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出発

 それから四日後、新しいメイドとしてマリーの知り合いのナディーヌさんという人が来た。

 なんとなく若い人が来るのかと思っていたのだが、ナディーヌさんは子育てを一段落終えたという年上の人で、来た瞬間からテキパキと仕事を始めた。

 ちょっとぐらいは話をしたかったのだが、そんな暇もなくその翌日には屋敷を出発することになってしまった。


「にしたって、急ぎすぎだと思うけど」


「仕方ないじゃない。今日行くって言っちゃったんだから」


「そうだけどさぁ」


 そんなことを言いながらマリーと俺はレベッカにも手伝ってもらって荷物を馬車に運んでいた。

 今日がマリーと俺がジスランさんの別荘に向かう日だ。

 一通り荷物を運び終えると、レベッカがアルフォンスを呼びに行った。

 それを見送ってから、またマリーに話しかけた。


「本当に引っ越しかぁ……なんかまだ実感湧かないんだけど」


「しばらく居たら戻ってくるんだから、たいしたことじゃないわよ」


 と、マリーはちょっと笑って言った。

 まぁ、それはそうなんだけど。


 俺とマリーの後ろで馬車が止まっていて、馬がもぞもぞ身じろぎをしている。

 けっこう獣臭くて、現代社会の日常ではあまり嗅がない臭いが漂っている。

 こうやって日本ではなかった臭いを嗅ぐと、「あぁ、今自分は違う世界に居るんだな」っていう気分になる。

 臭いは感情に直結しているとか言うけど、なんとなくそれに納得できる。


 うーん……それにしてもやっぱり動物の臭いはちょっときついなぁ。

 あ、馬がこっちをみた。

 なんかやさぐれていない人なつっこい馬だな。

 たぶん大事にされているんだろう。

 優しそうな馬だけど、でもやっぱり君の臭いは俺の嗅覚には結構きついんだよ。


「うー……」


 臭いについてどうこう言ってもしょうがないので、顔をしかめて不満を声に出すだけにして言葉にはしなかった。


 リアルの中世よりは清潔な世界なので、人糞を道路にぶちまけたりはしていないが、交通手段が馬車なので馬糞は普通に道路の片隅に転がっていたりする。

 そして、馬自体もやっぱりそれなりに臭いがする。

 こういう臭いが気にならない人も居るのかも知れないが、正直この嗅覚だとかなり気になってしまう。

 だが、そういう臭いが日常にあることでいいこともあって、獣臭さが強烈なので人間の臭いとか全然気にならなくなる。

 日本で暮らしていたときは、人の体臭とか自分の匂いとか気にしていたし、ニンニクとかの臭いを振りまいている友人に顔をしかめたりしていたが、この世界に来てから全然気にならなくなった。

