下弦
お久しぶりです。前回から随分と投稿が空いてしまいましたね。あと二話ぐらいで終わるので明日明後日とテンポよく投稿したいと思います。
「何?」
彼女は明るい調子で聞いてきた。本当はそうでないことは分かっている。
「帰るのを遅らすことにした」
「ダメだよ。学校に間に合わないじゃない。不真面目は良くないよ」
彼女はいつもの僕を説教するような調子で言う。いつも僕はここで折れていた。
「僕さ、誕生日なんだ。九月の二日」
「ダメ。誕生日だからって」
「初日はたいしたこともしないんだ」
「良いわけがないじゃない。ダメだって」
「家族は説得してあるから」
「ダメだよ……」
彼女は立ち止まった。まるでメッキが剥がれるように、いつもの調子が崩れていく。
「また、今年の冬も会えないと思う。今日が最後っていうのが名残惜しいんだ。それに僕は来年から受験の季節だ。涼月さんと会えるのは二年後になるかもしれない」
「えっ?」
「出来るだけ会えるように僕は努力する。夏は無理だけど、秋か冬ごろには……」
「嫌だ」
彼女の口から始めて否定の声を聞いた気がした。その言葉は彼女らしくもなく、ひどく幼い調子で、拙くて、そして鉛のような重さがあった。
じわりと月が満ちゆきに彼女の髪が白く染まっていく。代わりに白いワンピースが漆黒へと染まっていき、空気の粘度が増して息が苦しくなっていく。
僕は、そんな幽霊を悪霊と呼んでいた。
「涼月さん?」
「ダメだよ。二年後だと遅すぎる。私はもう、寂しいのは嫌なんだ」
気づけば足が動かなくなっていた。黒い澱みが足を捉えて離さず、彼女は一歩ずつこちらへ歩みを進めてくる。
初めて彼女に恐怖を感じた。彼女に語りかけようにも、真綿が口に詰められたかのように、言葉が形を持つことができず、空気だけが通り抜けていく。
「ねえ、どうしてそんな目をするの。そんな目じゃ嫌だ。ほら、いつもみたいに笑ってよ」
彼女が目の前にゆっくりと迫り、もし幽霊が呼吸をしているなら、彼女の呼吸が僕の額に届いているだろう。彼女の冷たい手がゆっくりと頬に触れて、急速に熱が奪われていく。ゾクゾクと背中の全体を寒気が駆け抜けて、嫌な汗が額を伝う。
「ずっと、ずっとがいい。私が守ってあげるから、ずっと私の隣にいてよ。怖いことなんてないから、悪い霊は私がやっつけてあげるから」
彼女のうつろな瞳が僕の目をのぞき込む。そこには僕は映っていなかった。
およそ正気ではないのだろう。彼女は今、自分が何をしているのかも理解できていないのだろう。
「本当はね、君に会えるまでの間、ずっと寂しかったの。我慢できなくて何度も会いに行こうとしてね。でも会えなかった。私はこの場所に縛られているから」
その言葉で僕もまた、彼女のことが見えていなかったことを知る。彼女は何十年も防波堤にいたのだから、平気なんだと思っていた。実際、彼女は何十年、何百年でもこの場所にいられただろう。地縛霊とはそういう存在だ。
原因は僕だ。彼女と過ごした日々が少しずつ、彼女の念に僕がもたらした変化が不純物のように混ざってしまい、ついには彼女の在り方さえも変えてしまったのだろう。
彼女は抱擁し、僕は身を委ねる。
ゆっくりと毒が全身へと回るように、灼けるような感覚に覆われていく。これは僕の贖罪だ。彼女を変えてしまったこと、長い間放ってしまったこと。
息苦しさと、動悸が増していく。陸の上にいるのに、今日はまだ残暑の厳しい日だったのに、冬の海へ引きずり込まれたようだった。末端から温度が失われていき、感覚がなくなっていく。思考はまとまらず、チカチカと激しく点滅する視界は徐々に黒く色を失っていく。
天地が失われ、深い闇のようなゆりかごに覆われたような感覚が全身を貫く。
ああ、死ぬんだと、三途の川も、天国も、地獄もなく僕は消失するのだと、いやに平坦で無機質な思考が僕を支配した。
記憶が、意識が攪拌されて、境目が分からなくなっていく。
蘇る情景。父さん、母さん、じいちゃん、これまでの出来事が恐ろしいぐらいに流れていく。
その景色にすがるように手を伸ばす。届かないことは分かっている。何度、護衛していたはずの船団が沈められたか。何度僚艦が沈んだか。
遙かなる空より襲い来る航空機、沈み行く鉄城。体が熱い。火災が起きているのかもしれない。いいや冷たい。四月だというのにいやに冷たい海水が体を蝕むようだ。
艦首側の震災が特に激しい。間もなく自分は海の底へと落ち行くのだろう。
「防水扉だ、防水扉をしめろ」
「ダメだ、ここを閉めれば窒息死だ!」
前部弾薬庫からそんな声が聞こえてきた。三人の話し声だった。
「やらねぇと涼月が沈む! 俺たちが死ぬか、全員が死ぬか。ならせめて、仲間を守れ! 涼月を守れ!」
ダメだ、そんなことをしたら。
口を開こうとして、口がどこにあるのか分からなかった。
音を立てて、弾薬庫の防水扉が閉まり行く。押し寄せた海水が扉にたたきつけられ、体を揺さぶる。けれど、それ以上水が入ってくることはなかった。同時に空気が、酸素が入ってくることもない。
私は守られてばかりだ。私だけが助かってきた。
自責の念が心の中に流れ込み、それが血液に乗って全身を駆け巡る。
不意にヒグラシの声が耳に飛び込む。
呼吸を忘れていた肺が一挙に空気を吸い込み、激しくむせる。
「何だ、今の……」
途中から知らない記憶が混じっていた。今は四月だ、八月ではない。いや、それよりも。
「何、するの」
忌々しげな彼女の声が聞こえてくる。
顔を上げると、そこにはあの防波堤にいたはずの三人の幽霊たちが、彼女を三人がかりで羽交い絞めにしていた。
「邪魔しないで、一緒にいたいだけなの、だから……」
彼女の表情がさっと暗くなる。僕の顔を見て青ざめているのだと理解した。
「違う、違う。私はそんなことを望んでなんかない。ただ、隣にいて欲しかっただけ。ずっと、ずっと……」
彼女は血の気を失った顔でぺたりとへたり込んでいた。
「ずっといたかった。だから、君を傷つけてしまったんだ。ううん、私殺そうとしたんだよね。そんなつもりなんかなくてもさ。私、幽霊だからそんなことをしちゃったんだよね」
彼女は今にも泣き出しそうな顔でこちらを見た。幽霊たちもそれを見て彼女を解放する。ゆっくりと月が欠けていくように、彼女の髪は黒さを取り戻していく。同時に重苦しい空気もなくなっていき、気づけば元の人通りが少ない道に戻っていた。
「いつ私が君を殺しちゃうかも分からない。だからもう、会わない方がいいと思う。私にとっても、君にとっても」
彼女は自身の感情を確かめるように、一つ大きく頷いた。ポロポロと大粒の涙を流しながら彼女は言った。
「バイバイ」
彼女は翻って歩き出し、次の瞬間にはその姿は消えていた。
「涼月さん!」
追いかけようと駆けだした瞬間、全身を貫くような激痛に体が強張り、路傍に横たわる。脂汗が額を伝い、路面を濡らす。薄れ行く意識の中、僕の頭の中には消える直前、翻った反動で舞った一房の白い髪が、いつまでも残像を残し続けていた。