89話 奇妙な客
帰宅をしたガストンがジャンを家人に紹介するや、妻のジョアナが「ああっ!」と小さく悲鳴を上げた。
そして膝をつきながらジャンの手を両手でおしいただき「若様」と涙をこぼす。
このただ事ではない様子に皆が驚いたのもムリからぬことだろう。
「若様、私は……奥方様、お母様に仕えておりましたジョアナ・バルビエでございます。よくぞご無事で――」
この言葉にガストンは「エッ」と声を漏らした。
すっかり忘れていたが、ジョアナはルモニエ城の女官をしていた時期があるのだ――それも落城に際し奥方を含めて刺し違えたほど身近に仕えていた。最側近だったのである。
(こりゃまいった! ジョアナの主筋と知ってりゃ違った扱いもできたのに!)
これにはジャンをさんざんに殴り続けたガストンも気が気でない。
「母上、の……?」
「そうです。私も落城の日、ルモニエのお城におりました。奥様の最期にもつき添わせていただいたのです。私のみが生き長らえました」
ジョアナは首の布を外し、傷跡を晒す。深い傷跡は薄くはなれど消えてなくなることはない。
「すまない、記憶にない」
「ムリもありません。若様はまだお若く、女官の顔などご記憶があるはずはありません。ですが嬉しくて」
ジャンは戸惑いながらガストンに視線を向けるが、ガストンも曖昧に頷くしかしようがない。
「そうか、それでご亭主(ここでは客人から家の主への敬称)は私を気にかけてくれるのか」
「そうでしたか、主人が――」
自らに話が向かってきそうなところでガストンは「昔話もええが客じゃぞ」と誤魔化した。
ジャンからジョアナにおかしな告げ口をされてはたまらない。
「まあまあ、私としたことがつい……失礼をいたしました。客間へ案内させましょう」
ジョアナもすぐによそ行きの表情を作り、使用人たちに指示を出す。このあたりはさすがである。
(こりゃなんとも、妙なことになったのう)
寄る辺のない厄介者、さらに妻の旧主の忘れ形見。
なんとも不安を感じる客人ではあるが――結論からいえば意外なほどジャンはヴァロン家に馴染んだ。
多少横柄な口調や態度はあるものの、最初に見せたジョアナの歓待ぶりにより家人たちは『高貴な人とはこうしたものか』くらいの感覚で受け止めたらしい。
外様のジャンが馬に乗ることも、本来ならガストンの次に馬に乗るべき序列であった従士長のドニや、家宰のトビー・マロともに『奥方様の大切なお客人なのだから』と特に不満はないようだ。
どうやらジャンは家人から『ジョアナの客』として認識されている節がある。
そしてジャンはジョアナから下にも置かぬ歓待を受けながら剣鋒団に出向き、訓練や巡回など各種任務などに参加をすることとなった。
さらにヴァロン家ではガストンからの稽古はもちろんドニとも槍を合わせ、トビー・マロからは家政の実務を、イーヴからは馬の扱いを学び、スカラベから世間というものを教えられた。
つまり、ジャンはいい空気を吸っていたと言ってよいだろう。
そうするうちに怒りっぽい性格は落ち着きを見せ始め、周囲との軋轢も緩和され始めたのは不思議としかいいようがない。
ガストンから厳しい鍛錬と抑圧を、ジョアナからは母性と敬意を、そして周囲の家人や仲間との競争や友情――こうしたモノをそそがれたことが彼の精神を安定させたというならば、つまるところジャンに不足していたのは『愛情』というものだったのだろうか。
亡家の御曹司の家庭環境は複雑だったのだろう。
粗野だが自分に向き合ってくれる人々が若者の心に与えた影響は小さくなかったはずだ。
だが、ここで小さな問題が1つ。
「あなたっ! なぜ若様にツラく当たるのですか!」
ガストンがジャンに槍の稽古をつけると、たびたびジョアナからクレームが入るようになったのだ。
「バカくせえことを言うなっ、ジャンが戦で死なねえように鍛えとるんじゃ!」
「またアナタは若様を呼び捨てに! 失礼でしょう!」
こうした夫婦ゲンカにありがちだが、ジョアナは感情で怒っているのでガストンの言葉は届かない。
こうした言い争いのたびにガストンはもろ肌を脱ぎ「これを見やがれ」とジョアナにもジャンにも身体に刻まれた傷跡を晒す。大小何十も刻まれているが、どれほどあるのか本人ですら把握していない。
「俺でもこれだわ、ジャンは家を再興するなら俺よりうんと偉くなって倍は体を張らにゃならん! 半端な鍛え方じゃ野垂れ死にじゃ! それが分からんのかっ!!」
「だからと言って――」
なんだかんだガストンもジョアナが執着をする若者の未来は明るくあってほしいと願っている。
子のない夫婦の代償行為と言ってしまえば味気ないが、ガストンもジョアナもジャンに情が湧いていたのだ。
ただ、方向性の食い違いは父性と母性の役割の違いとも言い換えてもよいかもしれない。
こうした時、当の本人は気まずげに遠くを見たり、鼻をかくくらいのものだが、これは仕方ないだろう。
ガストンとジョアナは真剣そのものではあるのだが、夫婦ゲンカというものは他者から見れば喜劇である。
人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、ヴァロン夫妻と奇妙な客のことはすぐに町の噂となった(スカラベが広めたともいうが)。
だが、この噂は好意的なものであり、ジャンのことは『家の再興を志し、遍歴修業を続ける孝子』として。
ガストンは『旧主の恩を忘れず、落魄の貴種を支える義人』として噂になったようだ。
そもそもガストンはルモニエ家に縁はないし、事実と乖離しているが、これはジョアナの事情とガストンのパブリックイメージである「ビゼー伯爵子飼いの忠臣」の部分と混ざったものらしい。
庶民とはこうした面白い噂話が大好きで、多少の事実誤認などは問題にもならない。
ジャンが孝子などと聞けば当代のラメー男爵などは鼻で笑うだろうし(そもそもジャンは遍歴の旅などには出ていない)、さらに普段のガストンを知る宮中の者からすれば「暴君の手先になって弱いものいじめをするヤツのなにが義人か」となるだろう。
しかし、こうした噂話はバカにしたものではない。
ある日、これを耳にしたビゼー伯爵がガストンに「そうした者がいるのか」と尋ねたのである。
伯爵は「モノになるまで鍛えてやれ」と言ったのみで、すぐに興味を失ったようだが、主君に名前を記憶されたなら瑞兆と言ってよいだろう。
これを狙ったとすればスカラベの知恵も大したものである。
当のジャンはビゼー伯爵に複雑な感情があるようだが、ジョアナなどは大喜びで「数年後に仕官が叶う」と信じ込み「お祝いをしましょう」と大宴会を開いたほどだ。
ご馳走や美酒を前にしたガストンも「これでジョアナの気がすむならええか」と苦笑いするほかはない。
こうして、奇妙な客はヴァロン家の一員となったのである。
今回の更新はここまでとなります。
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