幽霊と僕
「あなたしか頼る人がいなくて、その、私を家まで送ってはもらえませんか」
「はぁ」
現実感のない話にそのような生返事を返すと、彼女は何とも言えない表情でこちらを見上げた。
「いや、ごめんなさい。その、僕とあなたとは接点が見えなくて……どうして僕なんかに頼むんです?」
「守ってほしいんです」
どこか言いよどむように、彼女は言った。その言葉は小さく、よく聞き取ろうと前かがみになってしまうほどだった。
「守ってって、何からですか」
「えと……その」
なおも言いよどむ彼女に、僕は業を煮やしたように聞いた。
「あの、すごく馬鹿げたことを言いますから、心当たりがないなら何も聞かなかったことにしてくれます?」
「!」
彼女は何か合点がいったのだろう、これまでの歯切れの悪さとは裏腹にすぐさま首肯した。
「これ関連ですか」
僕は小さく両手を垂らして見せた。
「そうなんです」
彼女はどこか恥ずかし気に頷いて見せた。
病院という場所は、僕たちのような見える人間にとっては地獄のような場所だと言えた。幽霊とは極めて自分本位な存在だ。たとえ相手に非がなかったとしても逆恨みだけでその場に居残り続けることがある。まして、病院はこの日本において、命のやりとりが最も多く行われる場所だ。そうして多くの霊が集う場所となった病院は、一つの力場として多くの霊を引き寄せる。
当然引き寄せられた霊の中にもタチの悪いものもいて、例えば彼女はそんな霊に魅入られた人間の一人だった。
「話が分かる人で良かったです。もっと怖い人かと」
隣を歩く彼女は、最初の警戒はどこへ消えたのかと思うほど、にこやかだ。
「なんでですか」
「混じってる人、初めて見たので」
彼女にとって、僕は人と幽霊が混じったような存在に見えるらしい。初めは霊が見える人はみんなそうなのかとも思ったが、僕の目には彼女が普通の人間に見えるから違うのだろう。あと考えられるのは涼月さんだ。試しに、未だ包帯の取れない頬を指してみる。
「こことか幽霊っぽい?」
聞いてみると彼女は頷き、あとは背中と答えた。彼女曰く、その幽霊部分を恐れてほかの幽霊は近寄ることがないらしい。
「病院にはどうして?」
「ずいぶん前に、悪い幽霊にとりつかれて、その時に体調を崩しちゃったんです。今は経過観察中で、来月には来なくていいって言われたんです」
「ご両親はそのことを」
「言えないですよ。霊が見える、霊に憑りつかれるなんて。ついて来て、なんて言って変な幽霊を車に連れ込みたくはないですし」
「まあ、そうですよね」
「それに、幽霊よりも現実の人間関係が壊れちゃう方が怖いです。幽霊なんて、実害がある方がよっぽど珍しいですし」
彼女の言葉に、やはり僕がいるのはこちら側なのだと強く自覚する。僕たちと幽霊は住んでる場所こそ共有されているが、本来はお互いに全く異なる世界に住んでいる。あの夏休みは、僕らの住む世界がかろうじて交わった奇跡の産物だったのだろう。
あるいは僕たちは今、越えてはいけない境界を越えてしまった罰を受けているのかもしれない。
「ありがとうございました」
彼女はある一軒家で立ち止まると、ぺこりと頭を下げた。
「もう、ここまで来れば大丈夫です」
「え」
彼女は家を指さすと、「敷島」と書かれた表札が見えた。名前を聞いた覚えはないが、察するに彼女の家だということだろう。だが僕はそんなことよりも気になることがあった。
「?」
僕の反応が意外だったのだろう、彼女は不思議そうに僕を覗き込んだ。
「ひょっとして、柱島中だったりします?」
「ひょっとしてあなたもだったりします?」
お互いに見つめあって、全て合点がいった。そもそも互いに徒歩の時点で気づくべきだった。
「いくつ?」
「三月の一二日で15歳、です」
迷った挙句の敬語だった。背の低さや雰囲気から僕は勝手に同世代か年下に見ていたが、どうやら彼女は年上らしい。
「同じ中学の二年、松島です」
手を差し出すと彼女は嬉しそうに握手をした。
ーー
その日から、僕と敷島さんはよく一緒に行動するようになった。何より、お互いに幽霊を見られる体質だったことから気を使わなくていい関係にすぐに発展した。
付き合えば付き合うほどに、僕は彼女の仕草や横顔に何度も涼月さんを見出した。彼女はやはり涼月さんによく似ていた。
それから幾分かの月日が流れた。
僕は彼女と待ち合わせをしていると、卒業式の花束を持って、彼女が晴れやかな表情で駆け寄ってくる。
「火傷、治りそうだね」
「え?」
突然の言葉に理解できなかった。
「消えてるよ、幽霊が」
彼女は僕の頬を指さした。初めから見えていなかった僕にとってそうなんだとその時は納得ができた。
現実は違っていた。彼女は幽霊が見えなくなっていた。
僕はなぜ、あの日涼月さんが二年後だと遅いと言ったのか、彼女がずっといて欲しいと言ったのか、全てが唐突に理解できた。
けれど現実は無情で、僕の周りが彼女と会うことを許さなかった。時は受験戦争、より良い大学に行くためにより良い高校を目指すようなそんな世相の中で、放任気味だった両親もこの時ばかりは僕に厳しく勉強するように迫った。
春風に舞う桜を眺めたかと思うと、五月雨に滴る葉桜を見送り、アスファルトを叩く夕立の声を窓越しに聞いた。何度、彼女に会おうと思ったか。何度夢に見たことか。結局叶わないまま、夏が過ぎていった。
ーー
「受験の季節とちゃうかったんか」
「そうだけど、たまにはあの防波堤が見たくて」
「そうか」
祖父はただ頷くだけだった。助手席から見る横顔では、その表情はよくわからなかった。
防波堤に着くと、そこにはあの三人の幽霊が立っていた。僕が防波堤へ行こうとすると、仕草で制する。その日は少し肌寒い夜だった。昼の暑さを意識しすぎて、僕は薄着で来てしまったことを後悔した。
「通してくれないか。涼月さんに会いたいんだ」
そう言うと、リーダー格らしき幽霊は頭を横に振る。
無理に押し通ろうとすると、三人がかりで押し戻された。僕は諦めて、一息つくとカメラを取り出しシャッターを切った。幽霊たちを被写体にしたはずなのに、そこには何も映らないのだろう。カメラから顔を上げると、防波堤の端に彼女が立っていた。彼女は僕に気づくこともなく佇んでいた。
「涼月さん!」
その声は、彼女に届くことはなかった。何度呼んでも、声が枯れるほど叫んでも。やがて、涼月さんはふわり宙を舞ったかと思うと、一瞬で姿を消した。
目頭が熱くなってツーッと溢れた。それを服の袖で拭うと、彼女はどこかへ消えていた。
「もうええんか」
戻ってきた僕を見て、祖父はただそう呟いた。
僕は黙って頷くと、祖父は車のエンジンをかけて、すぐさま防波堤を去っていった。これが最後の別れだと、僕の胸にそう、刻みつけて。