 ちょっとやそっとの臭いがあっても、獣臭さに比べればどうってことがないのだ。

 そういう点は気が楽だ。

 ただ、いつぞやのレベッカみたいにニラを食べた後にそのままキスしてくるのはさすがに勘弁して欲しい。


「うん、キスだけはさすがに嫌だな……」


 ぶつぶつとつぶやいていると、マリーがなんだろうという顔でちらっと横目で俺を見た。

 そんなタイミングで、屋敷の入り口からアルフォンスがレベッカとコレットと一緒に出てきた。


「もう行くのか。気をつけて行ってこいよ」


 俺の前に立ち止まったアルフォンスが微妙に不安そうな雰囲気を漂わせながら言った。


 おっと、馬の臭いに気を向けている場合じゃない。

 臭いのことを忘れて男に向き直った。


 男はなんともいえない表情をしている。


「はい、気をつけていってきます」


「そうか……」


 なんというか、こうして女になってみると男の感情ってものすごく読みやすい。

 おそらくアルフォンス本人は快活な表情を浮かべているつもりなのだろうが、実際にはそんな明るい気分でないことが一目で分かる。

 アルフォンスって本当に演技が下手だ。


「アリスのことはきちんと守りますので、ご安心ください」


 おそらく俺と同じようにアルフォンスの表情を読み取っているマリーが、はっきりした声で言った。

 ちなみにマリーはメイド服のままだ。

 俺はいつもお出かけの時に借りているマリーの一張羅を着ている。

 外に着ていけるものがないので、「もういい、あげる」みたいな感じでマリーからもらってしまったのだ。


 私服の俺とメイド姿のマリー。

 端から見たら、完全にお嬢様とメイドの組み合わせだ。


「あぁ。アリス一人じゃないから大丈夫だと思っているが……」


 男が言った。

 いつもながら俺は本当に信用されていない。


 レベッカとコレットは今はおとなしくしている。

 昨日の夜は、レベッカは普通だったけど。コレットが長時間のキスを要求して大変だった。


「じゃ、がんばってね」


 レベッカが微妙に苦笑いみたいな顔で見送ってくれる。

 俺がマリーと二人きりで屋敷の外に出て行くことに内心いろいろ思っているのは伝わってくる。


「帰ってきたら長い長いキスをお願いします!」


 コレットは脳天気に言う。

 帰ってきたときのことを考えると怖い。


「コレット、それは勘弁して……。とにかく、行ってくるよ」


 そう言うと、男が少し身を乗り出した。


「絶対に帰ってこいよ」


 アルフォンスが一瞬すごく必死な顔をする。

 そんなガチでこられるとどう反応していいか困る。


「い、いや、なに本気になってるんですか。普通に帰ってきますから。それに何度も言うけど、俺男ですから。あんまり入れ込まないでください」


「い、入れ込んでなんかいないだろ」


 男が無理矢理取り繕って表情を引き締めるが、全員に丸わかりだ。


「ま、まぁ……婚約者の名義は男よけにうまく使わせてもらいますよ」


 と、できるだけ男っぽく言って、少し乱暴に男っぽく動いた。


「じゃあ、行くんで。レベッカとコレットもしばらく会えないけど、仕事頑張って」


 男の時のイメージで、頭をぽりぽりとかいてくるっと身体の向きを変えて、ちょっと崩した歩き方で馬車に乗り込んだ。

 そして、出来るだけ男っぽく振る舞って、軽くみんなに手を振った。


 馬車が走り出して、屋敷から離れ、ふっと息を吐き出した。

 それから、振り返ってもう小さくなった屋敷を見た。


「あーあ……」


 そう呟くと、となりに座っていたマリーが身を乗り出した。


「ちょっと、なにそんな深刻な顔をしてるの」


「な、なんか……お屋敷から長期間離れるなんて初めてだから……ちょっと不安で……」


 そう言うと、マリーがぷくーっとほっぺを膨らませた。


「さっきまで男っぽく振る舞ってたのに、なんで二人きりになるとまた女の子に戻っちゃうの?」


「え? そ、そう?」


 先ほど男っぽく振る舞ったつもりはあったが、今は別に女っぽくしているつもりはない。

 マリーの発言にちょっと驚いて、膝に載せていた手が浮いた。


「い、いや、女っぽくしてるつもり無いんだけど。男だって不安になるときはなるし……」


「恋人に会えなくなって寂しい顔をしている女の顔になってる……」


 マリーが真顔で言った。


 んぐっ!?


「は、はぁ!? そ、そんなわけないし!」


「今のアリス、完全に女の子なんだけど……。さっきは無理して男っぽく振る舞ってたの?」


「まぁ……ちょっと無理してたけどさ。そうしないとしんみりしちゃうと思ったんだ。えっと……男っぽくしてないとマリーは嫌なの?」


 そう聞きながら首をかしげると、マリーが変な顔をした。

 俺の仕草が女の子っぽすぎたみたいだ。


「嫌って訳じゃないけど……。なんか、素は女の子で無理して男のふりをしているみたいに見えちゃうんだけど」


 痛いところを突かれた気になった。


「い、いや、男だから」


「そう見えない。どんどん女の子になってくんだから……。気を抜いて男っぽくなるなら分かるけど、気を抜いて女の子になっちゃうのはちょっとどうなの?」


 マリーがちょっと不満そうな顔をした。

 なにか言い返したくなってとっさに口を開いた。


「そ、そんなことをいって、マリーだって女言葉を使っている俺をいじるのは好きじゃん!」


「それはそうだけど……。でも、アリスがどんどん女の子になっていて、ちょっと不安になる。もっと男の子っぽくていいんだよ?」


「別に無理はして女の子っぽくしてるつもりはないんだけど……」


 最近は完全に素だ。

 特に演技とかはしていない。

 それが女の子っぽくなっちゃうのが問題なんだろう。


「アリスが男の子だったことをどんどん忘れちゃうのが心配なんだけど。大丈夫?」


 マリーが心配そうな顔をする。

 その言葉に嘘はないようだ。


「だ、大丈夫だと思う。別に最初の頃からそんなに変わってるわけじゃないよ。ただ、最初の頃は『男なんだから』って自分に言い聞かせて虚勢を張ったりしてたけど、最近ちょっと力が抜けてきたかも」


