30話 騎士テランス
そして、ガストンにとって変わったことといえばもう1つある。
「おいヴァロン……む、手紙か。オヌシ、読み書きができるのか」
「へい、ほんの少し、習いたてですが」
「それは良い心がけだ。しかし、手紙なら後にしろ。物見(偵察)に出るぞ」
「へい、テランスさま。ですが陣場を離れては――」
「ふん、評定(作戦会議)など俺たちに関係あるものか」
このやや横柄な物言いをする男はテランス・ニュウズ・ブーブリル。伯爵に仕える小豪族だ。騎士と言い換えてもいいだろう。
風変わりな姓名だが、エルワーニェと呼ばれる山岳民族にルーツがあるらしい。
ボサボサの赤い髪に針金のような虎ヒゲ、緑のドングリ眼、ガストンに勝るとも劣らない体格――見るからに荒武者といった風情だ。年は分かりづらいが30前後ほどだろうか。
やや変わったところがあるとすれば、姓であるブーブリルではなく名前のテランスで呼ぶことを目下に強要することぐらいだが……まあ、それは個人の勝手だろう。
なぜか、ここ最近のガストンはこの騎士テランスの指図で動いている。
もちろん騎士テランスは伯爵の下知を受けて行動するわけだが、マルセルのことといい、常備軍の組織化がゆるやかに始まったということだろう。
「いいか、我が君は評定で動くことはできん」
「へい」
「ならばこそ、我らはその意をくんで動かねばならん」
「へい」
「周囲を見回り地形の1つでも覚えたほうが、ここで手紙を読むよりも意味があろう? 手紙はいつでも読める、物見は移動が始まるまでだ」
「へい、それはそうですな」
ガストンが素直に頷くと、騎士テランスは小鼻を膨らませ「そうであろう」と自慢げにアゴを上げた。
「オヌシもこれからは槍ばかりではなく、頭を使って臨機応変に働かねばならぬぞ」
「へい、心得ます」
「うむ……その点、字を覚えておるのは見込みがある。下知は書状で伝えられることもあるからな。いちいち代読させては手間が増える上に、密命ならば厄介だ」
「へい、恐れ入りやす」
「良し、そこらの兵士を4〜5人ほど連れてまいれ。オヌシが差配するのだ」
騎士テランスは老馬にまたがり「遅れるな」とガストンに指示を出した。
ガストンは慌てて周囲を見渡すが、おり悪しくマルセルとジョスは遊びに行っている。たった4人の兵を集めるのは大層苦労をした。
「うむ、ならば次はこれに乗れ」
そう言いながら騎士テランスが示したのは、くたびれ痩せた駄馬であった。
駄馬とは荷物を運ぶ馬のことで、戦闘に慣らした軍馬とは別の生き物といってもよいほど大人しい。今も騎士テランスの従者に曳かれているが気にした様子もなく、ぼんやりと道ばたの草を食んでいる。
「いや、俺には馬など……とてものことで」
「当たり前だ、だから慣れよ。騎士でなくとも軍では伝令や輸送、馬を扱うことはいくらでもある。慣れが必要だ」
「へい、その……へい、乗ってみます」
「うむ、鞍にまたがったら鐙――その鞍から垂れた環のことだ。そこに足を通せ。手綱は従者に任せれば良い」
ガストンは覚悟を決め、馬にしがみつく。苦労しながら鞍によじ登る姿は滑稽だったらしく、兵士たちから忍び笑いがもれた。だが、腹を立てる余裕などガストンにはない。
もちろんガストンにとって馬に乗るのは初めてのことだ。
馬は大食らいで餌の量もバカにならないし、厩舎や世話をする馬番などを考えれば大変な費用がかかる。
まして専用の調教をした軍馬などは大変高価であり、そこらの騎士が気軽に買い替えるようなものではない。それは騎士テランスが老馬を用いていることからもうかがえる。
ガストンが馬に不慣れなのは当然のことだった。
「肩の力を抜き、背すじを伸ばせ。馬に緊張を伝えるな」
「へい……しかし、こいつは――」
「ふん、駄馬など牧童でも乗るのだ。オヌシほどの男が乗れぬはずはあるまい」
騎士テランスに「顔を上げろ」とうながされ、ガストンは自らの視点の高さにハッと息を呑んだ。徒歩の兵士などは軽く見下ろす高さである(ガストンが乗る駄馬の品種は不明だが、馬高160センチと仮定すれば2メートル半くらいの視点になる)。
