鏡
翌日、目を覚ますとかなり頭がはっきりしていた。
体の違和感はかなり少なく、まだ少しおかしいものの吐き気やめまいの様子はない。
寝ている間にかなり体とシンクロしてきたようだ。
「あぁ……よかった。うん、声も普通」
声もあまり違和感なく出せる。
すばらしい。
俺はベッドの上で上半身を起こして、様子をうかがった。
すでに陽は高く、朝より昼に近い時間になっていると思うが、屋敷の中は静かなものだ。
「ん……あれ、マリー居ないのか」
昨日は足繁く俺の様子を見に来てくれたのだが、今日はなかなか来ないようだ。
体がだんだんなじんできたから、そろそろベッドを出たい。
しかし、あれだけひどい病人の有様だったので、勝手に一人で出て屋敷の中をうろうろするのもはばかられる。
「うーん、参ったな……っていうか、トイレ行きたい」
そう。普通にトイレに行きたい。
なにしろ、昨日の夜にマリーに支えられて行ってからかなり時間がたっているのだ。
道は分かるので一人で行けないこともないが、そこまで一人で歩けるかも不安がある。
「う……でも、漏らすわけにも行かないし」
ベッドから降りて、スリッパに履き替える。
ベッドや壁に手をやりながら、ゆっくりと立つ。
力は入りにくいが、とりあえず平衡感覚はある。
いきなり脱力して転ぶことはないだろう。
これならトイレに……いや、やっぱり怖いな。
「し、仕方ない。とりあえず廊下に出て誰か探そう……」
マリーと貴族の男以外全く知らないが、とにかく誰かに出くわせばなんとかなる。
よし、とりあえず廊下に出よう。
ゆっくりと壁伝いに歩いて、扉に向かう。
すると、台の上にいろんな小物が置いてあるのが目に入ってきた。
花瓶、手鏡、小さな壺、焼き物の小さな人形。
どれもこれもなんとなくおしゃれで、貴族の持ち物らしい感じだ。
「ん……鏡」
俺は壁に手をつきながら、一瞬脱力しそうになった。
だって、俺、自分の容姿を一度も確認していない。
俺はそろそろと、手鏡に手を伸ばして、柄をつかんだ。
鏡の反射面がこちらに向かないように気をつけながら、ゆっくりと引き寄せる。
「…………」
鏡を傾ければ、自分の顔が映る。
どうしよう。
どうしよう。
本当に怖い。
なんでこんなに怖いのか、わからないくらい怖い。
「やめて……おく……いや、でもいつか見るわけだし。でも、驚いて漏らしても困るし」
悩んでから、俺は手鏡を慎重に元の場所に戻した。
今はトイレに行くときなのである。
膀胱がいっぱいの状態で驚いたら漏らす可能性がある。
これを見るのはトイレに行った後にしよう。
「よ、よし、後で……うん」
扉を開けようと取っ手をつかもうとすると、不意に扉が開いた。
「えぇ?」
「あれ、起きてたの?」
目を丸くして俺の顔を見た少女は、マリーではなかった。
赤髪のちょっと目つきの悪い少女だった。
こういうことをいうと失礼だが、別に美少女ばかりというわけでもないのだな、と納得した。
「あ、え、えっと、と、と、トイレに」
自分では割と冷静に考えているつもりだったが、声が震えまくっている。
俺はなんでこんなに怯えているんだ。
「そうなの。じゃあ、連れて行ってあげるよ。支えがいる?」
「お、お願いします」
見ず知らずの少女に肩を貸してもらいながら、廊下を歩き出した。
「調子はよくなったの?」
少女はマリーとは違って少し他人事感を感じさせる口調で聞いてきた。
「な、なんとか……ご迷惑をおかけします」
「それは、別にいいけど。今日はマリーがダウンしちゃって駄目なのよね。私とコレットが半分ずつ看病することになってるけど、なかなか手が回らないかもしれないから、よろしく」
「え、マリーさんが?」
聞き返したが、よく考えれば当たり前だ。
昨日・おとといと丸二日つきっきりで看病していたのだ。
最初の夜は夜通し吐いていたらしいから、マリーも全然寝ていなかったのかもしれない。
「あ……本当にご迷惑をおかけして」
「いや、いいけどさ。ってか、あんた記憶が無いって本当?」
少女は割とつっこんどんに聞いてきた。
「あ、はい。名前も覚えて無くて」
「ふーん。そっか」
少女はあまり興味がなさそうに返事をした。
うーん、なんかマリーと違ってやりにくい。
悪い人じゃ無いと思うけど、ちょっと苦手かも。
「あ、あの、よろしかったらお名前を……」
