さよならの雲
朝から安物のウイスキーを飲み、横になっている。しみついただるさが抜けない。目の奥はこり固まり、思考がまとまらない。鉛のバリケードで封鎖されたように、全身が世界から孤立する。神経はピリピリしているのだが、硬い殻で閉ざされた内部だけが火照っている。脳は、ゆでられた雲丹のようだ。
なにもする気が起きず、なすべきこともなく、せめてもの抵抗と踏ん張って首をまわすと、窓から思いのほかきれいな空が見えた。はるか昔に見た『イッツ・ア・ビューティフル・デー』のアルバム・ジャケットのようだ。記憶の中にある空はとても遠く、青く、鮮やかである。あのジャケットの女はおそらく夏服だったか。定かではない。
酔いがさめかかってきたときの寒気が苦手だ。だからそうなる前に、ボトルキャップにウイスキーを注ぎ、横になったまま慎重に口もとへ運ぶ。これを頻繁に繰り返していると、ボトルはすぐにカラになる。宅配の酒屋に電話しなければと思ったが、財布にいくら残っているのか急に気になり始める。「カネの切れめが、酒の切れめ」声に出してみて、ウイスキーを一気に放りこむ。のどの奥に一瞬だけ刺激がはしるが、余韻を感じるひまもなく胃の腑は不機嫌になった。
軽い吐き気を押さえ込んでいると、キジトラの飼い猫がゆっくり近寄ってきた。私の目の前で止まり、前足をそろえて行儀よく座り込む。猫は酔っぱらいの顔をながめている。顔は赤いか。酒くさいか。浮浪者のようなすえた臭いがするか。声を出さずに問うてみるが、だまって私を観察しているだけだ。手を伸ばしてかまってやりたいが、それさえ億劫だ。猫に責められるのがいたたまれなくなり、また首を反対側にまわした。
横になっていても、からだはラクではない。背中の左側に鈍痛を感じるので、仰向けになり背筋を伸ばす。床の冷えがからだに伝わるのを感じる。天井のクロス材をながめているうちに、いつのまにか眠りに堕ちていた。
「起きなさい」
聞きなれた声がする。
それは、亡くなった妻の声だ。馬鹿げていると思いながらもまわりを見渡した。ありえない事象を前にして気が動転したが、静かに、そして徐々に、我に返った。忘れかけていた声を聞けた喜びが、不在に侵食された心を溶かす。ほうけたように口を開けていたが、口の乾きに気づいて再び我に返った。酔いはもうとっくにさめていた。風にあたりたくなり、よろよろと立ち上がってベランダのガラス戸を開ける。
すると、真っ青な空に目を疑う光景が広がっていた。女が寝そべり、こちらに手を振っている。そんな形の雲が浮かんでいる。雲は一定のスピードで流れていき、みるみるその形を失う。「お願いだから、待ってくれ」口に出さずにはいられなかった。妻を救えなかった事実。病苦に苦しむ姿と解放された魂。人の生の愛しさすべてが襲いかかり、涙がこぼれる。雲はすでに、なんの変哲もない形に変わっていた。
みんな最期は空へゆく。みんな最期は空へゆく。そんな安っぽい幻想が、酔っぱらいの心にたまった澱を掻き出した。さよならとはっきりと口に出せなかった、病床での悔恨が薄らいでいく。
もう一度、生き始めることはできるのか。青空に問うたとき、足もとで猫が鳴いた。