またね
目が覚めると、もうすでに窓から見える空は赤くなっていた。
もう夕方らしい。
「あれ……1時間ぐらいのつもりだったのに」
ベッドに入ったのは昼食の時間帯だったので、4-5時間寝てしまったようだ。
起き上がって、窓の外をぼーっと眺める。
「はぁ……ほんと、日本じゃ無いよなぁ、この風景」
この前にバルコニーから見たように、窓からは近隣の屋敷が見える。
日本では見られない石造りの建物ばかりだ。
いつの間にか、この景色が当たり前になっていた。
「んー……」
なんとなく窓の外を眺めていると、塀で仕切られた敷地と敷地の間の道を馬車がゆっくりと進んでいく。
扉を叩く音で振り返ると、クロエが入ってきた。
「あ、クロエ……様」
「普通の言葉でいいから。で、大丈夫?」
と、クロエが心配そうに腕を触ってきた。
「あ、大丈夫。ただ、疲れて寝てただけだから」
寝ぼけた頭で答えた。
「ほんと、全力で叫んでたもんね」
クロエがちょっと笑いながら言った。
「あー……うん、全力だったね」
痛みを思い出して、嫌な気分になってきた。
忘れる忘れる。
「それにしても……変なもんだよね」
と、窓の外に視線を向けた。
「ん? どうしたの?」
「変な時間に起きたからかな、いつもと景色が違って見えたんだ。なんで、こんなところに自分はいるんだろうって思った」
と、通りを進んでいく馬車にもう一度視線を向けた。
急いでいないらしく、まだ視界の中をゆっくり進んでいる。
「え?」
「車もないし、電車もないし、飛行機も飛んでないし」
そう言ってから、ため息を吐き出してクロエに向き直った。
すると、クロエは困った顔をしていた。
「ごめん、何のことか分からない」
車はクルマ、電車はデンシャ、飛行機はヒコウキと、日本語の発音のまま言ったので分からなくて当然だ。
「いいの。ただ、私が元々居た世界と全然違うなぁって話」
肩をすくめた。
すると、クロエがもじもじした。
「あの……テープごめんね。あんなに痛がると思わなくて」
「あぁ、いいってば。なんか寝たらすごくすっきりしたし。もう二度とテープは罰ゲームにしないからね」
と、笑って見せた。
すると、クロエも表情を緩めた。
「でも、あの悪乗りは酷いよ……変なところでマリーに対抗しないでよ」
「だから、ごめんってば」
クロエが素直に謝る。
「でさ……私そろそろ帰らないといけなくて」
と、クロエが切り出した。
その発言に驚く。
「え? そうなの? てっきり一週間でも二週間でも居座るつもりかと思った」
「もう、アリスは酷いなぁ。私だってそうしたいけど、ばあやにもいきなり押しかけるなんてとんでもないって言われてるし、どうしてもというのなら一泊にしなさいって言われてるもん」
クロエが口をとがらせる。
「え? メイド長の言うこと聞くんだ? てっきりそういうの無視するかと思ったけど」
「私だって本当は無視してずっと居たかったけど、アルフォンス様も私のことあまりよく思っていないし、これ以上長居すると印象もっと悪くなりそうだから」
と、クロエがうつむいた。
「え……さっき、あんなに楽しそうだったのに?」
「あれはアリスが居たから!」
「え?」
首をかしげると、クロエがちょっと気まずそうな顔で答えた。
「アリスが居なくなった後、なんか雰囲気悪くなっちゃってさ……。これ以上長居するともっと雰囲気悪くなりそうだから、一回帰る」
そうか。
みんなで俺のことをいじって楽しんでいたと思ったら、俺がいなくなったら雰囲気が変わっちゃったのか。
「そ、そっか。それはちょっと残念…………」
自分で言った台詞に疑問を持って首をひねった。
「……いや、やっぱり残念じゃ無いかな。ちょっと大変すぎるし」
「ねぇ、ちょっと、なんでそういう言い方をするのよ! 普通に残念って言ってよ」
「クロエの事は……正直けっこう気に入ってるけど、ちょっと身が持たないんで」
「あーもー、アリスはそういうこと言うんだ。さっき、テープを剥がすとき誓ってくれたじゃん!」
クロエが俺の腕をつかんだ。
「あ、あれは冗談でしょ……ってか、悪乗りだし」
「もう!」
クロエが不機嫌そうにぷくっと頬を膨らませた。
あ、ちょっとかわいい。
「っていうかぁ……」
クロエが顔を近づけてきた。
驚いてのけぞる。
「な、なに?」
「私の想い、そんなに伝わってないのかな」
と、クロエが唇を近づけてくる。
「寝てたところだから! せめて口をゆすいだ後にして!」
そう主張すると、クロエが顔を引っ込めた。
「乙女だなぁ」
「そういうの関係なく、普通に恥ずかしいから! ちょっと口ゆすいでくる」
部屋を出て、厨房にいき水で丹念に口をゆすぐ。
ついでに顔を洗ってから部屋に戻る。
クロエも窓から外を見ていた。
「おまたせ」
すると、クロエはちらりとこちらを見た。
「ねぇ、この景色、アリスにとっては不思議な景色なの?」
「あぁ……うん、そうだね」
「ふーん……そっか」
クロエがしばらく無言になる。
「ん……クロエ?」
「アリスって、本当に違う世界から来たのね」
「まぁね」
「だから、私の想いが伝わりにくいのかな? 私、ちゃんと伝えてるよね」
と、クロエが向き直って目をじっと見つめてきた。
「え?」