「あ、私? レベッカ。あと、もう一人眼鏡かけたメイドがいるんだけど、そっちはコレット。うちのメイドはこの3人だけかな。大きな屋敷と違ってお局様のメイド長とか居ないから、気楽でいいのよね」
「そ、そうですか」
なるほど、メイドは三人しかいないのか。
執事とか料理人とかそのほかの人間もいるだろうが、やはりかなり人数が少ないようだ。
静かなのも納得できる。
「でー、あんたがうちの前に倒れてたから大騒ぎよ。マリーなんかほんと張り切っちゃって。お人好しよねー。いや、悪いとは思わないし、いいけどさー。でも倒れるほど張り切らなくてもね。ああ見えて姉御肌なのかな?」
「え? さ、さあ」
「っていうか、ご主人様もガストンもフィリップもなんかあなたの噂ばっかりしてて笑っちゃうわよ」
「え? ガストン? フィリップ?」
初めて聞く名前だ。
「あぁ、ガストンは執事のおじいちゃんよ。フィリップはうちの料理人。料理の腕はそこそこあるんだけど、なんか時々おっちょこちょいなのよねぇ。あと、はな垂れ男どもも気にしてたわねー」
「は、はな垂れ男?」
と、聞き返したところで館の隅にあるトイレにたどり着いた。
俺は慎重に壁に手をつきながら、トイレに入る。
トイレに入って排尿するところまでは描写しないから、おのおの勝手に想像するように。
とにかく、自然の摂理に従って心地よい感覚を味わってると、ついでに大便もしたくなった。
「あれ、固形物食べてないんだけどな……」
そういえば、大便は腸壁から剥がれた古い細胞と食べ物のカスから出来ているので、何も食べなくても大便は出ると聞いたことがある。
なるほど、知識は立証された。
とにかく、大自然の摂理に従って、すっきり感を味わっていると、扉の外から声が響いてきた。
「で、はな垂れ男たちのことなんだけどぉ」
え!?
ちょ、この人、トイレの扉の真ん前で待ってたの!?
マリーは気を利かせてさりげなく離れてくれている雰囲気があったけど、この少女にはそんなデリカシーはなかったらしい。
すべての音を他人に目の前で聞かれたと思うと、なんというか……いや、もう恥ずかしいというか気まずいというか。
「ちょ……聞こえるので、離れていてくれますか!?」
もちろんこの世界には流水音を発生させて恥ずかしい音をごまかす装置など無い。
トイレだって便座の形はあるが、くみ取り式のボットンだ。
「あぁ、私そういうの気にしないから」
「私が気にするんですっ!」
うをっ、早くトイレから出たい。
でも、大自然の摂理がもう少し気張れと言ってくる。
駄目だ。大自然の摂理を無視することは出来ない。
「で、はな垂れ小僧たちなんだけどぉ、うちメイドが3人だけで、若い男は料理人のフィリップだけなのよ。だから、執事のガストンが時々近所のはな垂れ小僧たちを雇って仕事させてるのよね。昨日もあいつらが来てたんだけど、あんたの噂ばっかりしてたんだから。ほんと、男ってのはどうしようもないよね~」
いや、気張っている俺の前で平然と話をしているあんたもどうかと思う。
めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。
本当に心の底から、恥ずかしいんだけど。
「そ、そうですかっ! 音を聞かないでくださいよ!」
「あぁ聞いてないって。でも、本当にマリーには感謝しときなさいよ。マリーが止めなかったら、男どもが押しかけて大変なことになってたわよ」
なるほど、そういえばマリーしか見なかったし、マリー以外に入ってきたのは貴族の男だけだった。
ってか、そんなことより、早くどこかに行ってくれ。
いや、もうそろそろ出られるか。
「…………うーもー」
ちょっとつぶやいてから、トイレから出ると、レベッカは本当に扉の真ん前で立っていた。
なんとデリカシーのない。
しかし、礼は言わないと。
「お、お待たせしました」
「あーいいよいいよ。そんでさ、そのはな垂れガキどもなんだけど、あいつらが本当に馬鹿でね。先月なんか私たちの着替えを覗こうとか言って、屋敷の外で肩車して壁の割れ目から覗こうとしてたの。ほんと、馬鹿じゃない? しかも、私たちの部屋の隣の部屋なのよね。あんなところ覗いたってなんにも見えないのにさ。ね、馬鹿でしょ?」
「あ、あぁ、そうですね。馬鹿ですね……」
手を洗いながら聞き流す。
また体を支えてもらいながら、部屋に戻っていく。