「覚えたか、これが騎士の視界よ。下から戦うときの参考にもなろう」
それだけを言い残し、騎士テランスはゆっくりと馬を進め始める。
ガストンはやや焦りを感じたが、テランスの従者がそのまま手綱を曳いてくれるらしく、安堵の息を吐いた。
「あの茂みは兵を伏せるには十分だ」
「ここで戦になれば、この高台を取り合うことになるだろうな」
「あの窪地はまずい。身を隠せるが、見つかれば逃げ場がない」
物見の間、騎士テランスは自らの老馬をいたわるようにゆっくりと歩かせ、まるで独り言のようにポツリポツリと気づきを口にする。
ガストンは『ひょっとしたら俺に教えてくれているのだろうか?』と感じ、隣でじっと耳を澄ましていた。
「ヴァロンよ」
「へい」
「この戦はな、長引かんよ」
「へい、そうでしたか」
「互いに兵を揃えて睨み合うか、小競り合いをするか、その程度になろう」
騎士テランスが言うには数年前の戦や伯爵家の内乱によりあやふやになった境界線をハッキリとさせるための出兵らしい。一種の示威行為である。
横の国の領主らはあっちに従い、こっちに転びとバタバタ忙しくなるだろうが、不思議なことに落ち着くところに落ち着くものなのだ。
両陣営ともに『こんな小競り合いで兵を減らすのは好ましくない』というのが本音である。本格的な衝突はないというのが騎士テランスの予想だ。
「我が君は長く領地を離れることはできぬ。理由が分かるか?」
「へい、俺は兵士ですから、難しいことは分かりやせん」
このガストンの言葉が気に入らなかったのか、騎士テランスは「バカモノッ!」と怒鳴りつけた。
「兵士でも頭がついておろう! 考えぬか! 考えるクセをつけんか!」
「へい、あいすいません」
「まあいい、弟御のことだ。長く領地を空けては弟御が息を吹き返す――いや、すでに息を吹き返しておると考えねばならぬ」
「あ、なるほど」
「うむ、その事情は諸侯とて含んでおるからな。万が一、この戦が長引いても我が君だけ陣払いとなるだろうな」
騎士テランスは深くため息をつき、軽く首を左右にふった。
(テランスさまの言うとおりじゃな、殿さまが離れては領地が治まるわけはねえ)
ビゼー伯爵こと、ジェルマン・ド・ビゼーの半生というものは、とにかく身内との争いであった。
特に先代の伯爵から愛された伯弟ジェラルド・ド・ビゼーは『自らこそが先代から指名された後継者である』『先代は兄に毒殺された』などと主張し、反抗の意思を明らかにしている。
伯爵の苛烈な攻勢により大勢は決したものの、孤立を深めた伯弟派は先鋭化したらしい。まったく降参する様子がないのだ。
この勢力は暴君的なビゼー伯爵を嫌う層の受け皿になっている面もあり、根が深い。わずかの風が吹けば大きく火を吹きかねない焚きがらのようなものだった。
「戦があるとすれば、領地に戻ってからになるだろう」
この言葉を聞き、ガストンは『戦がないなら物見は不要では?』と首を傾げた。
すると、心を読まれたか「気を抜くでない」とすぐにテランスから叱声が飛ぶ。
「評定が割れ、味方同士で戦った例もある。無論、予想外に敵が進出する可能性もある。戦の流れは不可思議で読み切ることなど誰にもできまい。油断こそ大敵よ」
「……ご指南かたじけのうございます」
「うむ、常に考え備えることだ。臨機応変を心得よ」
騎士テランスは「陣へ戻るぞ」と馬を返し、物見を終えた。その様子はまるでガストンに軍学というものを教える師のような態度である。
その後、リオンクールの軍勢はクード川下流部をノロノロと動き回った。ただ一度会敵をしたが、互いに鬨の声を張り上げたのみである。
(おかしな戦じゃのう、まるで敵と申し合わせとるようだわ)
ガストンからしてみれば、わざわざ兵を集めて物見遊山に来たようなものだ。
だが、騎士テランスの予言どおりの結果となったのも事実である。ガストンはその知見に驚くとともに『国へ戻れば戦になる』という不吉な言葉を思い出し、眉を顰めることとなった。
予約ミスりました。