4 プライド
七月下旬の終業式の日、久々に島田教諭は練習にあらわれた。
「いやぁすまん、三者面談でなかなか顔を出せなくて」
日本史を担当する島田は、三年生のクラス担任でもあった。
「整列!」と、菅原の声で集まった部員らは、顧問へのあいさつを済ませると各練習台へ戻った。拓真はひとり、島田のもとに残る。「先生」と声をかけた。
「どうした浦野」
島田は壁際のベンチに腰をおろす。
「戦型変えようと思います。なのでよろしく願いします」
島田は眉を開き、拓真の腕をたたいた。
「おぉそうか決めたか、意外と早かったなぁ」
提案した張本人なのだから当然だが、島田は戦型の転向を歓迎している様子だった。龍平や菅原はあまり同意できないふうだったが、指導者である島田が勧めているのだ。自分の判断に間違いはないのだと、拓真は思った。
「さっそく今日から練習をはじめます。用具はリュウから借りました」
拓真は島田にラケットを渡した。龍平に頼んで、昔使っていたラケットとラバーを借りたのだった。
「んー、いいんじゃないか」
島田はラケットを握り、表面と裏面を何度かひっくり返すと、かけていた眼鏡を頭の上に載せた。ラケットの側面に目を凝らす。「カーボン入ってる?」
「はい。前にカーボン入りを使ったことありますし、テンション系のラバーでカットもしてたので大丈夫だと思います」
「そうか、ならいい。岡みたいなドライブの手本が身近にいるんだ。おまえは恵まれているな」
島田は拓真にラケットを返した。笑顔を繕い、拓真はそれを受け取った。
「とうぶんはフットワークだな。前陣の動き方を身につけなさい」
そう言いながら、島田はうちわで顔をぱたぱたとあおった。
「はい」ちいさく頭をさげ、拓真は練習に戻る。
「先生どんな感じ?」
サーブ練習をしていた手をとめ、龍平は訊ねた。
「べつに。いいんじゃないかってさ」
「それだけ?」
龍平はラケットでボールをついた。各台の間におかれた雑巾でシューズのソールを濡らすと、拓真はきゅっきゅっと床を鳴らした。
「龍平の課題だろ、あと十分しかない。さっさと練習しよう」
「おーい、全員集合」
休憩中に島田は部員を集め、円を組んだ。
「いまからダブルスを発表する。まず十月にある新人戦の地区予選。それに向けて練習するように」
部員は八人の偶数だから、ペア組みでだれかが余ることはない。とはいえ、パートナー次第で戦績が変わってくる。拓真は膝頭の汗をタオルで拭った。おおかた林とのダブルスになるだろうが、もしかしたらとほかの可能性を捨てきれずにいた。
「まず菅原と杉崎」
「はい」と、菅原と杉崎は返事をした。ふたりは順当だ。春の総体でも組んでいたペアである。
「つぎ、村田と岡。ふたりは団体でも組むことになるだろう。頼むぞ」
村田は二年生。龍平に次ぐチームの二番手の選手だった。右シェークのドライブマンで、レギュラー。このペアもある意味妥当といえる。
続いて二年生の石川と一年生の宮本。拓真が呼ばれたのは最後だった。
「浦野と林」
予想どおりだ。さしたる驚きもない。拓真が返事をすると、遅れて林も返事をした。
「例年どおり、来週から学外で四日間の合宿を行う。ダブルスの練習だけでなく試合もするから、各自そのつもりで。以上、休憩に戻ってくれ」
島田が言い終わると、部員たちは立ち上がり解散する。拓真がその場を離れようとしたときだった。
「先生、俺、拓真と組んじゃダメですか?」
拓真は振り向いた。唖然とした。龍平が先生にペア変えを申し入れていた。
「拓真とは中学のころ組んでいたし、たぶんお互いのこといちばんわかってます」
たちまち島田が渋面となるのも無理はない。
「中学のころって……岡はカットマンと組みたいのか? なら菅原が――」
「そうじゃない、俺は拓真と組みたいんです」
はっきりとした口調だった。拓真はおもわず会話に割って入った。
「リュウ、さっきからなに言ってんだよ!」
龍平は拓真を一顧だにせず、島田を見ていた。
「浦野は戦型を変えたばかりだぞ」
「いけます。左のドライブならもっと組みやすい」
「おれは良くない」と、拓真は 語気を荒くした。「おれは嫌です。林と組みます」
「はぁ? おまえ本気か?」
「それはこっちの台詞だ。いいかげんにしろ」