「でさぁ、知ってる? あんたの噂がとんでもないことになってるのよ。暴漢に襲われた貴族の少女だとか、ご主人様に助けを求めてはるばるやってきた遠いところの親戚だとか、お姫様だとか、もう本当にみんな噂好きでしょうが無いんだから」
この人はあれだな。
とにかく頭の中にあることを全部言いたいんだな。
なんとなく分かってきた。
「あー……そうですか」
「お姫様がそこらに倒れているわけがないってのにね。ほんと、ガキどもは馬鹿なんだから。それにしても、なんで倒れてたの?」
「えっと……記憶が無くて」
「あーそうだっけ。それで名前も覚えてないんだっけ? うわ……大変だね」
レベッカが初めて同情するような視線を向けてきた。
うん、大変だ。
「ええ、いろいろ大変で……ご迷惑をおかけします」
「まぁ、いいって。悪い人じゃないみたいだしぃ。はっはっはっ」
レベッカが陽気に笑うなか、部屋にたどり着く。
やはり体になじんでないので、思いのほか気分が悪くなってきたので、ベッドに腰を下ろした。
すぐには万全にならないか……
「どうもありがとうございました」
「いいってば。うーん、それにしてもうらやましいわ。やっぱ美人」
レベッカの突然の言葉に、俺の体がビクンと反応した。
び……美人。
美人……
よし、今だ。今しかない。
「あの、すいません、そこの手鏡とってもらっていいですか?」
「え? いいよ」
レベッカが手鏡をひょいと持って、俺に渡した。
いよいよ……ご対面……
つばを飲み込んで、ゆっくりと手鏡を……いやそれも逆に緊張する。
一気に手鏡を自分に向ける。
「お、おうふ……!」
思わず変な声が出た。
きれいな輝きの銀髪と、整った顔立ち。
髪の毛は少し乱れているし、顔も少しやつれているが、しかしそんなことは問題ではない。
これは文句なしに、まさに文句なしに、普通に、美少女だ。
悪いが、マリーにも勝ってる。
「え……ちょ、これ現実?」
しかし、あまりに記憶の中の自分の顔と違いすぎて、すごく違和感がある。
まるで、何かの写真や絵を見ているようだ。
これ、本当に俺の顔だよな。
口を動かしたり、顔の角度を変えたり、いろいろやってみるが、鏡の中の美少女はしっかりその動きをする。
「うわ……す、すっげぇ……」
思わず男の口調が出る。
「どしたの?」
レベッカが軽い調子で聞いてきた。
「あ、別になんでも」
慌てて鏡を離す。
放っておいたら、1時間ぐらいずっと見入ってしまいそうだ。
なんだ……なんだこのうれしい感覚は。
美人ってこういう感覚で生きてるの!?
めちゃくちゃ幸せじゃん。
「なんかちょっとその笑いかた気持ち悪いけど」
レベッカのストレートな言葉が胸に刺さった。
「ぐっ……え、き、気持ち悪い?」
「うん、止めた方がいいよ」
レベッカがあくまで冷静に言う。
もうちょっと遠回しに言ってほしかった。
いま、ものすごく心の深くに刺さった。
「あ、そ、そう……わかった……」
「だからってそこまで落ち込まなくてもいいけど」
「う、うん……」
あなたが落ち込ませたんです。
「じゃ、私仕事に戻るから。次、コレットが来るからなんかあったらそっちに言ってね」
「はい」
「じゃ」
レベッカは部屋を出て行った。
俺はもう一度手鏡を取り出した。
やはり、かわいい。
これが自分というのは、喜ぶべきか悲しむべきか。
でも、とにかくかわいい。
「いやぁ、いいなぁ……」
思わずにんまりした笑いを浮かべた。
すると、鏡に映った美少女はなんとも絶妙なニタニタ笑いを浮かべた。
あ、本当に気持ち悪い。
おい、この笑い方本当に気持ち悪いな。
もっと違う笑い方を試そう。
もっと爽やかなスマイルを試そう。
「あれ……?」
なにか表情筋がまだうまく動いていないらしく、顔が引きつる。
顔の力を抜くと、薄幸そうな少女がぼんやりとなにかを眺めている姿が鏡に映る。
「なるほど、デフォルトがこれか……」
デフォルトでこれだけかわいければ、表情をつければもっとかわいくなるはず。
これは頑張りがいがある。
ゲームのアバターの編集をしているようだ。
「あれ、右だけ……左がおかしい。くそ、あ、やっぱおかしい、ぬあ……」
顔中を痙攣させながら、いろいろ表情を変えてみる。
途中絶対に人に見せられないとんでもない顔になったりもする。
「いつっ……つった……」
顔の筋肉が吊った。
こんなことがあるとは思わなかった。