前の世界について
手酌で酒を飲んでいたダニエルが、ふと思いついたように聞いてきた。
「そういえば、肝心なことを聞いていなかったな。アリスのいた世界というのはどういうところなんだ?」
その言葉に、しばらく俺の思考がフリーズした。
「どうした?」
ダニエルが怪訝な顔で聞いてくる。
「い、いや、全然前の世界について聞かれたこともないし、自分でもあまり思い出さなかったから、聞かれてちょっと驚いた」
それが正直な感想だった。
「おいおい、そんなもんか? 普通、前の世界のことが恋しくなる物だろう」
ダニエルが変な顔をする。
「そのはずなんだけど、本当に日常が忙しくて思い出す暇もなかったんだ。前の世界か……」
と、窓から外を見た。
庭の向こうに通りがあり、そこをちょうど馬車が通り過ぎていた。
改めてみると、本当に異様な光景だ。
「まず、馬車とか走っていない。あんな遅い物はもう使っていない」
「ほお、馬じゃ無いのか」
ダニエルが意外そうな顔をする。
「じゃあ、他の動物を使っているのか? それとも自転車みたいなものでも使っているのか?」
この世界だとそういう発想になるらしい。
「いや、そうじゃなくて……。えーと、こっちにエンジンどころか蒸気機関もないよな」
「なんだそれは?」
俺も全然詳しくないので説明にかなり苦労したが、シリンダーっぽい絵を描いたりして、なんとか蒸気の力や爆発するガソリンの力で回転を作り出せることを説明した。
ダニエルは文字通り、目を丸くしていた。
「ほお……まさか、湯を沸かす力で乗り物を動かすだって? そんな奇天烈な話、初めて聞いたな」
ガソリンエンジンの方は、そもそもこの世界にガソリン的な物がないので、どうもあまり心に残らなかったらしい。
しかし、蒸気機関の方はいたく気に入ったようで、ダニエルは穴が空くほど俺の描いた下手な絵を見つめている。
「本当は俺がなにかの技術者とかだったら、原理もよく分かるし、もしかしたら試作品とか作れたかもしれないけど、そういうことは俺には出来ないんだ」
と、残念そうに言うと、ダニエルは顔を上げた。
「おい、そんなことはないぞ。お前の持っている知識はまさに未来への架け橋だ。細かいことが分からなくたって、こりゃとんでもないアイディアだぞ。手先の器用なやつだとか、学者を集めてくれば、十分に役に立つじゃ無いか。なにしろ、お前のいた世界ではそれが実際に動いているんだからな。うまくいくかどうか分からないアイディアと、うまくいくことが分かっているアイディアじゃ、全くもって価値が違うぜ」
と、ダニエルが言う。
言われてみれば、その通りだ。
この男は頭がいい。
「そ、そっか、こんな中途半端な知識でも価値があったのか……」
「当たり前だぜ。俺は、お前を金持ち連中にゲストとして連れて行く以外に、あちこちで講演会をぶち上げようと考えていたんだ。たとえ生半可な知識でも、他の世界の話なんて誰だって聞きたがるに違いない。異世界から来た人間の講演となればいくらでも金が取れるさ。その後は出版して印税もとれる」
ダニエルはいろいろ考えていたらしい。
ペラペラといろんなアイディアが出てくる。
「な、なるほど。そうか、異世界から来たってことは、その体験談だけでも価値があるのか」
「あったり前だ。お前、全く意識してなかったのか?」
そう指摘されて、思わず黙った。
俺自身には全然価値がないと思い込んでいた。
「い、いや……その俺がいた世界には『異世界転生』っていうジャンルの作品があってさ。そういうジャンルの作品だと、特殊能力を与えられるのが普通で、能力を与えられない転生者って無能扱いなんだよ。だから、俺も全然能力が無いから、すごい無能だと思ってたんだ」
