蜃気楼
「だからダメだって。雑」
「いいじゃん。これでも食えるよ」
「もったいないでしょ」
朝六時、平穏だったはずの部屋ではそんなやり取りが続いていた。原因は言うまでもなく目の前の闖入者だ。慣れない僕に対して、彼女は数日で慣れて、それに連れて僕もどんどん遠慮がなくなっていった。
流石に両親や祖父母が来た時は大人しくするように言ったが、その時以外はこの部屋を我が物顔で彼女は堪能している。
「ほら、やってみなって。こんないっぱい残されたら魚がかわいそうだよ」
「それ言ったら殺された挙句、体めちゃくちゃに刻まれてる時点でかわいそうじゃん」
今朝からあれこれ言い争っているのは、僕の朝食についてだ。ちょうど昨日はなかなかの釣果で、ガシラを今日の朝食にしていた。実に数日ぶりの魚だ。
最近は祖父の家の厄介になっていた。一人暮らしとは何ぞと問いたくなるが、魚釣りでは自分一人ですらも食っていけないことを知ったのは、僥倖とも言えた。
さて、その魚の朝食であるのだが。
基本的には素直で聞き分けのいい彼女も食事についてだけは譲れないものがあるらしく、というより嫌にケチ臭いのだ。流石にハラワタまで食えとまでは言わないが、例えば三枚に下ろした時、背骨に付いている身までこそげと言うのだ。
最初こそ言われるままにしていたが、苦労の割に得られるものが少なすぎる。一度の反論があって以降、半ば喧嘩のような具合で調理が進んでいく。結局有利なのは霊体の彼女ではなく、実体のある僕だ。物理的に主導権を握る形で調理は進んでいく。
「あー、もったいない。そこは食べられるんだって」
「こんなちょびっとにそんな時間かけていられるかっての!」
「あー!」
バラバラバラと、三角コーナーの中に背骨を捨ててやると、そんな悲鳴にも似た絶叫が響き渡る。
「何してるのもったいない! こそげば食べれるじゃない、こそげば!」
「時間の方がもったいない!」
「あー……そう」
「え?」
ゆらりと彼女の姿が大きく揺れた。ああ、マズい。彼女は大変怒っていらっしゃる。
「そういうこと、言うんだね」
「いや……その」
有無を言わせない口調の彼女にゴクリと生唾を飲み込み、首肯する。
「いただきます」
結局、ムニエルの横には魚の背骨が並んでいた。幸いにも、三角コーナーの中には先ほど抜いたワタくらいしか入っていなかったし、何よりも火を通したのだから大丈夫だろう。
現実はこうだ。実体のある僕よりも、道理も何も通じない霊である彼女の方が強いのだ。
「どう、おいしいでしょ」
「マズくはない……けど、なんだか貧しい気分になってくる」
「マズくはないってことはおいしいってことでしょ」
「まあ、そうだね……」
彼女は窓から外を覗きながら言う。彼女は満足してるようだし、まあいいか。
頷きながら米と魚を同時にかきこんでいく。
「今日はどうするの。おばあちゃんの手伝い? それとも釣り?」
「いや、出かけようかなって」
「珍しい。いや、初めてかな。どこに行くの?」
「決めてない」
「それって大丈夫なの」
まるで僕を非難するように、彼女はジト目でこちらを見てくる。
「涼月さんは行きたいとことかないの」
「え、私? そりゃあね。ずっとあそこにいたわけだし。あるにはあるけど、でも、もう行っても分かんないと思うな」
「涼月さんっていつからあそこにいるの?」
「いつからって……うん、半世紀近くはいる計算だ」
「し、半世紀……」
「でも、こんな風に動けるようになったのはもっと後かな。それにこれが普通の生活だったから、苦しいとかはないよ」
「なら、色んなところに連れて行ってあげるよ。時間が許す限り」
「釣りはいいの? いつも楽しそうだけど」
