61話 幽霊騎士
槍を捨て、森に飛び込んだガストンはしばし無我夢中で走り続けた。
藪に潜むように、時に足あとがつかぬよう石の上を飛びながら駆ける――そして、はたと気がついた。
(がむしゃらに急いだものの、ここは……いかんな。俺はどちらを向いて走っているのだ?)
人の手が入っていない森は下草や枝が繁る。陽の光が遮られ方向感覚が狂いやすい。
ましてここは他国の森である。味方を追っているつもりで敵陣に迷い込む危険は十分に考えられることだった。
これに気づけたのも森になれたガストンだからだろう。
「はて、味方を見つけるには高い木にでも登れば良いのだろうが」
「いやいや、下手に目立てば敵に見つかるぞ」
「しかし、このまま見当違いの方向に逃げてもマズいのう」
「うん、方角の見当もなしに進むことはできん。危険は承知で登るしかねえ」
「なあに、何かあればすぐに下りる用心をしとけば問題はねえさ」
これらはすべて、ガストンの独り言である。
人は不安や孤独を感じると独り言が増えことがある。さすがのガストンも見知らぬ土地で味方とはぐれ弱気になったものらしい。
武装した大男が森の中でブツブツと独り言を吐き続けるのは実に不気味な光景だが、当のガストンはそれどころではない。
「このカサマツが良かろう。高くて枝も太いわ」
手ごろな大木を見つけ、スルスルと登る。森の木々を抜け眼下に敷くほどの高さとなったころ、ガストンは眼の前に広がる光景に思わず「アッ」と声を出して驚いた。
それはまさに屍山血河、見るも無惨な味方の大敗だ。
戦に慣れたガストンでもここまでの惨状は見たことがない。
(こ、こりゃえらいことだわ)
通信もなく、満足な地図すらない世界のことだ。ガストンのような立場では会戦の全容は知るよしもない。味方が崩れたので敗けたのは察していた。だが、ここまで一方的に大敗北を喫したとは想像もしていなかった。
(こりゃ、助祭さまが言ってた地獄にちがいねえ……どこかで神様を怒らせて、俺は地獄に引きずり込まれたんだ)
ガストンはしばし、口をあんぐりと開けて放心していた。
痛いほどの勢いで心臓が早鐘を打ち、うまく呼吸ができず息苦しい。
そして間近な枝から小鳥が飛びたつ音にビクリと驚き「ウワアーッ!」と悲鳴をあげながら滑り落ちるように木から下り、そのままの勢いで駆け出した。
方角も何もない。ただ、目にした恐ろしいものから少しでも逃れたくて走り出したのだ。
森の中をメチャクチャに走れば枝が刺さり、葉に削られて皮膚を傷つけるが、それでも止まらない。
この時のガストンは明らかに正気を失っていた。
(神様、光を、光を!)
ただ『悪魔に捕まらぬように、追いつかれぬように』と神に祈りをささげ、ひたすらに逃げた。
負け戦で心身ともに疲れ果て、見知らぬ森での孤独に弱気になり、初めて目にした千人規模の虐殺である。これではさすがのガストンが動転したとて無理からぬことだろう。
そしてしばらく走り回ったガストンは体内の酸素を使い果たし、バタリと倒れ込むように気絶した。
倒木と木立ちが身を隠すような形になったのは、せめてもの幸運だったのかもしれない。
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『ヴァロンどの、頼む、頼む』
どこか、遠くから聞き覚えのない声が聞こえた。
(む、誰じゃ? どこにおるか)
ガストンは周囲を見渡すが、深い霧のようなものに視界を遮られ、何も見えない。
『頼む、頼む』
また聞こえた。
ガストンは声の聞こえた方へ「おぅい、俺を呼ぶのは誰じゃっ!?」と問い返したが返事がない。
(はて、誰ぞがケガでもしたのか?)
