プロローグ
のどが張り裂けそうだった。大声を出そうとするほど声はかすれ、息だけが漏れた。
浦野拓真は、目の前で躍動する仲間と、その背中の翻るゼッケンとを、つよいまなざしで追い続けた。
六月上旬の宮城県仙台市泉体育館は、戦いの熱気と多くの選手や観客の人いきれであふれ、真夏のような蒸し暑さだった。
体育館のアリーナにはいくつもの青々とした卓球台が整然と並ぶ。耳をつんざくような声援が、あちらこちらからのコートから飛び交い、拓真は自分の声がかき消されぬよう、いっそう腹から声を出した。
「ここ一本っ、追いつくぞリュウ!」
拓真が声をかけると、ベンチに背を向けたまま岡龍平は大きくうなずいた。
宮城県高校総体、二日目の男子団体、準決勝。
私立・園日ヶ丘高校対県立芦田野高校。
対戦する両チームの一番手は、互いに一年生だった。
試合のセットカウントは1対1。第3セット、龍平は2対6で相手に大きくリードされていた。
追いつくとは言ったものの、そう容易ではない。園日ヶ丘の一番手の廣田圭吾は、今大会で初めて知った選手だった。小学時代、中学時代と振り返ってみたが、拓真の記憶にない。おそらく他県からスポーツ推薦で入学したのだろう。よほどの実力者にはちがいないのだろうが、いくら強豪校といえ、同じ一年生に龍平が負けるはずがない、と拓真は思っていた。
だが廣田は上回った。
左利きである彼は、それだけで優位性がある。龍平のサーブを涼しげな顔で難なくレシーブするうえに、見ているこちらが腹立たしくなるほどきわどいコースをついてきた。ラリーになっても廣田は打ち負けない。龍平の強力なフォアハンドドライブに、廣田はバランスの良い両ハンドドライブで対応する。まるで穴も隙もなかった。
11ー4。
3セット目はあっさりと奪われた。
セット間、ベンチに戻ってきた龍平を部員全員で取り囲む。
龍平は監督である顧問教諭のアドバイスに、幾度もうなずいた。拓真は汗ばんだ龍平のゼッケンを持ち上げ、背中をうちわで扇いだ。
「拓真」コートに戻るとき、龍平は言った。「あの廣田ってやつまじでつえー。サーブとか全然わかんねえ」
言葉とは裏腹に、龍平の目はいたずらをする子どものふうに輝いて見えた。団体戦の準決勝だというのに、ずいぶん楽しげだ。
そうだ、こいつはこういうやつだった。拓真はあきれて苦笑した。
「とか言っておいて、普通に返せてたけどな」
さきのセット、拓真のおぼえているかぎり、龍平にレシーブミスはなかった。たしか1セット目、2セット目は二、三本のレシーブミスをしていたから、龍平はきちんと修正してきたのだろう。
「なぁなんかない? 良さげなとこ」
良い作戦はないかと龍平は訊いているのだ。おもわず拓真は「はぁ?」と顔をしかめた。
仮に得策があったとしても、ベンチアドバイザーとして監督がベンチにいるのだから、いち選手がメンタル面ならともかく、技術的な助言をあまり口にするものではない。拓真は顧問のほうをちらりと見、
「ない。あったとしても先生といっしょだ」
「んだよ、つかえねぇ」
龍平はにやりと笑って、コートに向かった。人をからかうときにきまってのぞかせる、見慣れた表情だった。
第4セット、出足は変わらずの劣性が続く。
廣田のサーブに慣れてきたのかもしれない。龍平はレシーブミスどころか積極的にチキータで返球したり二球目から回り込みのフォアハンドで仕掛けたりするようになった。龍平の攻撃的なレシーブに廣田は三球目を攻めあぐねた。
「9ー9(ナインオール)」
さきにマッチポイントをとりたい。ベンチに座りながら、拓真は祈るように膝の上で両手を組んだ。握りしめる力のあまり、指先が痛んだ。
団体メンバーになって試合に出たいと思う反面、龍平の立場でなくて良かったとほっとした。総体県予選の準決勝で、普段どおりの力を発揮できる自信はない。一年生ならなおさらだ。ベンチで応援しているだけでも腹が痛くなる。
龍平は一息つき、構えた。 ラケットでボールをついたまま、廣田はなかなかサーブの姿勢に入らない。平然としているふうに見えて、胸中は不安や恐れで揺らいでいるのかもしれない。
廣田は台上でボールを弾ませ――静止。
一時の静寂。
トス。
落下してきたボールをインパクト――が、廣田のサーブは大きくバウンドし、龍平の側のコートを越えていった。
「9ー10(ナイン・テン)」
廣田がサーブをミスしたのは、この試合中ではじめてだった。龍平はセットポイントを得た。
「岡、しめるぞォ!」
芦田野ベンチからキャプテンが叫んだ。
このセットを龍平が穫れば2対2。試合は最終セットへともつれこむこととなる。
拓真は息をのんだ。ベンチとコートはニメートルほどしか離れていない。だが実際の距離以上に拓真には遠く感じた。
廣田がトスをあげると同時に、龍平はステップを踏んでタイミングをあわせる。フォアよりにきた短いサーブを、フリックで廣田のミドルへ返球した。合わせぎみに廣田は龍平フォアへドライブする。龍平はそれをストレートコースにカウンタードライブで攻めると、次の打球をわかっていたかのようにバックサイドに回り込み――強烈なフォアハンドドライブを決める。力強いガッツポーズが飛び出る。
「11ー9(イレブン・ナイン)」
