93話 ドロン男爵領
数年の時が流れた。
当代のビゼー伯爵の気質は残虐で酷薄。神がかり的な戦上手で強いリーダーシップはあるものの、富を分け与えるような気前の良さはない。
さらに政敵を排除し続けたため人材――特に信用できる行政官がおらず、領地ばかり拡がり、治まるようで治まらぬ状態が続いた。
強力な伯爵を恐れて反乱や暴動までは起こらぬものの、重税に耐えかねた領民は逃げ治安は悪化し、難民や盗賊が増えた。
周囲の小領主や豪族騎士は次々と伯爵にヒザを折るが、ガストンから見ても明らかに面従腹背。どこまで信用できるか疑わしい。
このように勢力を拡大する伯爵の元でガストンは骨を惜しまず働いた。
なにしろトラブルは常にある。
大戦こそなかったが、剣鋒団を率いて騒ぎに駆けつけ、睨みを利かせ続けた。
そのような時を過ごし、ガストンは33才を迎える。
ガストンにとって、ひとつの転機となる年であった。
娘が産まれたのだ。
(むう、この年になって子を成すとはのう)
実子を熱望していた妻ジョアナの執念か。
この妻の快挙(?)にはガストンも驚いた。
「この年になって子を産むとは恥ずかしゅうございます」
ジョアナはガストンより年上の35才。50才を過ぎれば老人と呼ばれる世界では稀に見る高齢出産である。
しかし、母体に問題なくジョアナの身体は健康そのもの、すぐに産褥も離れた。
これにはガストンも神に感謝する他はない。
(恥ずかしいも何も自分で欲しがったんじゃろうが)
ガストンはそう思うも口には出さない。
さすがに結婚してから9年も経つのだ。妻に対してのいらぬ減らず口が良い結果を招かぬことは熟知している。
「ま、とりあえずは俺に似んでよかったわ。女がこの面じゃ気の毒じゃもの」
「まあ、あなたったら。それよりもこの子に名を考えておいてくださいました?」
「うん、ま、オルガかジゼルと思うとるよ。うちの婆さまたちは長生きじゃから」
「よい名……この子には元気に育って欲しい」
ここリオンクール王国では乳幼児の死亡率は高く、赤子は産まれてからしばらく――数日から、長ければ数ヶ月も名づけは行われないことが慣例である(すぐに名づける場合もある)。
もう何年も前の話になるが、ガストンとジョアナの初子も産まれてすぐに死んでしまった。
この経験からも、ガストンはやや慎重になっているらしい。
ちなみにオルガはガストンの母、ジゼルはジョアナの母の名である。
2人とも壮健であり、これにあやかろうというのは珍しくない。
「しかし俺の娘か……俺は村で育ったんじゃ。その娘が従騎士の姫さまかい、こりゃとんでもねえ話だ」
ガストンが娘の鼻や唇を触りながら「とんでもねえ、とんでもねえ」と口にする。
元樵のガストンから見れば自らの娘は従騎士の娘、まごうことなき『お姫さま』である。実に不思議な生き物に見えて仕方がないらしい。
ガストンの心を知らぬジョアナからは夫が不慣れながらも娘をあやしているようにしか見えないらしく、微笑ましげに見守るのみである。
「この子がどこかに嫁ぐか、はたまた婿をとるか……そりゃ分からんが俺も老け込んではおられんのう」
今やヴァロン家はガストン、マルセル、ジョスの三兄弟がそれぞれに馬に乗る身分であり、武門と呼ばれる一族である。
しかし、ガストン自身が『ヴァロン本家』『ヴァロンの惣領』などと呼ばれるようになって久しいが、いまだに『娘に継がせるもの』という自覚は薄いようだ。
この無自覚な一言に女房の眉が吊り上がるのは無理からぬことである。
●
「ガストン、兵を起こすぞ。率いるか」
ある日の会議、ビゼー伯爵は左右の重臣を差し置き、ガストンに声をかけた。
唐突な言葉ではあるが、これは性急な伯爵にとっていつものことである。