「今はきっとそういう時じゃないと思うんだ。僕は。涼月さんは恩人だし、そうじゃなくても、何十年も同じところにいたんだから、その分色んなところに連れて行ってあげたいと思ったから」
「……優しいんだね。君は。じゃあ、佐世保とか行きたいかな」
「佐世保? じゃあ、行ってみる?」
ーー
入り組んだ狭小な湾に大小さまざまな船が入り乱れる、それが佐世保という場所だった。
「涼月さんは佐世保の人なの?」
僕の問いに、涼月さんは少し困ったような顔を作った。
「うーん、産まれは長崎だからちょっと違うし、幽霊になる前はほとんど呉にいたからちょっと違うかな」
「じゃあ、どうして佐世保に?」
「ここは私が死ぬ前にいた場所なんだ」
何でもないように彼女は言った。その表情を僕はどうやって形容すればいいのかわからなかった。
「そうだったんだ……」
「別に深い意味はないよ。呉は遠いから私の体がもたないし、長崎にはほとんど思い出もないしね」
汽笛のうなる音に顔を上げる。
「涼月さんはここに来れて」
「あの艦、見て」
「え」
唐突な言葉に振り返る。
そこにあったのは周りの船と比べてもひときわ巨大で、灰色の船体が城壁のようだった。
「アメリカの軍艦だね。あれを見ると思うんだ。日本は負けたんだって」
そうだ。彼女は半世紀前に生きていた。今を生きる人と違って、海軍の存在がずっと近かったんだろう。それを察したのか、彼女は儚げに笑う。
「私が生きてた時は日本軍が守ってたんだよね。別によそ様が血を流してくれるならそれが多分一番なんだろうけど、さ」
もう守れないんだね、と涼月さんは小さく呟いた。
「ありがとう、ここに連れてきてくれて」
顔を上げると、彼女の悲しそうな顔が視界いっぱいに広がる。
「ここには来ない方がよかった?」
僕の問いに彼女はきょとんとして、それから優しい笑みを浮かべた。
「そんなわけないよ、ありがとう」
彼女は踵を返して歩き出す。
――
中学一年の夏、僕たちは色んなところに遊びに行った。博多の街や北九州、果ては下関まで。結局最初に訪れた佐世保が一番遠い目的地で、そこから先に進むことはなかった。
彼女は毎日、夕方ごろにはあの防波堤に引き戻されていく。僕らはこれを門限と呼び、そして夜にあの防波堤に行くのは危ないから翌朝彼女を迎えに行っていた。この時間的な制約の中でも、彼女は色々なものに目を輝かせた。
朝、ミンミンゼミの声を聞いて、夕景の中でヒグラシを聞きながら黄昏る。僕らはなんでもないように、そんな日々を過ごした。カレンダーをめくる度、ミンミンゼミに混じるヒグラシの声が多くなる度、少しずつ早くなる夕景を見る度に、こんな日々が続けばいいのにと思っていた。
隣で人目も憚らずに寝ている涼月を見る。あどけなく眠る少女にとって、毎日が新たな発見ばかりだ。都会の奇抜な格好をした若者たち、煙を吐かない電車、遠くを映すテレビに至るまで、全てに驚いて、感心し、あるいは感慨深そうに眺めていた。
『次は、若松、若松。終点です』
駅員のアナウンスを合図にするかのように、涼月は目を覚ました。
「涼月さん?」
「もう時間みたい」
一つ伸びをして、夕陽が沈む海を眩しそうに見ていた。彼女は何とも言えない表情で、どこか遠い世界を見ているような気がした。
「また明日」
微笑む彼女に対して、僕は笑みを返せなかった。彼女はあっ、と小さな声を上げた。
「そういえば、明日帰るんだったね」
「多分、会えそうにない」
その言葉を聞くと、彼女はとても悲しそうな顔をした。それがどうしようもなく申し訳なくなり、何も切り出せなくなってしまった。
「ううん、仕方ないよ。学生の本分は学業なわけだし、ね? 私なら気にしないで。もう何十年もあそこにいるんだし、何ヶ月かなんて一瞬みたいなものだから」
もう時間が来たみたい、と彼女は呟くとその体がゆっくりと解けて消えていく。まるで蜃気楼のように。