70話 捨て身
ともかくも籠城を終えたガストンは、騎士ドロンへの挨拶もほどほどにドニとスカラベを供にバルビエ領へ向かった。
領都であるビゼーではなく、バルビエ領へと向かったのは主君レオンへの義理もさることながら、やはり女房であるジョアナが恐ろしかったためである。
ガストンは美しく高貴な女房が怒り狂っていると聞いただけで、どこかに雲隠れしたいような……なんとも言えない憂鬱な気持ちを隠しきれないのだ。
「ドニよ」
「へい」
「ジョアナと会わずにレオン様へ挨拶するにゃどうしたらいいのかのう?」
「いやあ、なんとも……そもそもお屋敷は関所ですから。素通りは、ちとムリでは?」
ガストンはムッと下唇を出し「そうかい」と顔をしかめた。苦虫を噛み潰したような顔とはまさにこれであろう。
これを見て不思議そうな顔をしたのはスカラベだ。
「あれ、親方は奥方が嫌いなのかい?」
「そんなわけあるかい。俺と女房にゃ、そのう……ちいとばかり事情があるのだわ」
スカラベは目を細め、自らのアゴを撫でながら「なるほどねえ」と何度も頷く。
なんとも思慮ありげな雰囲気があるのは年の功と呼ぶべきものだろう。
「俺も親方に仕えるのだから事情は聞いたほうが良いかね? それとも知らぬ方が良いかね?」
「まあ、うん、別に内緒ではねえしな。道行きがてら聞いてくれや」
移動中とはとにかく退屈なものだ。
スカラベはなかなかの聞き上手でもあり、口下手のガストンも退屈しのぎについ興が乗る。
「どこから話したもんかのう。俺と女房は身分違いなんじゃが、なにかとめぐり合わせがあってな――」
「へえ、落ちた城から! なるほどねえ、そりゃ大層に惚れられなすったね?」
「いやあ、そうではないのよ。この後は何年も会ってなかったのだわ」
「面白いねえ。よほどの縁があったのだね」
いかにも驚いたと大げさに相づちを打ち、興味ありげに質問をされてはガストンの口もつい軽くなるというものだろう。
しばらく街道を進むうちに、ガストンとジョアナの関係はすっかりとスカラベの知るところになった。
このスカラベ、半ば勝手についてきたのだが馬の世話もガストンらの身の回りの世話も過不足なくこなし、今ではガストンもドニも『年齢に目をつぶれば拾いもの』くらいには認めている。世渡り上手なのだろう。
「親方よう、俺に知恵があるが聞くかい?」
「ほうほう、そいつはいいわ。聞いたら角の生えた女房の顔を見んですむのか」
「いやそりゃダメだ。逆をするがいい。奥方の顔を見たら駆け寄ってしがみついてやるのさ」
これを聞いたガストンは「からかうんじゃねえ」と不快気にツバを吐きかけた。これがドニやジョスのように遠慮のない関係なら殴りつけていただろう。
さすがにガストンの怒気を察したスカラベも「ひえっ」と悲鳴を上げた。肝は細い男だ。
「親方よう。話は半分だ、まだ怒っちゃいけねえ」
「なんじゃい。まだ続くのか」
「ああ、子どものいない女房というのはね、旦那に執着するとしたもんだ」
「子がいねえ女房か」
「うん。特に親方の奥方みたいに旦那に惚れてりゃなおさらだな」
「いやあ、そりゃどうかのう」
「まあまあ、そういうもんとして聞いてくれ。惚れてる男が自分をほったらかして他事に血道をあげてりゃ女は気に入らねえ」
「そら情けねえ! お、俺は命がけで戦働きをして、それが稼ぎで、それを気にいらねえとは太い話だわ!」
「ひゃあ、そう怒らないでくれよ。女にゃ戦は分からねえもんだ」
これには黙って聞いていたドニも思うところがあるらしく、しきりに頷いている。
「だからさ、女が口を開く前に親方からしがみついて『俺もお前にたまらなく会いたかった』と口でも吸うてやる、これがいい」
「そ、そんなもんか」
「ああ、ダメでもともと。試して損はねえ。あとはもらい子で構わねえから子を育てさせりゃ落ち着くはずさ」
「そうか、もらい子という手もあるか。マルセルのとこにゃ子どもが何人かおるしのう」
ガストンはすっかりと感心してしまったが、ドニはやや腑に落ちない様子だ。
少し遠慮がちながらガストンとスカラベの会話に「ちょいといいか」と割って入る。
「お前は妙に賢しらげだが、女房がいるのか?」
このドニの問いにスカラベは「何人かいたねえ。けど、いなくなった」と素っ気なく答え、気にとめていない様子だ。
「子どももいた。5人、みんな死んでるかもしれねえが、死に際を見ちゃいないのもいるからねえ。ひょっとしたら生きててもおかしかない」
この言葉に思わずガストンとドニは視線を合わせてしまった。
貧しい生い立ちで老いるまで兵隊暮らしをしているスカラベだが、なかなか複雑な人生を送ってきたらしい。
ドニは重ねて「それは野合だな? 子は捨てたか」と責めるような口調で質問した。
「そうさ。乞食は誰かを頼るもんだからねえ。宿なしじゃ1人でいたら死んじまう。子どもは捨てちゃいないが……いや、捨てたも同じだな。拐われたり、貰われたり、いなくなったり、病気で死んだり色々だ」
このスカラベの言葉は真実だろう。
聖天教会の教えでは離婚(難しいがやりようはある)は罪だが、教会にも通えぬ都市部の最貧民は野合をしてごく小さなコミュニティを形成することも多い。