「へい、承知しました」
ガストンもいつものように即答をする。
これが伯爵には小気味よいらしくニヤリと口角を上げた。
「ガストンは何も問わぬ。私が行けといえば行き、戦えと命じれば戦う。それは私の好むところだ」
「へい、恐れ入りやす」
「だが戦う相手も向かう場所も知らずではどうするのだ?」
「へい、困ります」
「はっはっは、困ったヤツだ! 戦に出ることしか頭にないのか!?」
何かが琴線に触れたらしく、伯爵は上機嫌で手をたたいて喜ぶ。
ガストンにはよく分からないが、こうしたこともままあることだ。
「川向うのドロン男爵領で代替わりが起きた。後を継いだのはまだ幼児らしい」
「ははあ、それは大変なことで」
「そうだ。幼児に領地など治めることはできん、分かるか?」
伯爵はガストンにではなく、左右に視線を送りドロン男爵領の状況を説明した。
これはガストンに聞かせる体で全員に説明しているのだろう。
伯爵いわく、死んだドロン男爵は騎士ドロン(紛らわしいが、伯爵に仕えているセルジュ・ド・ドロンのこと)の甥に当たるらしい。
年若くして病死し、後を継いだのはひとり息子。これは4才の幼児――つまり、統治能力がないのは明白だ。
「そこで、当家に仕えるセルジュ・ド・ドロンを幼君の摂政として送り込むことにする」
その一言を『待ってました』とばかりに騎士ドロンが前に進み出た。
「セルジュ・ド・ドロンは私に忠義を誓った身である。これが成れば我らの版図はクード川を越える」
「ははっ、家中には気脈を通じている者もおります。必ずやドロン男爵家を掌握できるでしょう」
現在、ドロン男爵家はダルモン王国に臣従しているはずだが、ビゼー伯爵はダルモン王国を侵略するのではなく、これはあくまでも『ドロン男爵家を鎮めるために大叔父であるセルジュ・ド・ドロンを派遣する』というロジックである。
人材とタイミングが合わなければ実行できないが、こうした乗っ取りは古典的な政略だ。
(身内の弱り目につけこむのか、そりゃあべこべじゃねえか。身内……それも子どもは助けてやらにゃ筋が通らねえ)
ガストンはロクに政治を知らない。親族が困っていれば助け合うのが当たり前の村育ちだ。
そんなガストンから見れば、父を亡くした幼子から家を乗っ取ろうとする騎士ドロンは人でなしである。
つまり、気に入らない。
(そもそも殿様はドロンを信じすぎだわ。コヤツは騙しに裏切りと表裏の卑怯者じゃ。いつか手ひどく殿様に噛みついてくるに違いねえ)
ガストンは騎士ドロンへの偏見を混じえて『上手くいかねえ』と決めつけている。
すでに下唇を突き出して不満顔だ。だが、ガストンの機嫌に関わりなく会議は進む。
「これはあくまでも私がドロン男爵を助けるものであるゆえ、兵は集めぬ。剣鋒団を派遣するのみとする」
「ははっ、必ずやドロン男爵家を掌握し、我が君への忠道を示します」
伯爵も騎士ドロンも自信満々の体であるがムリもない。
ドロン男爵家はリオンクール王国やダルモン王国の成立より古くから蟠踞する大族である。
だが、その勢力は男爵領の範囲に収まるものであり、どれほど無理をしても数百の兵を集めるのがやっと。専業兵である200人もの剣鋒団が乗り込めば抗うことは難しいだろう。
しかも、一族の騎士ドロンがビゼー伯爵を後ろ盾に乗り込むのだから『幼君よりもセルジュ・ド・ドロンのほうが頼もしい』と彼に与力する勢力があっても不思議はない。
つまり、一致団結して抵抗など起きないという見積もりなのだ。
「テランス、ガストンを見よ。相手が幼君では不足だと拗ねておるぞ。よい敵を探してやれ」
伯爵が上機嫌に笑い、会議は終わる。
こうして家来をさらし、笑い者にするのも変わらぬ伯爵の悪癖であった。