第17話 勇者フリーダ ③
「……ごめんなさい。いつも、ずっと……」
泣きながら、リーリアは呟くように言った。
「リーリアが謝るようなことは一つもないんですよ」
ラッセルがリーリアを抱き寄せて、その背を撫でる。安心するように、慈しむように。
「つらいこと、心の中に溜めないで、言って下さい。絶対になんとかして差し上げますから」
ラッセルも魔王も、いつもリーリアに優しい。
リーリアはそれを享受しているだけ。何も返せない。それがリーリアには心苦しい。
「いいんですよ」
ラッセルが繰り返した。
「リーリアはずっと、重たい荷物を無理やり背負わされて、弱音も吐けずにずっと頑張ってきたんですから。もう、わがまま言っていいんです」
「……だけど、わたくしに、その重たい荷物を背負わしたのは人族たち。人族の責を、魔族であるラッセル様たちが担うのはおかしいでしょう?」
「その人族を滅ぼしたのは私と魔王様ですから」
気にしなくていいんですよ、とラッセルは笑う。
「それに、責任云々ではなく。魔族は基本的に自分のやりたいことしかやりません。私が、リーリアを甘やかしたいから甘やかす。ただそれだけです」
「どうして……」
甘やかされるほどの価値は、自分にはない。リーリアはそう思っている。
石化から解かれて、フリーダを産んで。出血が止まらずに、体はどんどん弱っていった。今ではもう、ベッドから立ち上がることもできずにいる。食事も、身の回りの世話も、すべてラッセルの介護なしにはいられないほどに。
本来なら、既に死んでいるのだろう。それを、リーリアは自身の弱い治癒能力で、なんとか命を繋いでいるのだ。
死にたくない。
その思いで、必死に。
だけど、ラッセルに、魔王に、迷惑をかけ。
産んだ娘の世話も全くできずに、魔王にまかせっきりで。
それでも、死にたくない。
そんなリーリアに、ラッセルは優しく言う。
「リーリアのことが好きだから、ですよ」
「ラッセル様……」
好き。
そんな言葉に、何も考えずに、ラッセルの胸に飛び込めたら、しあわせだとリーリアは思った。
だけど。
「わたくし……、ラッセル様の好意を受け取ることはできません」
優しさを受け取るだけの価値は、自分にはない。
リーリアはそう思っている。
「どうして?」
「だって、何も返せない。甘やかしていただいて、大切にしていただいて、産んだ娘の世話も、わたくしの世話もすべて、何もかもお任せして、頼りっぱなしなのに……。これ以上、ご迷惑をかけてしまうなんて、そんなの……」
「私に悪いと思うなら、遠慮なんかしないでくださいよ。さっきも言ったでしょう? 私も魔王様も、自分勝手なんです。やりたくないことはやりません」
きっぱりと、言った。
「あの月虹の夜。リーリアの願いが聞こえてきました。魔王様も私も……そうですね、最初は確かに可哀そうな王女様に対する同情の気持ちでしたよ。あとは、同情を超えるほどの憤りですかね。人族など滅んだほうがいいだろうって。これも、私と魔王様が勝手に思ったことで、リーリアのために、というわけではありません」
自由気ままな魔族に生まれ。
魔王は魔族を統率する気もなく、食事以外に興味がなく。
ラッセルも、そんな魔王の世話係として、側にいただけ。
人族の根拠のない妄信など胸糞悪い。
妄信をリーリアに背負わせたところで、人族が救われるはずもない。
だったら、さっさと滅ぼしてやれ。
人族が滅べば、少なくとも、可哀そうな王女様の憂いは晴れる……かもしれない。
勝手に、そう、思った。
そして、人族を滅ぼした。
「繰り返し言いますけど、私も魔王様も自分勝手にやりたいことしかやりません。だから、リーリアも、身勝手でもなんでも、やりたいことだけをやってよいのですよ。それを、叶えたいと思えば、私も魔王様も、勝手に願いを叶えます。リーリアのためではなく、私たちがやりたいからやる。それだけなんです」
「ラッセル様……」
「でも言葉にしてもらえないと、リーリアの願いはわからない。だから、言って下さい。あなたの願いは何ですか?」
それでもしばらく、リーリアは黙ったままでいた。
ラッセルは、先を急かさなかった。
自分から、話したくなったら話せばいい。
だから、抱き寄せたまま、ラッセルはずっとリーリアの背を撫でていた。
しばらくの後、リーリアは言った。
「わたくし……多分、もうすぐ……命が尽きると……思います……」
ここまで生きれ来られたのも奇跡に近い。
フリーダが生まれて、向けてくれる笑顔がかわいくて。
その笑顔を見ていたいと思った。
望みもしない子が生まれて、その子を愛することができて良かったと思った。