その目が真剣だったので、俺はちょっと固まった。
「私、アリスが男と女とか、他の世界から来たとか、そういうことと全然関係なく、好きだからね」
と、クロエがじっと俺の目を見てくる。
「そ、そう……なの? なんか勢いじゃ無くて?」
そう答えると、クロエの視線が険しくなった。
「私の言うことを信用してよ! 私が好きって言ってるんだから好きなの! ちゃんと受け取って!」
「え、な、なに、いきなり……」
「なにって……明日から私はアリスと会えないのよ!? 寂しいって言ってるの!」
クロエの目は真剣で、なんて答えるべきか分からなくてたじろいだ。
「う、うん、そっか……」
「もう、どうやったらアリスは私に振り向いてくれるのよ」
と、クロエが下唇を噛んだ。
「ご、ごめん、クロエ。多分……最初にあったのがクロエだったら、その想いに答えられたのかもしれないけど、今自分の周り……好きって言ってくる人が多すぎて」
そう答えると、クロエはふっと息を吐き出した。
「分かったわよ。でも、『私はクロエ様に忠誠を誓い、すべてを受け入れます』って言ったでしょ。ちゃんと、受け入れてね」
と、クロエが顔を近づけてきた。
「う、うん……ど、努力します」
クロエがキスしてくる気がして、目をつむった。
「ねぇ、待って。お別れのキスなんだから、いつもと違うようにしようよ」
クロエの言葉で目を開けた。
クロエがちょっと恥ずかしそうに、目を背けていた。
「え?」
「私が無理矢理やると、本当に私が片思いしている気になるんだから。お別れのキスがそんなの嫌なの」
「じゃ、じゃあ、こっちからすればいい?」
「そうじゃなくて……一緒にキスをしようよ」
「い、一緒に?」
「だから、どっちかがどっちかに無理矢理やるんじゃなくて、両方からキスしようよ。私とアリス、そういうキスしたことないよね」
「ない……かな」
クロエの言葉を聞いて、こっちの顔も赤くなってきた。
「じゃあ、一緒に」
クロエが顔を近づけてきた。
俺も顔を近づけた。
両方の動きの結果、ちょうど中間でクロエの唇と自分の唇が触れた。
いつもより優しいキスだったが、たしかに心が通じるような気がした。
クロエはキスを終えると、俺の身体に抱きついてきた。
「ひっ! ちょっと、びっくりする!」
「いいじゃん! 私の匂いをアリスになすりつけてるの!」
クロエは俺の身体を思いっきり抱きしめて、そのまま離さない。
「クロエ、そんな一生会えないわけじゃ無いんだから」
「そうだけど! 絶対にばあやが怒るから、私が次に来れるのは一ヶ月以上も後なの! アリスが来てくれればいいけど、なんか期待できないし!」
と、クロエが本当に匂いをなすりつけるように身体を動かしながら言う。
うわ、うわ、ちょっとたまに洒落にならない刺激が来るから、ほどほどにして!
「あ……そう思われてるんだ」
「だって、そうでしょ! アリス、私の相手するの疲れるって思ってそうだし、他の人にも招かれて忙しいんでしょ? じゃあ、多分来てくれないでしょ……」
「そ、それは事実だけど……またいつか行くから」
「いつかっていつ?」
クロエが俺の目をのぞき込んだ。
「わ、わかんないけど……」
気まずくなって視線をそらした。
「もー! やっぱり、私が来ないと駄目じゃん! この浮気者! 浮気者! でも、大好きだぞ! うん、また来るから」
と、ひとしきりわめいてから、クロエが俺を離した。
「じゃ、行くからさ」
「え、もう行くの?」
「さっき準備を済ませたし。ほら、荷物も無いでしょ?」
と、クロエは部屋の隅を指さした。
たしかに、この俺の部屋にはクロエの鞄が積み重ねられていたはずだ。
寝ている間に片付けたらしい。
「そ、そうだったんだ。じゃあ、玄関まで見送りに行くよ」
「駄目。来ないで」
と、クロエが俺を手で制した。
「え、なんで?」
「アリス、自分の痛みを分からないって言ってたけど、アリスだって私の気持ち、全然分かってない。アリスが見送りに居たら、私絶対に帰りたくなくなるもん。帰れない。だから、これでお別れね。すぐに出てくから、玄関までこないで」
「そ……そうなの?」
そうは言いつつ、実は見送りに出てほしいのかな、とも思ったが、クロエの顔は真剣だ。
「うん、わかった」
「ありがと。本当にまた来るからね。ちゃんと迎えに来るからね」
クロエはキリッといい表情を見せた。
あ、なんかその顔、格好いい。
クロエは俺の顔をしっかりと見ると、身を翻して部屋から出て行った。
「またね……ん?」
今、『迎えに来る』とか言った?
いや、ただの言い間違いだろう。
なんか不穏な言葉だけど、言い間違いに違いない。
この部屋は正面玄関に面していないので、玄関の様子を見ることができない。
廊下に出て、向かいの空き部屋に移動した。
その窓からそっと外をうかがう。
すると、たしかに貸し馬車が止まっていて、クロエのメイド長がアルフォンスに対して何度も頭を下げている光景が目に入ってきた。
アルフォンスは「お気になさらず」的なことをメイド長に言っているようだ。
クロエはすでに馬車に乗ってしまったらしく、姿が見えない。
やがて、メイド長も馬車に乗り、馬車は正門から出て曲がり道に消えていった。




