第5話 聖女リーリア ⑤
風呂上がりに寛ぐときの簡易な長衣を着て、濡れた髪も乾かさないまま浴室を出る。
自室に戻るのではなく、城の外に向かった。
「お待ちください、姫様!」
リーリアの後ろからミランダやほかの侍女、それに護衛が追いかけてくるが、一切無視をした。
城の外に出て、足早に裏庭を抜け、そして、その先にある泉へと向かった。
人族と魔族が暮らすこの大陸には、大河はない。代わりというわけではないが、大陸中に、大小さまざまな大きさの泉が点在している。長い年月をかけて、雨水が岩を溶かし、できた穴が洞穴群を形成し、地下水が溜まったものだ。
王城の奥のこの泉には、他の泉と異なり恐ろしく透明度が高い。
故に、雨の神が宿ると信じられていて、干ばつになると、壺や瓶、器、宝玉、更には美しく若い娘を供物として捧げ、雨乞いの祈りをしてきたのだ。
聖女というのは、元々はその捧げられた娘を指した言葉だった。
が、長い年月の間に、いつの間にか聖女の意味が異なっていった。
雨乞いのための犠牲の乙女。
それが、魔族との戦いの中で、いつの間にか勇者を産む者に変化していった。
確かに古い歴史書には、聖女とは雨乞いの乙女だと書かれていた。
が、しかし。その記載は次第に抹消された。
人々は、時として、願いのために、事実を歪ませる。
更に、その事実を歪ませたものが、王や為政者であれば。
民衆は簡単に嘘を真実だと妄信するだろう。
聖女が、勇者を産み、その勇者が、魔王を、魔族を打ち滅ぼし、そして人族は永遠に繫栄する。
聖女とは、既に雨乞いの乙女ではなく、勇者を産む者。
そう、告げられ、それが、今では民の誰もが信じるようになった。
根拠のない馬鹿げた妄信。
だが、その妄信を増長させた一因は、リーリアにもあるかもしれない。
父である王に、聖女たれと強制され、意味も分からずに、聖女として人々の前に立ち続けてきた。聖女の名のもとに、魔族との戦いで負傷した兵を、魔法で治癒し、町や村を結界で守る。
カイエンの命令の元、リーリアは、そんなことを行ってきた。
例え治癒の魔法が、弱いもので、多少の傷しか治せないとしても。
例え結界を張ったとしても、それが持つのがわずかな時間でしかなかったとしても。
聖女がいる。
だから、守られる。
そう思わせるように、カイエンは仕組んできた。
幼いリーリアは、民から感謝を向けられているのだから、自分はよいことをしているのだと思い、王女として、聖女として、民に安心感を与えるようにと行動してきた。
してきてしまった。
嘘の、安心感。
根本的に、魔族を排除するような力などはないのに。
その場限りの、対処療法的な、無駄な努力。
元々の前提が、嘘、なのだから。
その場限りの嘘に、更に嘘を重ねて。
叶うはずのない希望に縋りついて、何の意味があるというのか。
「王女としての義務……は、あった、かもしれない。そのために、わたくしなりに、尽力はしてきたつもりだった。だけど、それを無視し、裏切り、身勝手にわたくしを凌辱させた。わたくしは、わたくしの尊厳を守る。心を痛ませることなく、お前たちを捨てるわ」
どのみち、既に、人族が勝つ見込みなど、ない。
遅かれ早かれ滅亡するのであれば、それをリーリアが速めて何が悪い。
勇者が、いつか、魔王を、魔族を、打ち滅ぼすという希望を抱きながら滅亡するか。
それとも、何の希望もなく、絶望と恐怖に塗れながら、滅びるのか。
ただそれだけの、違い。
そして、滅びの時期が、遅いか早いかだけの、違い。
ならば、人族など、さっさと滅びるがいい。
人族がいなければ、魔物は魔物ではなく、単にこの世界の生き物でしかない。
魔王だって、魔物だって、人族がいなければ、争いなんて起こさない。
魔物という名の生き物が、この世界でしあわせに暮らすだろう。
それの、何が、悪いのか。
考えているうちに泉に着いた。
昼の間は太陽の光を反射して、青く透明に輝く泉の水も、今はもう暗い。真夜中の空のような水面。けれど、その水面には、今日は月が写っていた。
満月。漆黒の中に輝く白銀の円。
リーリアは泉に映る月を見て、それから夜空を見上げた。
「美しいわね……って、あら?」
目を凝らす。
やや不鮮明ながらも、空には虹が浮かんでいた。
月虹。
太陽の光よりも弱い月の光によってできる虹は、色彩が淡く、白っぽく見える。
「月虹を見た者には、この世で最高の祝福が訪れるなんて迷信もあるけれど。ふふっ。わたくしがこれから行うことがしあわせにつながる……なんて」
死んでもいいと思ったほど、ささくれた心に、少しだけ、穏やかさと冷静さを取り戻せた気がした。
「そう……よ。わたくし、死にたいわけじゃあないのよ……。魔王にこの身を捧げるなんて、自己犠牲もしたくはない。わたくしだって、自由に、しあわせに、生きたかった。だけど、わたくしのしあわせなど、誰も考えない。身勝手に、わたくしを扱い、身勝手に、希望をかけて……」
王女としての、義務だから。
聖女にさせられてしまったから。
自由など、欠片もなく。
尊厳も排除されて。
その結果が、これ。
どれほど民のことを考えたところで、カイエンは、リーリアの尊厳を守らない。子を産む道具としかみなさない。
そして、人族はきっと、間もなく滅ぶ。
「人族が滅ぶ責任は、王であるお父様が取ればいい。わたくしは、これまで王女として尽くしてきた。なのに、わたくしの尊厳を足蹴にしたのは、お父様。わたくしはもうこれ以上、わたくしを蹂躙などされたくない」
月の光。月の虹。
そして、この泉の力を借りる。
「円は、循環。虹は、架け橋。命を捨てるよりも、命を使う……」
リーリアは頷くと、そのまま、躊躇することなく泉に足を踏み入れた。
「姫様っ!」
ここまでは大人しく後をついてきただけのミランダや護衛が、リーリアに手を伸ばす。
だが、弱いとはいえ結界を張ることができるリーリアを捕まえることはできない。
見えない盾のようなものに、ミランダも、護衛たちも弾かれて、泉にはいることはできなかった。
リーリアは、彼らには構わずに、泉の中央付近まで進む。水深は腰の深さ程度。体が、水に体温を奪われて、ゆっくりと冷えていく。
「さあ……、始めましょう」