とたん芦田野ベンチと観覧席の芦田野サイドがわいた。興奮でほとんど雄叫びとなった声援を送りながら、拓真は両こぶしを天に突き上げた。
試合に出たい。団体メンバーとして。
衝動のままに叫んだあとは、まるで自分がコートについてプレーしたかのように息が苦しかった。
いまだ団体戦の余韻が残っていた。
二日目の午後の男子シングルス三回戦。団体準決勝の残像を脳裏にかかえながら、拓真はコートに入った。
ラケットを置き、卓球台の脚にタオルをかけると、腰を左右にねじり体をほぐした。午前中の団体戦に出場していなかったぶん、いくらか体が重いように感じた。
対戦相手である廣田はまだ来ていなかった。向こうは今日すでに団体戦の準決勝と決勝のニ試合をこなして十分に打ち慣れている。団体戦から間が空いたとはいえ、次の試合は廣田のほうがスタートに分があると考えていいだろう。出足で遅れをとらないよう、拓真は気を引き締めた。
廣田は切れ長の目をしており、どことなく冷たい印象だった。すくなくともこの大会中に、廣田の表情がほころんだのを見ていない。準決勝と同じく一番手で出た団体の決勝さえ、余裕のストレート勝ちだった。常にポーカーフェイスを崩さず、ガッツポーズすら――いや、ちがう。唯一、廣田が感情をあらわした場面があった。
龍平との試合だ。あの試合の最終セット、マッチポイントを手にした廣田は、長いラリー制すると、ほんの一瞬だったがちいさく、空いた手でこぶしを握った。わずかな仕草を拓真は見逃さなかった。敗れたにもかかわらず、煌々と輝いていた龍平の瞳も。
廣田がやって来た。拓真の反対側のベンチにバッグをおろし、緩慢な動きでジャージを脱ぐ。ケースからラケットを出しながら、あくびを漏らした。と思うと、すぐにまたもとの無機質な顔に戻る。意外だった。拓真はいささか拍子抜けした。直前になって敵の鉄仮面が崩れはじめた。いまいちつかめないが、惑わされてはいけない。その強さに間違いはない。
両者がコートにつくと、審判からボールが渡される。
試合前の練習はおよそ一分。フォアクロス、バッククロスと、他愛のない打ち合いだ。しかしそれだけで相手の力が嫌というほどわかる。たかだかフォアハンドとバックハンド。基本中の基本。一打一打から、収まりきらない廣田の強さがにじみ出ていた。コートにつく前とは別人だった。
しだいに大きくなっていく拓真の心臓の鼓動とボールの弾む音が重なる。指先が冷たい。ちょっとでも咳こんだら胃の中身がこみ上げてきそうだった。
「やめ」
主審の合図で拓真と廣田は中央に集まった。じゃんけんをすると、廣田がサーブ権をとった。
「左で、カット……」
ラケット交換のとき、廣田はぼそっとつぶやいた。
ラケットとラバーの種類を見れば、相手の戦型はたいがい判別できる。廣田はコテコテのドライブマン。拓真は、カットマン用のラケットにハイテンション系の裏ソフトラバーを貼っていた。
珍しげで意外そうな反応には慣れている。左利きでカットマン。初見の人間は、だいたいが拓真の戦型に引っかかる。実力の程より、プレースタイルの物珍しさに興味を示すのだった。それがいくぶん嬉しく、しかしときおり煩わしかった。廣田の一言はどちらにもあてはまらなかった。見下された気分だった。わざわざ本人の前で口に出して言わなくともいいだろう、と思ったものの、相手が強者だと理解しているゆえに弱気な自分が顔を出す。
龍平を手こずらせるサーブ力と、強力な両ハンドドライブ。それにもかかわらず、ミスのない堅実なプレー。はたして自分がどこまでやれるか……
主審が「ラブ・オール」とコールすると、観客席から声援があがった。不安を振り払うように頭を振り、拓真は前のめりに身を屈めた。どこまでやれるかではない。勝つのだ。相手がだれであろうと関係ない。戦いで勝利を目指さなくてどうする。
「サッ!」と拓真はサーブを求めるかけ声を発した。廣田はフォアサーブの姿勢で構えた。拓真の周りの景色が消え、耳から音が遠く離れていく。
一球目、どうする? というか、なにがくる?
短くきたらストップ? フリック? 下回転なら……横回転なら無回転なら、フォアでミドルで、いいや、まずは――
「アッ」
と思ったとき、廣田の放ったサーブはすでに拓真の懐にあった。とっさに右足をひき、バックカットの体勢に入る。その間も、サーブ球はさらに深く突き刺さる。左腕、サーブの軌道を断ち切るようにまっすぐダウンスイング。レシーブは返った。だが、やや高い。浮いてる。三球目、打たれる。廣田のフォアハンドドライブは、拓真のフォア側をぶち抜いた。
「ワン・ラブ」
棒立ちだった。呆然とした。仲間の声にハッと我に返り、拓真はボールを拾いに行く。
それからのことは、よくおぼえていない。たぶん、終始同じ調子だったように思う。第1セットの一本目がすべてだった。敵の雰囲気にのまれ、動揺し、自分の力を出せず、気がつけば試合は終わっていた。
セットカウント3ー0のストレート負けだった。
観覧席に戻っても、拓真はチームメイトの励ましに平然と答えた。椅子に腰を下ろすと、アリーナで進行する試合を茫然と眺めた。頭は空で、しばらく悔しさは滲んでこなかった。敗北が、他人事のふうに思え、一時的に感情が麻痺したようだった。非情にも、体中から浮かんでは流れる汗だけが、現実を確と示していた。