ベッドの上
「大丈夫?」
メイド服を着た金髪の少女が、俺の背中をさすった。
「う、うん……」
抱えていた洗面器をどかそうとすると、その少女が手を貸してくれた。
「まだ、気持ち悪い?」
「少し……でも、だ、大丈夫。とりあえず吐き気は治まってきた……かな」
「よかった。またすぐ来るからね」
少女は優しい表情で俺に笑いかけた。
かるくウェーブのかかった金髪と青い眼の17,8の白人美少女だ。
こんなかわいい女の子を間近で見たのは初めてだが、気分が悪くてそれどころではない。
少女は洗面器を持って、部屋を出て行った。
ベッドの上で気がついてから、さきほどの少女に介抱されながら、なんども吐いた。
ようやく吐き気は収まってきた物の、とにかく気分が悪い。
これまでに味わったことがないほど、気分が悪い。
「う……こ、こえ、出しにく……い……」
先ほどから努力しているが、どうも声帯がうまく動かない。
ぎこちない発音になってしまう。
先ほどから日本語ではない言葉を話しているし、聞いて理解もしている。
全く知らないはずの言語なのに、全く問題なく理解できている。
しかし、理解はしていても口がきちんと動いてくれない。
声だけではない。
体中が違和感の塊だ。
右手を上げようとしても、上がらない。
さらに力を入れようとすると、急に腕が跳ね上がる。
左手を動かそうとすると、今度は痙攣する。
「な……なんだよ……この……状況……」
自分の手を見る。
どうみても女の子の手だ。
声も酷くぎこちないものの、あきらかに女の子の声だ。
それを意識したら、また体の中をかき回されるような感覚が襲ってきた。
「うっ……」
力を抜いて、ベッドに横たわって眼を瞑る。
これなら多少マシだ。
無理に動こうとしたり、見たり触ったりしようとすると、気持ち悪さが増すようだ。
どうも、元の体の身体感覚と今の体の身体感覚が喧嘩をしているような、そんな感じだ。
脳が混乱しているのだろう。
「って……いう……か……どうなってん……だ……?」
目を瞑ったまま、横に寝返って布団をかぶった。
光を遮った方がさらに楽だ。
目を瞑っても入ってくる光が神経を高ぶらせていたようだ。
体は言うことを聞かないし、気分は悪いままだが、ようやく少し思考できる状態になってきた。
俺は一体どうなったんだ?
ここはどう見ても日本ではない。
そもそも言語も違う。
そして、現代ではない。
現代でアスファルト舗装されていない道路があるわけもないし、馬車が走っているわけもない。
「タイムスリップ……?」
しかし、それも違和感がある。
実際の昔のヨーロッパというのは、かなり不清潔な場所だったと聞いたことがある。
香水が発達したのも体臭や匂いをごまかすためだったと聞いたことがある。
しかし、狭い範囲しか見ていないので断言はできないが、この世界はもっと清潔な感じだ。
「い、異世界……そんな……ばか……」
いや、体も変わっている位なのだから、もう常識は通用しない。
だいたいの仮説が立てられた。
ここは異世界で、女の姿に変わって俺はこの世界にやってきた。
これがお話であったら、TS転生とかそういうジャンルなのだろう。
だが、残念なことに現実だ。
俺が夢を見ているのでは無い限り、これは現実なのだ。
そして、女の体になった俺の精神は今までの体との不一致で拒否反応を起こしている。
今、脳内では新しい体に合わせて神経配線を調整している真っ最中なのだろう。
そして、この体は誰か別人の体ではなく、男だったときの体が変化した物だ。
なぜなら、道に倒れた時に男物の服を着ていた状態だった。
もし別人の体に魂だけ転生したのであれば、素っ裸か、あるいはこの世界の服を着ていただろう。
「ん……服……?」
服を思い出したとたんに、ぞわりとした。
この世界では俺は異物だ。
今は親切な人、おそらく気絶する間際に見た男がこの館の主だろう、その男のはからいでここで休ませてもらっているが、俺が異物だと分かったらどうなるだろうか。
もしかしたら、追い出されるかもしれない。
あの服は早急に処分しないと……!