「なんだそりゃ。お前の価値は計り知れないぞ。しかも、証拠となるあの時計もあるし、こんなとんでもない奇抜なアイディアまである。ここまで証拠がそろえば、ペテン師だと疑ってかかってくるやつにも立ち向かえる」
男は興奮した様子で、何かを手元のノートに書き付けていく。
いろいろとアイディアがわいているようだ。
「しかも、その容姿だぜ。ただのむさい男だって他の世界の知識を持ってるだけで十分に価値があるところが、その容姿なんて、ほんとお前恵まれてるな」
「そ、そうかな……」
「間違いない」
ダニエルがさらにノートに書き付けていく。
そっか、俺ってこの世界でそれなりに価値があるんだ。
「あと、言ってなかったけど、さっき言ったエンジンの力で飛行機という空を飛ぶ乗り物もある」
その言葉を聞いたダニエルはノートに書き付ける手を止めて、ゆっくりを顔を上げて俺の顔を見た。
その目は、冗談だろ?と言っている。
「本当だぞ。商業で運行している飛行機なんて数百人とか乗れる大きさだし」
その言葉にダニエルは突然笑い始めた。
「はっはっはっ! はっはっはっはっはっ!! おい、なんて世界から来やがったんだ!? お前、魔法の世界にでも住んでいたのか!? 人間が空を飛ぶだって!? おい、こいつは参ったな!!」
ダニエルはひとしきり笑ってから、水を飲み込んだ。
「じょ、冗談きついぜ。馬のついていない乗り物ぐらいまでなら、俺も納得したが、空を飛ぶとか……おとぎ話の世界だろうが」
ダニエルは目を白黒させている。
そうか、この世界の人にとって、前の世界の話はそれぐらい突飛なことなんだ。
「宇宙にも行けるんだけど……」
「ん、なんだって?」
ダニエルが俺の顔を見る。
宇宙はうまく現地の言葉にならなかった。
これ以上刺激すると、本当におとぎ話と思われそうだからこれ以上は止めよう。
ダニエルに、インターネットとかスマホとかの話をしても到底受け入れてくれないだろう。
「ちくしょう、そんな世界から来たのか。じゃあ、この世界は笑えるほどお粗末に見えるんだろうな」
と、ダニエルが悔しそうに言う。
「ま、まぁ、俺の感覚だと、俺が住んでいた世界より200年とか300年前の世界の感じかな」
「200年や300年じゃ、そんなに変わらないだろ」
と、ダニエルが言う。
ここは産業革命以前の感覚だから、物事はそんなすぐに変わらない。
おそらく、おじいさんとその孫の生活はほとんど同じ物になるはずで、現代とはまったく感覚が異なる。
「それが全然違うんだよ。10年、20年で世界がどんどん変わる。若者が使っているツールをお年寄りに見せても全然使い方が分からなかったりするくらいだ」
「はぁ? どんな世界だ、想像できない」
俺はいろんなたとえ話を混ぜたり、生半可な知識でいろいろ説明してみた。
しかし、ダニエルにはいまいちピンと来ないらしく、反応は鈍い。
「すごいことは分かるが、全くイメージが出来ない。そんな世界から来ていたのか……ただの嬢ちゃんだと思って舐めてたぜ」
ダニエルがうめきながらも、俺が言った話をメモしていく。
「すごすぎて理解できない。一度、お前の世界に行ってみたいぜ」
「帰れるなら俺も帰りたいよ。でも、使命を果たさないと帰れないんだろ。俺の使命は一体何なのか……」
と、言ってから途方に暮れた。
使命と言われても全く見当が付かない。
するとその様子を見たダニエルが、ふっと笑った。
「おい、こいつがその『使命』なんじゃ無いか?」
「ん?」
俺もダニエルの顔を見た。
「お前の持っている知識、経験、とんでもないぜ。この知識と経験をこの世界に広めて、この世界を変えていくことがお前の使命なんじゃ無いのか?」
「そ、そうなのかな……?」
いまいちピンと来ないが、ダニエルの言うことも分かる。
確証は無いが、使命に関係あるかもしれない。
「あ、そういえば、映画の知識もおもしろいかも」