体の弱いリーリアでは、満足にフリーダの世話をすることができなかったけれど、魔王とラッセルが、楽しそうにリーリアを育ててくれたから。
しあわせだ……と、感じていた。
人族が滅んだゆえの幸福であったとしても。
「いくら、治癒をかけても、もう……きっと」
「リーリア」
「両手で、水をすくっても、指の間から、水がこぼれて行ってしまう……。わたくしが、わたくしの体をいくら治癒したところで、そのようなものです。きっともう、水をすくう力もなくなっていく……」
リーリアは自分の両手を見る。そこにはもう水も、命も、何もないとばかりに。
「引き延ばしても、限度がある。わたくしは、死ぬ……。それが、怖いんです」
死んだら、フリータの成長を見ることはできない。
もっとずっと傍にいたかった。
愛していると言いたかった。
死ねば、もうそれはできない。
「ラッセル様……。どうか、フリーダをお願いします。あの子には、人族のしがらみも何も関係なく、自由に生きてほしいんです」
「大丈夫。私も魔王様も、フリーダがかわいくて大好きですよ。ちゃんと、ずっと守ります。さいわいにして、人族よりも魔族のほうがずっと寿命が長い。フリーダがおばあちゃんになっても、私たちはこのままの姿です」
「ありがとう……。フリーダがしあわせなら、もう、わたくしはそれでいいの……」
リーリアの言葉に、ラッセルと少しだけ、眉根を寄せた。
「フリーダはしあわせにしますよ。それではあなたは? リーリア?」
「わたくし……?」
「そう、リーリアのしあわせは何ですか? あなたがしあわせになるためには、私は何をすればいいですか?」
「わたくし……、今は、もう……しあわせなんです……。でも……」
人族が滅んで。もう、眠らされているうちに、身を汚されるようなことはない。
妄信を押し付けられて、それを背負わされることもない。
生んだ子を、愛せて、その子の成長を慈しめる……。
ラッセルと魔王に、支えられてではあるが……。
そう、今は、しあわせなのだ。
今は。
まもなく、そのしあわせはなくなるのだけれど……。
リーリアは震えた。
「……死んだら、どうなるのでしょう。無になって、消え去るだけなら、いい。だけど、死んだ魂が、もしも、同族の元へと向かうのなら? お父様や民に……わたくしは……」
近頃夢を見るのだ。
死んだあと、魂が、人族の元へと行き、そして、責められる。
どうして、人族が滅びる前に、勇者を産まなかったのか。
王女で聖女だというのに、どうして人族の滅びを願ったのか。
生んだ勇者に、どうして魔王を殺させないのか。
どうしてどうしてどうして……と、毎夜のように、夢で、責めたてられる。
「死ぬのが、怖いんです……。もう、人族の者たちに責任を負わされるのは嫌なの……」
王女なのに。
ニセモノとはいえ、聖女と称したことを否定できなかったのに。
魔王を打ち倒す勇者を産むのではなく。
魔王に、人族の滅びを願った。
人族から、恨まれ、責めたてられても仕方がない。
怖い。今、人族が滅んだあとで、ようやく安心した暮らしを送り、しあわせさえ感じられたというのに。
もう間もなく、リーリアは死ぬ。
震えながら告げたリーリアに、ラッセルは何の気負いもなく言った。
「大丈夫ですよリーリア。リーリアが死ぬのなら、私がお供しますから」
「え……?」
「一緒に死にます。死んだ後の世界があるのなら、そこで、私が滅ぼした人族が全員、リーリアの前に現れたとしても、もう一度、今度は魂ごと滅ぼして、二度とリーリアの前に出て来られないようにします。それから、生まれ変わりとかがあるのなら、私はリーリアの側に生まれますよ。ずっと、守りますから、安心してください」
まるで、ちょっとそこまで散歩にでも行きましょう……というような、気楽な口調で、ラッセルは言った。
「私の魂と、リーリアの魂をちょっと結びつけるだけで、未来永劫側にいられるようになりますから。簡単です」
「ラ、ラッセル……様……」
「だからね、安心していいですよ。フリーダの側には魔王様がいますし、リーリアの側にはずっと私がいますから」
リーリアは茫然としているうちに、温められた空気のようなものが、リーリアを取り巻き……そして、その温度がすうっと体の中に入ってきた。
「な、何ですか……今のは……」
「私とリーリアの魂を結び付けました」
「え、ええっ⁉」
「もう、結び付けちゃったので、ほどけません」
「そ、そんな……。ほどいてください!」
「嫌ですか?」
「嫌ではないですけど! そんなことをしたら、ラッセル様、わたくしと一緒にすぐに死んでしまいます!」
「ああ、いいですねえ……」
うっとりと笑うラッセルを、信じられないとリーリアは見た。