拓真と龍平はにらみ合う。この状況下では、どう間違っても龍平とダブルスを組むなど了承できない。龍平が反論しようと口を開きかけたとき、
「そのへんにしろふたりとも」
島田は言った。「というわけだ岡。浦野がこう言っている以上、おまえの要求を受け入れるわけにはいかない。さ、休憩は終わりだ」
目を細め、拓真は軽蔑の意のこもった視線を龍平に送った。変わらずにらんでくる龍平を無視し、部員らの輪にまざった。
練習後の部室は、明日からはじめる夏休みの話題で盛り上がっていた。拓真は支度を済ませ、そそくさと部室を抜け出した。体育館を出ると、校舎は西日で赤く染まっていた。熱の残るサドルにまたがる。体育館から龍平がとびだしてきた。
「待てよ、俺も帰る」
自転車のかごに荷物を放り入れ、龍平は「かぎかぎ……」とポケットをあさる。おいていこう。拓真は地を蹴った。
「……もっと試合に出たいって言ったじゃねえか!」
龍平が叫ぶ。
ブレーキをかけ、拓真は顔だけで振り向いた。
「勝てばたくさん試合に出られる。拓真は強くなりたいんだろ? だから俺は」
拓真はうつむいた。ローファーのつま先が砂埃でくすんでいた。わかっている。龍平が悪意をはたらけるような人間ではないことくらい。
「だから自分と組めば勝てるって? 自惚れるな」
せっかく拭いた汗が、じわりと腕の毛穴から浮かぶ。
「勝たせようだなんて」龍平は口ごもった。
「よけいなお世話。そんなやつとおれは絶対にダブルスなんか組まない」
――お互いのこと、いちばんわかってますーー龍平の言葉を思い出す。どこがだ、と拓真は鼻で笑った。
「おれと組みたいって言えば村田さんはいい気がしない。林だってそうだ」
島田にダブルスのペアを発表されたとき、林は拓真と目を合わさなかった。ただずっと下を見ていた。
「村田さんとは団体のダブルスで上手いことやればいいさ。林はだれと組んでもいっしょだろ、気にしないって」
「リュウは勝手だ」
龍平の言い分が言い訳に聞こえて、これ以上は耳にしたくなかった。
「その上手いことを説明してくれ。どうせ考えなんてないくせに。気にしない? そう思ってるならおまえは幸せ者だよ」
夕陽を背にしている龍平の表情は、影に被われぼんやりとしていた。拓真は良かったと思った。面と向かっては、これほど強く言えなかったかもしれない。
「たぶん、拓真は間違ってない思う」
影のなかで龍平は言った
「けど、おれは謝らない」
かちんときた。
「ふざけんな、間違ってないと思うなら謝れ。どうせ上っ面だろうけど。リュウは昔からそうだ。おまえはけっきょくなにも変わらない。ちょっと上手いからってなにをやっても許されると思ってんだろ? 自己中だ。島田先生や菅原さんは、リュウのこと頼もしいとか期待してるらしいけど、本当はおまえの勝手な行動に周りは全員迷惑してる、どうせおまえは一生気づかない。いつもヘラヘラして調子いいこと言って、正直むかつくんだよ」
まくし立てた。外気の暑さとは反対に、拓真はだんだん手足の先が冷たくなっていくのを感じた。半分八つ当たりのようなものだった。他人を批判するほどに己の醜さがありありと浮かび上がって、ますます自分を嫌いになる。きまって後悔するとわかっていても、自身を抑えられない。
「それで、終わり?」
さすがの龍平も堪えたのだろうか。声が悄然としていた。相手が傷ついたと思うと、拓真は罪悪感がわいてきた。
「あるっちゃあるけど、もういい」
口を開きたくなかった。拓真の苛立ちの根本は、村田や林ではない。龍平に情けをかけられたのが悔しかった。多少なりとも良かれと思い、龍平は友に手を差し伸べようとしたのだろう。しかし拓真にだっていちプレーヤーとしてのプライドがある。自力であがる。卓球は個人戦。チームメイトといえど敵である。力を借りるのは御免だった。
龍平の情けは、拓真にとって侮辱されているに等しい。だが龍平にそうさせてしまった自分の弱さがいちばん許せない。弱さも、捨てきれない無意味なプライドも、できることならすべてを一緒くたにして燃やしてしまいたい。
「おれ今日ツタヤ寄って帰る。……もう二度とペア変えの話はするな」
龍平は石像のようだった。拓真が去っても、いつまでもそこに立ち尽くしそうな雰囲気すらあった。勝手にしろ、と拓真は自転車をこぎ出した。ずっと息がつまりそうで、校門を抜けるとやっと生きた心地がした。