95話 ジャンの門出
出陣が決まったとはいえ、すぐさま動けるほど征旅とは簡単な話ではない。
ガストンら剣鋒団は各々で戦の支度をし、リーヴ修道院跡を修復するための大工や人足を集め、資材や兵糧の準備を行う。
現代の日本人からすればひどく遅緩な動きに見えるだろうが、実は命令に即応している剣鋒団の行動は非常に迅速だ。
通信や物流が未熟な世界とは、このようなものである。
「ジャン、少しええか」
ガストンは屋敷の厩舎で働いていたジャンに声をかけた。
ジャンは馬丁のイーヴ・サドルと共に軍馬の蹄鉄を直していたようだ。出陣前の心得ではあるが、従者がいないジャンは自らが行う必要があるのである(余談ではあるが、馬丁のイーヴいわくジャンの馬の世話は「かなり筋がよい」らしい)
「む、先生か。見ての通り忙しい。急用か?」
「いんや。実はな、お前さんの一本立ちが決まったのだわ」
「む? それは……客ではなく剣鋒団として参陣するということか?」
「そうじゃねえ。テランス様がな、お前さんを見込んで使いてえのだそうだ。たぶんだが、ビゼーの殿さまに推挙されるはずだわ」
この言葉を聞き、ジャンはようやく作業の手を止めてガストンに向き合った。
戸惑ったような、怪訝そうな表情である。
「今回の戦ではテランス様は出陣せず、ここで後詰めをされるそうでな。人手が欲しいらしいぞ」
「後詰め……つまり、戦には行けぬと?」
「ま、そりゃそうだが、テランス様から直々に『ルモニエを使いたい』とのことでな。なんでも、ここ数年のお前さんの変わりぶりに感心しとったぞ」
これは方便ではあるが、常々ガストンが感じていたことでもある。
今やジャンは槍も馬も並の騎士以上の実力がある。
読み書きや算術もでき、何より骨身を惜しまず働くことを覚えたのだ。どこに出しても恥ずかしくない若者だろう。
「つまり、その、仕官をするのか?」
「よう辛抱したな。お前さんの修行を周りは見とったんじゃ。ジャン・ド・ルモニエが欲しいと声がかかったのよ」
実はガストンと妻ジョアナは『このままジャンと一族の娘を結婚させて家を継がせようか』と夫婦で相談したこともある。
これは実娘(ジゼルと名づけられたようだ)が産まれて立ち消えとなったが、それほどまでに夫妻が手塩にかけて育てた若者なのだ。
「それは……その、急な話だ。何と答えてよいのか分からぬ」
「喜べ、お家の再興がかなったんじゃ! まだ小せえかも知れんがルモニエ家じゃぞ!」
この言葉にジャンはハッと息を呑み、はらはらと涙をこぼした。
滅びた実家の再興はこの若者の悲願であったのだ。
それにしても、よく泣く若者ではある。
「何を泣くか! 門出に涙はいらん! おいイーヴ、今日は宴会じゃ! 皆に声かけてこい!」
ガストンは馬丁のイーヴに声をかけると、この鼻が曲がった馬丁は「そりゃ大変だぁ!」と大げさに飛び上がり、「大変だぁ、大変だぁ!」と屋敷の方へ走って行った。
その話を聞いたジョアナは大変な喜びようであり、近隣の家々やガストンの百人隊にまで声をかけたほどだ。
これは間違いなくヴァロン家始まって以来の大宴会だったろう。
中庭には即席で並べられたテーブルの上に料理が並び、厨房ではビールやブドウ酒の樽がいくつも空になった。
椅子など並べる間もなく客は立ったまま飲食し、主賓であるジャンへの挨拶もそこそこに大騒ぎである。
大酔したマルセルは「俺の娘を嫁にやるぞ!」とジャンに絡み(マルセルの長女は10才にも満たないので、これは完全に与太話だ)、剣鋒団の仲間たちも「出世したら俺を家老にしろ」「俺を従士にせんか」などとジャンを困らせる。
中には招かれていない不届きな客もいたはずだが、誰も目くじらなどは立てない。ひどい酔態で殴り合いのケンカや情事を始める者までおり、これは袋だたきにされて追い出されたようだ。
比喩ではなく、街の一角を挙げての大騒ぎとなった。
「奥方もやるねえ、これだけの宴会となれば大評判さ」
宴会の最中にスカラベがガストン夫妻に声をかけた。
ジョアナは薄く笑みを浮かべるが、ガストンには意味が分からない。
「うん、そりゃ何の話だ?」
「へへ、これだけの人がジャン坊っちゃんの祝いで駆けつけてんだ。事情は皆が知るところになるわけだ」
「ま、そりゃそうだわな」
「そうなると、この話がご破算になれば恥をかくのはテランスさまだね?」
「うーん、ま、そうなるのかのう」
「そりゃそうだよ。みんなが喜んだ話をダメにしたら面目丸つぶれさ。身を入れて伯爵様に推挙するしかねえわけだ」
「ははあ、そんなもんかのう」
ガストンはピンときていないが、この辺りは名望社会に生きてきたジョアナのほうが聡い。
ジョアナは暗に騎士テランスに対して『ちゃんとジャンの面倒を見ないと名誉を汚すぞ』と脅迫したのだ。
さらに『没落した名家の子弟を立派に扶育し、華やかに送り出す』ことでヴァロン家の面目が立つ。
後に大宴会のためにジョアナは借金までしていたと聞いたときにガストンはひっくり返って驚いたものだが、このあたりが疎いガストンを支えるジョアナの内助、借金を補って余りある一石二鳥の妙手といえた。
もちろん騎士テランスからすればビゼー伯爵領の人材不足は数年来の懸案事項であり、ジャンを粗末に扱う意味はない。
あくまでも親心からの念押しと言ったところだ。
こうした事情もあり、無事にジャン・ド・ルモニエは騎士テランスの預かりとなる――とはいえ即日で何かが変わるわけでもなく、数日後には屋敷の留守を守るジョアナやトビー・マロと共にガストンの出陣を見守ったようだ。
(始めはどうなることかと心配したものだが……ま、なるようになったということかのう)
ガストンから見ても、ジャンの表情はグッと引き締まったように感じる。家門再興に決意を燃やしているのだろう。
男の成長とは歳月ではない。こうしたキッカケさえあれば、若者は大きく羽ばたくものだ。
自らが手塩にかけた若者が世に出るとなればガストンも誇らしい心持ちになる。
見送られるガストンではあるが、内心では逆にジャンを送り出す心持ちだった。