用なほど真っ直ぐで、カナの手伝いを申し出た。耳としっぽを隠し、人間の従兄弟として村に溶け込んだ。


ぎこちなかった生活は、次第にやさしいものへと変わっていった。


あるときロウが見せた笑顔に、カナは胸を締めつけられた。その奥に、痛みと孤独と、それでもなお優しさを秘めた光があった。


だが、幸せは長く続かなかった。


兵士が村に現れたのだ。家探しをしているという噂が広まり、カナはロウを隠し部屋へと導こうとした。だがその夜──彼は姿を消した。


置き手紙すら、なかった。


カナの心には、冷たい風が吹いた。彼がいない日々は、空虚で、息苦しかった。


数日後、一人の若い兵士がカナの家に現れた。目に映る彼女の沈んだ顔を見て、兵士は誤解した。


「戦争……つらいですよね。あいつら、獣人どもは化け物ですから……」


そう言って、兵士は語り出した。犬の獣人──“狂戦士”の話を。


「聞いたことあります? たった一人で百人以上殺したって噂の奴。ここしばらく戦場に現れなかったけど、最近また姿を見せ始めたらしいんです。背が高くて、犬の耳があって、牙をむいて……」


それを聞いたとき、カナは凍りついた。


──ロウだ。


それでも、彼の目の優しさを思い出すと、憎む気持ちにはなれなかった。むしろ、涙が溢れた。


兵士は慌てて謝り、逃げるように去った。


カナは残された家で、胸に手を当てた。


「ロウ……なぜ、戻ってこなかったの……?」


それから一ヶ月が過ぎたある夜、また物音がした。


カナは剣を手に、そっと戸を開け──そして、凍りついた。


そこには、ボロボロの服に血を滲ませたロウが立っていた。目は赤く、獣のような殺気を帯びていたが、カナを見た瞬間、それが消えた。


「ロウ……!」


「来るな」


彼は弱く言った。


「俺は……人を殺した。お前の仲間を、何十人も。だから……来るな」


「でも、あなたは……私を殺さなかった」


カナは涙をこらえ、静かに言った。


「あのとき、私があなたを助けたのは、あなたが“敵”じゃなかったから。苦しんでいた“命”だったから。今も同じ。あなたは、あなたよ」


ロウは崩れるように膝をついた。


「……戻りたかった。だけど、もう……」


カナはそっと彼の手を取った。


「戻っていい。私は、待ってた」


ロウの肩が震えた。犬の耳が垂れ下がる。彼は泣いていた。


彼は再びカナの家で静かに暮らし始めた。


しかし、その数日後。人間と獣人との間で、停戦交渉が始まった。


ある夜、ロウは言った。


「俺が、交渉の使者になる。命をかけてでも、終わらせたい。この戦争を」


カナは、反対しなかった。ただ、小さな包みに薬草を詰めて、彼に渡した。


「必ず、生きて帰ってきて」


ロウは黙って頷いた。そして、去っていった。


──その後、戦争は終わった。


停戦が成立したのだ。多くの血を流した末に、ようやく。


交渉に立った獣人の使者は、命を狙われながらも決して武器を取らず、最後まで対話を貫いたという。


その名は、歴史には記されていない。


けれど、カナの家の裏庭には、一輪の白い花が咲いていた。


それは、彼が去る前に、そっと植えたものだった。


そしてある春の日。カナがその花に水をやっていると、背後から、あの優しい声が聞こえた。


「……ただいま」


カナは振り返り、声にならないほどの涙で、微笑んだ。


(了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