ふと思いついて口に出す。
「なに、エイガ?」
俺は少しずつ違う絵を連続で見せることで動画に見えることを説明した。
ダニエルのノートを借りて、隅に棒人間のアニメーションを描いて、パラパラめくって動いて見えることを実演した。
そのアイディアに、ダニエルは心底熱狂した。
「おおおお! そ、そうか、言われてみれば、その通りだ。なんで俺たちはこんなことに気がつかなかったんだ……?」
ダニエルがノートを何度もめくりながらうめく。
「本当は写真技術があれば、写真を高速で連写することで実写の動画が作れるはずだ。でも、この世界には写真はないみたいだな」
しかし、俺の言った「写真」という言葉はきちんと現地の言葉になった。
あ、写真って言う言葉がこの世界にあるぞ。
「写真か。あるにはあるが、そんな連写できるようなものじゃないな。俺の知っている話では1枚を取るのに5時間はかかるはずだ」
「5時間……」
当たり前だが、モノクロだろう。
「でもこれは絵でもいいわけだろう? 少しずつ動く絵を描いて順番に移せば、動く絵が出来るって訳だ。おい、とんでもない世界が広がるじゃ無いか」
と、ダニエルがノートを持ってぷるぷる震えている。
「でも、それをフィルム形状にして、それを巻き取って、そして定期的に投光する装置も必要だ。それにそれを投影するためにはレンズも必要だろうし」
「ま、待て! 今書く!」
ダニエルが俺が言った台詞を丹念にノートに書き記していく。
俺も映写機の仕組みなど詳しく知らないので、ものすごく適当な解説だ。
でも、ダニエルはそれを真剣に聞いている。
「実際に実現するのはなかなか難しいと思うけど」
と、俺がコメントをしたが、ダニエルはそんな台詞を聞いていない様子で興奮していた。
「ついてる……俺はついてる。お前と会えて本当によかった! こりゃ、講演会で小銭稼ぎをするどころの話じゃ無いぞ! お前、そんな話を今まで黙っていたのか!? なんで言わなかった!? アルフォンスには言ったのか!?」
「い、いや、アルフォンスにも言ってないよ。そんな話題にならなかったから」
「話題にならなかったからって、こんなすごい事を黙っているやつがあるか!? 畜生、すごいやつに出会っちまった」
ダニエルが興奮を隠しきれない様子で、酒をあおって一気に飲み干す。
「よーし……こうなったからには絶対に逃がさんぞ」
「……は?」
「俺は最後まで絶対にお前を逃がさん。この世の頂点まで駆け上がるまで、一緒に食らいついていってやるからな」
だんだんと酔ってきたのか、ダニエルの目が据わっている。
「い、いや、俺別にそこまで成り上がる気とかないから。普通に講演会とかでいいよ。当座のお金を稼いで、後は元の世界に変える道筋が立つだけでいいんだから」
「馬鹿をいえ! お前の頭があれば、この世界に革命を起こせるんだぞ! 動く絵や石炭で動く乗り物など、そんなものこの世界にはないんだぞ!」
「よ、酔いすぎじゃ無いか?」
「酔ってねぇ!」
いや、どうみても酔ってる。
「おい、お前、どうせ何食わぬ顔をして、他にもいろいろ知ってやがるな!?」
と、ダニエルが酒臭い息を吐きながら、顔を近づけてくる。
あわてて、身体を反らす。
「ま、まぁ、そりゃあるけど! そんないきなり聞かれても思いつかないって!」
「出し渋る気か!?」
「ち、違うって! それに、説明が難しい物も多いし……」
「それこそ、時間を取って教えろ! この世界を二度も三度も変えられるような知識を持っていて、なんでメイドなんかやってやがるんだ!」
ダニエルが怪しいろれつで叫ぶ。
い、言われてみれば、その通りだけど、本当に全然考えてなかった。
「俺と一緒に世界を変えようぜ」
ダニエルは俺の手を握って、熱っぽい目で俺を見つめた。