「言ったでしょう。魔族なんてみんな身勝手なんですよ。私はリーリアと一緒にいたい。魔王様のお世話係を放棄してでもね」
ま、魔王様にも申し訳ないですけど、きっと魔王様だって私を止めないですよ。食事はまあ、まだ私のほうがうまく作りますが、魔王様だって、それなりのものは作れるようになりましたし、不安はないですよ。
ラッセルが、気楽に告げる。
大丈夫。
やりたいことをやるだけです。
身勝手でいいんです。
リーリアが嫌と言っても、付いて行きますからね。
軽い口調で。
気軽に。
「リーリアも、だから、身勝手に言って下さい。死ぬのは怖い。いくらでも言って下さい。その度に私は大丈夫ですよと伝えます。ずっと傍にいますから、安心してください……と」
「ラッセル様……」
いいのだろうか。身勝手に、ラッセルにそばにいてほしいと告げることは。
何も、返せないのに。
してもらうことばかりで、気持ちすら、返せないでいるのに。
だけど。
「身勝手を……、わたくしも、言っていいの……?」
「はい。黙ったままが一番困ります。あなたが何を望むのか、わからないから。わがままでも身勝手でもなんでもいい、言って下さい」
リーリアは震える指を伸ばす。
両手で、ラッセルの頬にそっと手を触れる。
左目には黒の眼帯。右目はブラウンの、落ち着いた優しい瞳。
「身勝手な女の、身勝手な願いを……口にしていいの……?」
「もちろんです」
記憶に残っていないとはいえ、知らない間とはいえ、穢された身で。
生まれてきたフリーダは、かわいい。
だけど、フリーダが生まれるために、人族の王や剣聖やマリエからされたことは……、今も、リーリアの心と体の奥底に、汚泥のように残っている。
人族の民から、兵から、聖女だと、信仰されたことも、同様に。
こんなわたくしには、優しくされる価値はない。
苦しんで、死んで。それが当たり前。
そんなリーリアの想いを、ラッセルは言うのだ。
わがままでいい。
身勝手でいいのだと。
誰も、皆、リーリアに重たいものを背負わすばかりで。
リーリアを背負ってくれようとはしなかった。
ラッセルと魔王だけが、リーリアを助けてくれた。
「言っていいのなら……」
「言って下さい」
リーリアは、言った。
「わたくしはもう、すぐに、死にます。一人で死にたくない」
「はい。ご一緒しますね」
即答だった。
「人族の、誰にも会いたくない」
「もちろん、守ります。会わせたりしません」
「ラッセル様」
「はい」
「ありがとう……」
好きとは、言えない。
言う資格はないと、この期に及んでも、リーリアは思っている。だけど。
一緒に死んでくれるというラッセルを、手放したくない。
わがまま。
身勝手。
それを、すまなく思う。
ごめんなさい。
でも、一人は嫌。怖い。誰か助けて。怖いの。
八歳で、母親を亡くした。
その時、リーリアは母の死を嘆くことができなかった。魔物に追われ、逃げ惑って、母親が死に、護衛が死に、どうやって逃れたのかわからずに、気がつけば、教会にいて。そこに、怪我を負った民や兵士が大勢いた。魘されて、茫然として、呻いて、喚いて。怨嗟の声、血の匂い。
王女がいるとわかったら、皆、途端に縋ってきた。
助けてください。
だけど、母親を亡くしたばかりのわずか八歳の娘に何ができるというのか。
王女。その肩書だけで、民を救えるような魔法でも使えるというのか。
リーリアが出来たのは、悲しみやつらさを見ないふりして、毅然としたフリで、怪我人たちに弱い治癒魔法を、かけ続けるだけだった。
なのに、その結果、聖女と呼ばれ。その聖女呼ばわりを、父である王が、公表した。
聖女ではない、単に弱い治癒能力があるだけ。
嘘は、言いたくない。
わたしは、ニセモノなの。聖女ではないの。
苦しい思いを、受け止めてくれる相手はいなかった。
ただ一人、ラッセルだけが、苦しい思いを吐き出して、身勝手を告げていいと言ってくれた。
しかも、好きだとまで。
好きという感情は、返せない。
優しくしてくれてた分も、世話になった分も、何一つ返せないというのに。
それでいいと、ラッセルは、笑う。
「……死んで、すべて忘れて、生まれ変わって……。もし、そんなことがあるのなら、その先の人生で、わたし、受けた恩をラッセル様に返すから……」
「はい。次の人生でも必ず会いましょう」
「ラッセル様の、お命も、人生も、何もかも、わたくしが、いただいて、いいですか……?」
ラッセルはこれ以上もなく、しあわせそうに微笑んだ。
「全部、あなたに差し上げますよ、リーリア」
「ありがとう……」
身勝手な女の、身勝手な願い。
だけど。
リーリアは、ラッセルの腕の中で、うっとりと目を閉じた。
もう、悪夢は、見なかった。