第1話 聖女リーリア ①
「和睦だと⁉ ふざけるな!」
人族の王であるカイエンの、烈火のごとき怒鳴り声。
「リーリア、貴様、気でも狂ったか!」
烈火のごとく怒り出したカイエンに、リーリアは震えそうになった。だが、気が狂ったのかなど、リーリアこそがカイエンに向けたい言葉だった。
「お父様、お聞きくださいませ。このままでは人族は滅びます。魔族の勢いは強く……」
「うるさい!」
怒声と共に、リーリアの左頬に鋭い衝撃が走った。殴られた痛みで視界が揺れる。倒れそうになるのを、なんとか耐えた。
「お前が勇者を産めば、我らは魔族に勝つ!」
いつから伝わっているのか、誰が言い出したのか、それすらわからない言い伝え。
だが、何百年も続いている魔族との戦いの中、人族の民は誰もが、その『聖女が勇者を産み、魔王を倒す』などという根拠のない伝承を信じている。
だけど。
「……ニセモノの聖女が、本物の勇者を産めるとでも?」
「リーリア! お前が聖女だ! ニセモノなどではない!」
「いいえ。わたくしは聖女ではございません。治癒と結界。その程度の魔法が使えるだけのわたくしを、お父様が聖女に祭り上げた。神の啓示ではなく、お父様の命令によって、わたくしは聖女のフリをしているだけ」
言いながら、殴られた頬にそっと手を添える。口の中が切れて、血の味がした。治癒の魔法を発動してはみたが、リーリアの持つ弱い治癒魔法程度では、完全に治癒をすることはできない。鈍い痛みが残ったままだ。
この程度で、何が聖女だ……と、リーリアは嗤った。
「魔族の側には魔王と呼ばれる存在が生まれたそうですね。人族は劣勢になり、滅びに瀕している。民や兵を絶望させないため、時には嘘も必要かもしれません。ですが、嘘は嘘。真実に転ずることはありません」
カイエンは答えることができずに、ただリーリアを睨みつける。
「もはや選択肢は二つ。滅びるか、魔族に下るか。和睦のための使者として、わたくしを魔王の元へお送りくださいませ」
「リーリア!」
「聖女と詐称できる程、わたくしは人族の中では美しいのでしょう? 魔王が惑ってくれれば、わたくしの身一つで人族の助命も可能かと。少なくとも、ニセモノの聖女にニセモノの勇者を産ませようとするよりも、人族が生き延びる可能性があるのでは?」
薄紫色の瞳。腰まで伸びた長い銀の髪。細い腰、庇護欲を誘う可憐な姿。
聖女というのは嘘でも、人族の麗しき姫。
妻か人質として、差し出せる程度の価値はあるとリーリアは自負していた。
「お父様……、いいえ、我らが王よ。ご検討を」
白いドレスの裾を掴み、リーリアは優雅に一礼をする。
そして、カイエンの返事も待たずに、謁見室から退出した。
***
謁見室を退室した後のリーリアは、自室に戻る途中の廊下で足を止めて、窓から外を見た。
小高い丘の上に建つ城からは、城下の街、城壁、広がる麦畑や牧草地、更に、遠くの山の稜線までが見える。沈みかけた夕日が、見えるものすべてをオレンジ色に照らしていた。
牧歌的とも言える穏やかな一日の終わりの風景。
「だけどあの山の向こうでは……」
人族の兵士たちと魔族の軍が戦いを繰り広げているのだ。
今、まさに、このときも。
魔物の牙に頭を噛まれながらも、せめて相打ちをと、剣をその魔物に突き刺す兵士。
構えた弓ごと腕を切られ、血を流す者。
魔族が、人族を殺し、人族が、魔族を殺す。
「わたくしが、お父様から頬を叩かれた、その痛みの何倍も何十倍もの傷を負って、死んで……。人族も魔族も、互いに恨みを募らせて……」
何百年も繰り返され、今もなお続いている争い。
それに勝つために、カイエンは、人族の王として、リーリアを聖女と偽り、更に子を産ませ、その子を勇者と称させようとしている……。
「愚かだわ……」
魔族と人族。和平を求めるのではなく、どちらかが滅びるまで戦いをやめない。長く続いた戦いのため……でもあるが、それよりも、根底にあるのは異なる種族に対する嫌悪感。
人族にとって魔族は恐ろしいだけの存在。
人と獣の姿が混じったような異形の姿、腐臭。美しい魔物もいるが、それに惑わされ、隷属させられることもある。
人は、元々、自身と異なる他者を恐れるのだ。
魔族の側も似たようなものだろう。人族などは、まとわりつく虫のようなもの。不快だから、叩き、殺す。
領地や食物を得るために戦っているのではない。
いや、魔物の中には、人族を食する者もいるが、魔力の高い者、魔王と呼ばれるような存在は、人族などは食しもしない。