ガストンは首を傾げながらも声の方へ歩を進めた。
ときおり『頼む、頼む』と聞こえるが、やはりこちらの呼びかけに応じる様子はない。
『ヴァロンどの――を、頼む』
今度はハッキリと聞こえた。
そちらを見やると、どこかで見たような騎士がいた。たくましい肩幅の広い立派な体型、見るからに豪傑風だ。
(ふうむ、わからん。どこかで見覚えはあるのだが……? ひょっとして他人のそら似というやつか?)
たしかにガストンはこの騎士を知っている気がするのだが、どうにも思い出せない。
「貴殿はどなたか? それがしに何を頼むのだ?」
相手が初対面の騎士ともなればガストンも失礼がないよう言葉づかいを改める。このあたりは妻のジョアナから仕込まれた通りだ。
だが、騎士はガストンの呼び声には応えず、じっと見つめるのみだ。
(たしかに俺はこの騎士を見知っとる……だが、思い出せん。誰だったか、誰だったか――)
ふと、ここでガストンの意識が覚醒した。
ここはガストンが気絶をした見知らぬ森の中だ。
すでに夜は白んでおり、森の中は朝霧と陽光に照らされていた。どうやらガストンは一晩中気を失っていたらしい。
(ここは……そうじゃ。戦に負けて――)
ガストンは確実に見たおぞましい光景を思い出し、ぶるりと身を震わせた。そして自らの無事を神に感謝し、手を組んで祈りを捧げる。
衝撃映像やホラー映画に慣れた現代人とは違うのだ。人の死体が山のように積み重なるような光景を見た衝撃やストレスは計り知れない。
ガストンは素朴な信仰心の持ち主である。こうした時に神は救いになるのだろう。
(しかし、いつまでもこうしちゃいられねえ。また手ごろな木を見つけて方角でも調べにゃ、どうにもならんわ)
祈りを終えたガストンが立ち上がると、関節がバキバキと鳴り、固まった筋肉が鈍い痛みを覚えた。
疲労は全身にベッタリと貼りつき、喉はカラカラ。頭まで重い。
さらに身に覚えのない細かな切り傷やすり傷がチクチクと痛み、気を滅入らせる。
袖なしの上着もなにかに引っ掛けたか大きく破れていた。
(もうボロボロだのう。こりゃジョアナのさげ運にやられたか。さげ女とは恐ろしいもんじゃな)
もたもたと歩きながら非常食の堅焼きパンをかじり、ぬるい水筒の水を飲む。
体を休めたい気持ちが強いが、今は歩くほうが気が楽だった。
ほどなくして薄っすらと霧が晴れ、視界が広がっていく。
すると薄霧の中、なにやらぼんやりと目立つ人影を見つけた。
(アッ! アイツは!?)
ガストンはとっさに藪に身を潜め、じっと息を潜める。
先ほどの人影は、なんと夢の中で見た騎士そのものに見えたのだ。
(なんなんだ、アイツは俺を狙っとるのか? あの夢は虫の知らせってやつかい)
ガストンは注意深く身を潜めたまま騎士らしき人影を観察する
その騎士は森の一点を指し示し、じっと身じろぎ一つしない。
(何をしとるのじゃ? そういえばアイツ……夢で何かを言うとったような? なにやらを頼むと)
どれほど藪に潜んでいたのだろうか……バカバカしいほどの時間とともに霧も晴れ、ガストンは人影の正体を見た。それは立ち枯れ、奇妙な形にへし折れた老木だ。
まさに『幽霊の正体見たり枯れ尾花』といったところか。
「なんだ、驚かせよって」
ガストンは安堵のため息をつき、老木をつま先で軽く蹴る。八つ当たりだ。
すると、老木の枝――先ほどまで騎士の腕に見えていた部分だが、その示す先に洞穴らしきものがあるのに気がついた。
「おう、あれはええ。洞穴で二晩も過ごせば殺気だった敵もいなくなるわ。時期的に熊の巣穴というわけでもなかろう」
ガストンは自らを励まし、洞穴へ向かう。
何人も隠れえる、なかなか大きな洞穴だ。
(こりゃいいわ、ここで休ませてもらうかい)
ここでガストンは心底安心した。つまり油断してしまったのだ。