野合とは教会を通さず、神や立会人らの承認もない結婚のことで、この世界の常識では獣と等しい行為だ。
ガストンの故郷の村で野合などしようものなら、それは村のコミュニティから離脱することに他ならない。つまり、教会や村の承認を得られない『かけおち』をしたければ村での人権も財産も放棄する覚悟が必要になるわけだ。
だが反面で野合は社会的な責任が発生しない。ルール無用だからこそ気に入らなければ平気で離婚や棄子もするのだろう。
何人も妻がいたというスカラベはこれで意外と艶福家だったのだろうか。
「これからお前はヴァロン本家の家来としてお頭に仕えるのだ。つまらん無作法でお頭に恥をかかせたら俺がただじゃすまさんぞ」
じろりとドニが睨みつけると「やめてくれ、殴らねえでくれよ」とスカラベは身を縮めた。
ドニは戦場往来の荒武者、人の命を奪った数などいちいち覚えてすらいない。殺気を帯びた眼光は怪しげな迫力があり、小心の老兵を怯えさせるには十分な凄みだ。
馬上で聞いているガストンもこれには思わず「うへえ」と舌を出してげんなりした。
ガストンの生まれは村の樵だ。ヴァロン家など実態が有って無きようなもの、まして本家などと持ち上げられては寒気がしそうな話である。
しかし、これを否定しては家来や身内が面白くないことを知っているので何も言えない。
うかつに言いたいことも言えない立場になったガストンである。
(しかしのう、ジョアナに何か言われる前にしがみついて口を吸う、か……大敵に捨て身で挑むのは理に適う話だわな)
戦場では危機に際し、進むことで命を拾うこともある。
ガストンは『そんなものか』と自分を納得させ、馬を進めた。
この街道を進めば間違いなくバルビエ領へたどり着くのだ。
●
「おい、ドニよ。すまんが先触れをしてくれるか」
バルビエの関所に近づくと、ガストンはドニを先触れとして走らせた。
先触れは無用のトラブルを避ける心得であるが、関所を居館とするガストンには無用の配慮でもある。
これはガストンが考えたジョアナをおびき出す小細工だ。
不意にガストンが帰宅すればジョアナはどこにいるか分からない。不意に声をかけられては策が台無しになってしまうだろう。
そこでガストンは知恵を振り絞り『出迎え』を受ける形にしたのである。これなら少なくとも空振りすることはない。
「おい、スカラベよ。これが上手くいったらお前は俺の恩人だわ。重く用いるぞ」
「へっへっへ、いいのかい? こりゃ絶対に間違いねえことだよ。賭けてもいい」
「おう、男に二言はねえ。乗り捨てた馬を頼むぞ」
気を紛らわすための軽口を交わし、関所へ近づいていく。
ドニの先触れを聞いて続々と人が集まり「ワアワア」と歓声が聞こえた。ジョアナの怒りはさておき、ガストンの英雄的な活躍(?)は皆の知るところなのである。
(ジョアナは……おらんか? いやさすがにおるはずだわ)
ガストンは馬の脚を緩め、周囲を見渡した――つまりキョロキョロした。
そしてジョアナの姿を認めるや軍馬から飛び降り「戻ったぞぉーっ!」と駆け出す。驚いた軍馬が棹立ちになりかけたが、これはスカラベが巧みに御したようだ。
「ジョアナ、戻ったぞ!」
大柄なガストンが武装して走るのである。遮る者などいない。
驚いた顔のジョアナに駆け寄り、ガストンはその勢いのままに抱きついた。
周囲が『オオッ』とどよめく。
スカラベの献策を知らぬ者から見れば九死に一生を得た騎士と愛する妻、感動の再会であろう。
ジョアナは何かを言いかけたが、ガストンは今だとばかりに唇を塞ぐ。
腹をくくれば勇猛果敢、戦場で身につけた呼吸がここで生きた。
(スカラベよ、これは勝ったぞ! お前は大した知恵者じゃ!)
ガストンは密かに心の内で快哉を叫んだが、まあこれは余人が知らずともよいことだろう。
初めはやや抵抗があったジョアナの体が脱力し、ガストンに身を預けるように体を寄せた。大つぶの涙をこぼしているが、表情を見るに怒りや悲しみのような負の感情ではない。
唇を離し、見つめることしばし、ジョアナは「私は」と震える声で何かを訴え始めた。
「私は、また良人を失ったとばかり……」
「今回も何べんも死にかけた、でも死なんかった。俺はしぶてえのだ。それに、これを見てみぃ」
ガストンは懐から壊れた魔除けを取り出し、ジョアナの掌に乗せる。
これにジョアナは小さく「アッ」と驚いた。
「敵に囚われた時に身代わりに切れたらしいわ。ひどい負け戦じゃったが助かった、よう利く魔除けじゃ」
ガストンは「ありがとうよ」と口にすると照れくさ気に自らの顔をピシャリと叩く。
厳つい大男のガストンが照れても不気味なだけではあるが……世の中にはどうしたものか、この手のむさくるしい男の愛嬌に弱い女も存在する。
ジョアナもその手合いか、実に嬉しげに今度は自らガストンに抱きついたものだ。
このジョアナの姿からガストンが恐れたような勘気を見て取ることは不可能である。
本当にその怒りがあったのか、それともスカラベの策が功を奏したか……それは当人にしか知り得ぬことだろう。
とにもかくにも、ヴァロン夫妻に不和は生まれなかった。それが大事である。