人族とて、好んでではないが、食料が不足すれば、動物に近い種類の魔物を殺して食べることもある。
互いに、襲い、襲われ。
それが何百年も続いた末の、現状。
しかも、現状は、人族が劣勢。
きっと人族の滅びは近い……。
「わたくしの身を魔王に差し出して、寛恕を願い、ある程度の場所を人族の地とし、その地から外には人族は出ない……。そのようにして、互いの生息地を分けて、互いに干渉しないのであれば、人族は生き延びられるかもしれない……」
リーリアの考え通りに物事が運ぶのかどうかなどはわからない。
それでも、生まれるはずもない勇者を求めるよりは、実現性は高いはず……と、思いはするのだが……。
「お父様は、魔族を憎んでいる。何百年も続いている争い……というだけでなく、魔族のせいで、お母様がお亡くなりになったから……」
リーリアの幼いころ、リーリアの母は魔族に食い殺された。
故に、カイエンの恨みは強い。魔族との和解など、決して許さない。それを言い出したリーリアを殴るほどに。
リーリアは、そのままじっと窓の外を見続けた。
夕日は山に沈み、世界から明るい色がなくなっていく。
まもなく、闇がこの世界を包むだろう。
夜空には星が瞬きだした。
例えば、この世界が夜空で。星が魔物だとしたら。
人族のいない世界は、この夜空のように美しく輝くのだろうか……。
無意味な空想に、リーリアは頭を横に振った。
「お父様が、嘘だと知りつつわたくしを聖女に仕立て、そして、聖女の産む勇者に縋りつきたいという気持ちも、わからなくもないのだけれど……ね」
しかし、嘘に縋って何になると言うのだろう。
人族の民や兵士を騙したところで、リーリアが本物の勇者を産むことはない。
そもそも『聖女が勇者を産む』という伝承自体、疑わしいと、リーリアは考えている。
絶望にかられたまま、人族が、自ら滅びに向かわないための、嘘。
嘘の希望でもなければきっと、とっくの昔に人族は滅びていたのかもしれない。
信じるが故に、恐ろしい魔物と戦う気力を振り絞ってきたのかもしれない。
聖女の伝承などそんなものだろう。
だが、リーリアのこの考えは、人族の中では異端。
いつか、聖女が勇者を産み、そしてその勇者が魔族をせん滅する……と、人族の大半が信じ、伝承に縋っているのだ。
「根拠のない言い伝えに過ぎないのに……」
リーリアは自身がニセモノの聖女だと知っている。
神の啓示など、受けたことのない、単なる小娘。
王女という身分と治癒という力を持つため、聖女と祭り上げるのに適していただけ。
だからこそ、勇者が魔族を倒す以外に、何か人族が生き延びる手段はないかと、歴史書や地理書を読み漁り、その方法を模索してもみた。
過去の人族のとある王は、このままこの大陸に住み続けるのではなく、海に出て、他の大陸に向かおうと試みたらしい。
だが、波が荒いだけではなく、海にも魔物がいた。人族がいかに堅牢な船を作ったところで、他の大陸に向かうことは厳しい。
また、別の時代、魔族との和平を結ぼうとした者もいた。
だが、それは上手くはいかなかった。
人族にとって、言葉を発することなくただ襲ってくるだけの魔物も、強大な力と知性を持つ魔族も、恐怖の対象。
魔族にとっての人族は、殺しても湧き出てくる害虫のようなもの。
相容れることはない。
そして、今、人族は劣勢で、魔族には魔王と呼ばれるほどに、強い力を持つ者が誕生した。
「人族が滅ぶことで、この長い戦いに決着がつく……」
それを受け入れるのか。
それとも……抗うのか。
重苦しいため息をついた。
抗ったところで、滅ぶ未来が分かり切っている。
だからこそ、カイエンは嘘である聖女伝説に縋りついているのだ。
「聖女の産む勇者、もうそれしか希望はない!」と、王は民に、兵士に、言い続ける。
勇者が魔物、魔族を、そして魔王を倒すまで、一致団結して耐えるのだ……と。
実現するはずはないのに、鼓舞し続ける。
「本当に、愚かだわ……」
呟いて、目を閉じる。
嘘と分かっていながら、その嘘にしがみ付くしかない哀れな王。きっと、人族最後の王となるのだろう。せめてリーリアを魔王に差し出してもらえればよかったのに。
「誰が愚かだと言うのですか、姫様?」
吐き出したつぶやきに答える者がいるとは思わなかった。
リーリアは驚いて、目を開けた。
短編版は一人称で書きましたが、長編版は三人称で書いてみました。
違いをお楽しみいただければ……と思います。