いつものガストンならば洞穴に獣がいないか確認するくらいはしてのけただろう。しかし、するべき用心を忘れた。
そこへ「何者かっ!?」と洞穴の中から誰何されたのだからたまらない。
洞穴の中からは油断なくガストンを窺う気配を感じる。下手な受け答えをしては襲いかかってくるであろう濃密な殺気、おそらくは手練れの戦士だ。
「むっ、テメェこそ何者だ! 出てきやがれ!」
ガストンはパッと身構えて剣を抜き放つが、疲労のためかいまいち構えた剣先が定まらないようだ。
「失礼した、こちらは名誉あるビゼー伯爵に仕える騎士タイヨンの家中にあっては従士、ジャン・マソン」
「タイヨンじゃと?」
ピクリ、とガストンの片眉が上がった。タイヨンとは窮地であまり聞きたい名前ではない。
それはガストンがビゼー伯爵の下から追放される契機となった事件を引き起こした騎士である(46話参照)。
「なぜ名乗られぬのか、敵ならば名乗りを上げよ」
洞穴の中からは誰何が続く。
これは名乗らねば収まらないだろう。
こうした時に下手にウソをついて誤魔化すのは悪手だ。敵ならば敵で捕虜になることもできるのだが、ウソがバレては立場が悪くなるからである。
ましてやタイヨンは遺恨があるとはいえ味方なのだ。身分詐称してはバレた時に申し開きはできない。
「まて、正直に名乗るが短気を起こすなよ。俺はバルビエ家中、ガストン・ヴァロン。身を休めようと洞穴に寄っただけだ。争う気はねえから、他へ向かうとするわ」
ガストンが名乗ると、洞穴の声は「ヴァロン」と小さく繰り返した。どうやら主家とガストンのいさかいは知っているようだ。
「あいや! 待たれよヴァロンどの!」
初老の男が洞穴から姿を現し、きびすを返そうとするガストンへ声をかけた。袖なしの上着を着用しているところを見るに従士、おそらくは従士マソンであろう。
「主家とヴァロンどのに遺恨があるのは存じております。しかし、今はこの苦難を切り抜けるためにお力を借りることはできませぬか?」
この従士マソンの言葉はガストンにとって思いもよらぬことだった。
それこそ『アベル・タイヨンの仇』と打ちかかられても仕方がないと思っていたのだ。
(まてよ、タイヨン……そうか、タイヨンか!)
ここでガストンはピンと来るものがあり「アッ」と小さく声を上げた。
夢で見た体格の良い騎士は、まさしくガストンが討ち取ったアベル・タイヨンその人であったのだ。
(あ、アイツは俺を呪い殺すために化けてでたのか? いやしかし、それじゃあ『頼む』といった意味がわからねえ)
このガストンの混乱をどう見たものか、従士マソンはじっと顔色を窺っている。
「我が主は先の戦で手傷を負い、味方からはぐれ、この洞穴で身を休めております。どうか過日の無礼をお許し願えまいか、我が主をお助けいただけませぬか」
「うん? 手傷を負われたか? 浅手か、深手か」
「かなりの重傷にて、身動きもままならず――」
「そうか、手を貸そう」
「ま、まことで……!」
従士マソンはガストンがアッサリと引き受けたものだから驚いたようだ。
だが、実のところガストンはすでに騎士タイヨンを恨んではいない。剣鋒団から追放されてより、嫁ももらい、生活が飛躍的に向上した今があるのだ。さすがに感謝はしないが、恨むはずがないのである。
このあたりは騎士の誇りやら名誉に疎いガストンならではであろうか。
「気つけ薬も血止めもある。こんな時はお互いさまじゃ」
「感謝いたす。もし私が生きながらえたならタイヨン家でヴァロンどのの振る舞いを――」
「いらん、いらん。とにかくタイヨンさまに挨拶といこうかい」
深々と頭を下げる従士マソンを「まあまあ」と押し留め、ガストンは従士マソンとともに洞穴へと入っていった。
あまりに衝撃的な光景を目にし、SAN値チェック失敗。一時的狂気です。