幕間:霧散
本当は、一瞬なわけがないと分かっていた。
代わり映えのない日々が過ぎ行く中で、次第に自我が薄れ行くのを自覚した。霊の最期はそういうものだ。初めに言葉を失い、形を失って、やがてシミのように消えていく。もう何人もそうやって消えていくのを見ている。
近くで遠くを眺めている三人も、直に消えてしまうのだろう。そのことにすら何も感じることはなかった。私の知る世界は、あの防波堤以外には戦争しかなかった。多くの人が、誰かのために死んでいく。大勢の船が、飛行機が波のように押し寄せて、多くの命を奪っていった。私はその最中に生まれ、終わると同時に埋められた。そのことに疑問を感じたこともなかった。
彼との出会いが私という存在を萌芽させた。彼を見たとき初めて好奇心が湧いた。彼と見る世界は、私の知る日本とは大きくかけ離れていて、驚くと同時に心が躍った。私という存在は彼と出会ったときに初めてこの世界に生まれたのだと、強く自覚する。
あの夏以来、彼とは会っていない。蝉の鳴く季節は過ぎ去り、実りの秋が遠くの山を彩って、冬には雪が舞った。
今日も東の空が明るくなって、清冽な空気に温かみが増していく。肌を刺すような冷たい風が首筋を撫でていく。これはきっと心の寒さだ。霊は寒さを感じることはないのだから。
今日もまた、彼は来ない。
ーー
二年目の夏が来た。
一年振りに会った彼女は暗い影の中で佇んでいた。彼女はそれに気がついていなかった。彼女が僕を認識すると影は一気に収束し、彼女の人の像の中に吸い込まれていった。代わりに髪が一房、薄く光を放つ下弦の月のように、あるいは夜に鋭く吹き込む吹雪のように、真っ白に染まっていた。
久し振りに会った彼女は、ますます少女らしく振舞うようになっていた。そんな彼女に、胸のどこかがざわめき、彼女と話すうちにそれは何か悪い夢だったかのようにそのざわめきは鳴りを潜めた。かつて見たドラマのように、僕が白い髪を綺麗だと褒めると、どこかはにかみつつも笑う彼女が印象的だった。
夏休みが過ぎて、僕と彼女との心の距離はどこか一層遠くなった気がして、その度に否定してきた。交わす口数は減って、沈黙の帳が降りるようになっていた。堤防で無為に消費しただけのように見えるあの時間は、まぎれもない僕の宝物だ。
その思い出は、遠く海上で揺らめく夏の不知火にも似ていた。
そこには何もないのに、彼女は確かに僕の目には見えている。だけど彼女は今そこにいるのかは分からない。
何かを残したくて、彼女をカメラで撮ってみた。その写真には霞む青空と入道雲、海上の蜃気楼、陽光を跳ね返す海、海上に横たわる防波堤がよく撮れていた。