「あー……」


 マリーが納得したように頷いた。


「たしかに……ね。そう言われると腑に落ちるかな」


「別に何かが変わったわけじゃないから、心配しないで」


「そっか。ならよかった。でも……」


 マリーがちょっと眉をひそめた。


「なに?」


 聞き返すとマリーは黙った。

 なんか言いにくいらしい。


「な、なに? 途中まで言いかけて止めるの止めてよ。すごく気になるんだけど」


「な、なんでもない。アリスが記憶を無くしたとか困ってるんじゃなければ、別にいいの。ただの私の趣味で……えっと……誤解されるかも知れないけど……や、やっぱいい」


 マリーがブツブツ言って悩んでいる。

 こんなマリーは珍しい。

 そして、舗装が悪い道に入って一気に馬車の騒音が大きくなり、マリーの声が聞こえなくなる。


「聞こえないんだけど! なに!?」


 騒音に聞こえないように大声を出すと、マリーも大声で返した。


「なんでもない! えっと……私は別に変態じゃないから……」


 最後のぼそぼそ声は騒音にかき消された。


「え? なにっ?」


「だから、なんでもない!」


 マリーは素知らぬ顔で馬車の外の風景に目をやった。

 そういうことをされると逆に気になるのが人情というものだ。


 マリーの肩に手を載せて、マリーを軽く引き寄せた。


「ちょ、ちょっと、そういう中途半端なのは不安になるから止めてよ! 言いたいことがあるなら言ってよ!」


「は、はぁ!? べ、別にいいでしょ?」


 マリーは俺に顔を合わせようとせず、手を払いのけてまた外を見た。

 マリーの口が小さく動いて独り言を言っているようだが、騒音でなにも聞こえない。


「だ、だから気になるって! 今更マリーの発言に驚いたりしないから」


 そう言うと、マリーは窓の外を見るのを止めてじっと俺を見た。

 そして、耳元に口を近づけてきた。

 一瞬キスされるのかと思ったが、そうではなかった。


「あのさ……」


 耳元でささやかれて、ドキリとした。


「う、うん……」


「私、昔から、お、男の子をいじって虐めてみたいとか……思ったりしていて……」


 え……そ、そうなんだ。


 耳元でそんなことをささやかれて、俺は一体どんな顔をすればいいんだろう。

 話し声が御者に聞こえることはないだろうが、一応ここは街の中だ。


「ま、まぁ、マリーがドSなのは知ってるけど、女の子だけじゃなくて男も虐めてみたいんだ……」


 ちょっと引き気味で言うと、マリーの顔色が変わった。


「ま、まさか、本当にやったりしないわよ! でも、ちょっとだけそういうのに興味があって……」


「う、うん」


 なんて返せばいいんだ、この会話。

 会話の難易度が高すぎる。


「でも、アリスは元男の子な訳でしょ? アリスが男の子っぽく振る舞ってると、アリスを虐めながら男の子も虐めてる気もするの。それがすごく良くて……」


 いやいや、なにその性癖爆破な話。

 馬車の中とはいえ、街中なんですけど。


「そ、そう……」


「だ、だから、アリスが男の子っぽく振る舞ってるところを虐めてだんだん崩れていくのを味わいたくて……でも、私は変態じゃないわよ?」


 マリーが念を押すように言った。


「そ、そうだね。そういうことにしておくよ……」


「しておくじゃなくて、変態じゃないからね!」


 いや、変態だと思うよ。


「だから男っぽくしていろと……」


「も、もちろん、一番の理由はアリスが変わっちゃうのが心配だからよ! 勘違いしないでね!」


 マリーがちょっと焦ったように言って、また外の景色に視線を向けた。


 そういう言い方をされると「実は100%性癖が理由です」と聞こえてしまう。

 実際に心配はしてくれていると思うのだが、話す順番が悪い。


 この後の長期生活、マリーと二人で大丈夫だろうか。

 なんか不安になった。




○コメント

4章はとりあえずこれで終わり!

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