屋敷の主
ベッドから上半身だけ起こして、持ってきてもらったスープを飲む。
さきほどの少女が持ってきてくれた物だ。
少女の名前ははマリーというそうだ。
本当に、いい娘だ。
扉をノックする音が聞こえた。
たぶんマリーだろう。
「あ、どうぞ」
気楽に答えると、扉が開いて入ってきたのは見知らぬ男だった。
「…………」
驚いて体の動きが止まった。
え、この体の感受性はどうなってるんだ。
ちょっと知らない人が来ただけでこんなに驚くなんて。
男の時の俺ならこんなことは絶対になかったはずなんだが。
「ど、ど、ど、どちらさま……でしょう?」
男は二十代後半といった様子で、少し青みがかった黒髪をしている。
そこまで美形というわけではないが、決して見苦しい姿ではない。
そして、こちらを心配している様子が表情から伝わってきて、心が揺れた。
うん、なんかもしかしたらタイプなのかも……
ん、まて、どうなってるこの感覚。
おい、この体の感受性、男相手にドキドキしちゃうわけ?
い、いや、とにかく落ち着こう。
ここで冷静にしないと、変な人間だと思われてしまう。
常識的で好印象の人間だと思われなければ、この屋敷を放り出されてしまうかもしれない。
とは言うものの、その様子は本当に私を心配しているような感じで、少し気に入らないからと言って私を放り出すような人間には見えない。
私にとってかなり印象のいい男性だ。
うん。
ん? なんか思考がどんどん男だったときの俺からかけ離れていくような……
「あ……すまない。見とれていたもので、うっかり自己紹介が遅れてしまった」
「見とれ……!?」
その男の発言に私の心臓がバクンと大きな音を立てた。
え、なんだこの反応。
っていうか、まだ体がなじみきってないのに、へんな反応をしないでほしい。
とにかく安静にしていないといけないのに。
「い、いや、変な意味は無いんだ。昨日見たときはボロボロだったからな。ずいぶんと落ち着いたようじゃないか。俺はアルフォンス・バロメッシュだ。地方のしがない小貴族だ」
やっぱりこの館の主だった。
「あ、あぅ、このたびはどうも……あの……えっと……」
駄目だ、なんかいい言葉が出てこないぞ。
というか、この世界の普通の言葉は話せるが、貴族に話すような丁寧な言葉を話そうとしてもなにも浮かんでこない。
勝手に覚えている言葉は普通の言葉だけのようだ。
しかたがないから、頭でも下げておこう。
この世界で頭を下げるのは変かもしれないが、他にやりようがない。
「そ、そんなに気にするな。ところで君の名前はなんというのかな? マリーからは逃げてきたという話を聞いているが、詳しく話してもらえないだろうか」
む、名前。
名前……
男の時の名前はツヨシなのだが、ここでその名前を言っても仕方ない。
偽名だ。偽名を考えよう。
えーっと……
「えー……あのー……思いつかなくて、つ、つまり、記憶が無くて」
「記憶が無い?」
男が首をかしげた。
「な、何かから逃げてきた記憶はあるんですが、それ以上のことは思い出せなくて」
下手な説明をしてぼろを出すより、記憶が無いことにしてごまかした方が楽だ。
「なるほど、昨日は酷かったみたいだからな。なにかあったのだろう。そうか、記憶が無いか……」
男が考え込んだ。
「ど、どうかしました?」
「あぁ、具合が悪そうだったからマリーに看病はさせたが、容態が落ち着いたら家に帰そうと思っていたんだ。だが、記憶が無いとなると困ったな」
げ、まずい。
このままこの世界の警察などに引き渡されたら面倒なことになる。
怪しがられて尋問にかけられるかもしれないし、そうでなくとも身寄りは無いのだから監獄のような所に放置されるかもしれないし、釈放されるとしても着の身着のままで追い出されるだろう。
そもそもこの世界がどうなっているか全く分からない。
下手に外に出たらとんでもないことになるかもしれない。
この屋敷にかくまってもらった方が100倍安全だ。
「あ、あの! 記憶がありませんが、が、がんばって働きますので、ここに置いてください!」
俺は本気を見せつけるために男の目を見つめた。
男はしばらく目を合わせた後、ふと目をそらした。
「あぁ、分かった。少なくともその容態で外に放り出すほど鬼ではないさ」
男が視線を外しながら答えた。
ん、なんかすこし照れてるような雰囲気だな。
よし、チョロい!
俺の容姿ならなんとか行ける!
このまま屋敷に居座って、生活の基盤を築いていこう。
というか、それしか手がない。
「あ、ありがとうございます」
「いいよ、気にするな」
男がやはり視線をそらしたまま答えた。
そして、ちらっとこちらに視線を向けた。
「あ……」
思わず声を上げてしまう。
「どうした?」
男が聞き返す。
「な、なんでもないです……」
適当にごまかした。
なんか、意味ありげにちらっと視線を向けられた瞬間、思わず心がときめいたのだ。
ほんとどうなってるんだ、この感受性の鋭さは。
「と、とにかく、ゆっくり休むといい。それでは」
男は足早に部屋を出て行ってしまった。
「え……」
もうちょっと話したかったのに。
んー。気が短すぎる。
んー
んー
するとまた扉が開いて、今度はマリーが入ってきた。
「あ、ご主人様と会ったんだ」
廊下で先ほどの男とすれ違ったらしく、マリーがそう聞いてきた。
「あ、うん」
「どうだった?」
「え、どうもこうも……」
一瞬過ぎてわからなかった。
「えーと、悪い人ではないようだったけど……」
「大丈夫だったでしょ」
「うん……でも、もっと話したかったなぁ」
と、俺はつぶやいた。