「ごめん。ちょっと遅くなっちゃった。大丈夫?」
扉を開けて、先ほどの少女が入ってきた。
「まだ吐きたくなったら、ここに洗面器置いておくからね」
少女がベッドの横の机に洗面器を置いた。
この少女に頼むしかないだろう。
「あの、私が着ていた服……へんな服を着ていたと思うけど、あれ……ある?」
声は相変わらず出しにくいが、なんとか女の子っぽく演技ができた。
しばらくはこれで行こう。
「あ、たしかに変わった服着ていたよね。あれがどうかした?」
少女は特に疑問に思っていない様子で聞き返した。
「も、持ってきてくれる? できれば、あんまり触らないでほしいんだけど」
「え? ここにあるけど……」
少女は不思議そうな顔をしたが、ベッドの下からかごを取り出した。
なんと、自分の真下にあったらしい。
かごの中には、土で汚れたジーパンとシャツと下着が放り込まれていた。
今の自分から見ると、まるで巨人の服に見える。
男だったときの俺はバリバリの体育会系というほどではないが、そこそこ運動も好きでそれなりにガタイが良かった。
今の体とサイズが全然違う。
「あ、ありがとう……」
「そうだ、差し入れがあるんだけど……」
少女が立ち上がって、部屋の隅に置いてある別のかごをあさり始めた。
今だ。
ジーンズのポケットに手を突っ込む。
そこにはさきほど外した男物のゴテゴテしたデジタル腕時計があった。
それを素早くつかみ出し、自分の枕の下に放り込んだ。
このぐらいの物なら問題なく隠せるだろうし、自分が異世界から来たことを説明するときの証拠にもできる。
服は隠すのも難しいし、洗うこともできないだろう。
こんなものを洗って干したら、目立つことこの上ない。
この少女はあまり気にしていないようだが、この館の主に疑われたら俺は行く先がなくなってしまう。
「えっとね、これ、差し入れのリンゴ。でも、まだ食べられないよね」
少女が笑みを浮かべながら荷物から取り出した真っ赤なリンゴを俺に見せた。
「あ、うん、ごめんね……」
「謝らなくていいよ」
「それより……頼みたいことが……あるんだけど」
「なに?」
「この服、燃やしてくれない?」
「え?」
少女はあからさまに顔をしかめた。
まずい、うまいこと説明をしないと。
なにか、なにか話をでっち上げないと。
「こ、これ……男物の服なの」
「あ、そうだよね。見たことがない服だけど、なんでこんな服を着てたのか気になってたんだけど」
「こ、これ、ある男の着ていた服を奪って逃げてきたんだけど……」
あ、これなら行ける。
これでごまかそう。
「逃げてきたの!?」
少女が目を丸くする。
「見つかったら酷い目に遭わされるかもしれない。だから、処分してほしい。痕跡を一切残さずに灰になるまで焼いて!」
この館の主に見つかる前に!
「え、うん、わかった……あとで燃やすから」
「あ、あとじゃだめ! 今すぐ!」
俺の剣幕に少女はすこしびっくりした顔をした。
でも、その本気さは伝わったようで、少女は頷いた。
「わ、分かった。どうせ後で紙くずとわらくずを燃やす予定だったから、今から燃やしちゃうね」
少女はかごを持って立ち上がった。
本当にいい娘だ。
感謝しても感謝しきれない。
「それから……できれば他の人に見られたくないから、誰にも見られないように燃やしてほしい」
「あ、うん、わかった。なんか、いろいろあったんだね」
少女は頷くと、かごを持って部屋を出て行った。
これで一安心だ。
「ふぅ……あれ?」
意外と声が普通に出せていることに驚いた。
我を忘れて必死に声を絞り出しているうちに、だんだんと喉周りの筋肉の使い方が分かってきたようだ。
「よ、よし、大丈夫。すべてはいい方向に向かっている。なんとかなる……なんとかなる……」
ベッドの上で天井を見ながらつぶやく。
……ん?
そういえば、道に倒れているときにこの館の主であろう男に手を取られたような。
あのときに普通に男物の服を着た状態を見られているのでは?
ということは、すでに相当疑われているはずだ。
なにかうまい言い訳を考えておかないといけない。
○後書き
皆さん、体が変わることを甘く見ていませんか?
身体感覚の不一致が発生するので、本来これぐらい気分が悪くなるはずなのです。
そして、序盤はまともそうでしょ?
これが、冒頭のようになっていくんですよ……