屋敷の主に抱きついた件
それからは、マリーやレベッカに教えられて、徐々にメイドの仕事を覚えていった。
といっても、掃除やベッドメイクや食器の片付けなどの雑務で、意外と肉体労働だがそれほどの技量は必要ない。
一通り習えばすぐできるものだった。
それから、マリーに「アリス」というすごいスタンダードな名前を命名された。
まぁ、名前なんてなんでもいいけどさ。
「これは……たしかにあんまり職歴にならないかも」
俺は思わずつぶやいた。
今、空き部屋でのんびりホウキと雑巾で掃除をしているところだ。
屋敷はかなり広いが、実際に使っている部屋はそれほどなく、メイドは3人で足りていたようだ。
急遽増えた俺はあきらかに余剰人員だったようで、かなり仕事はスカスカだ。
もっと忙しい物だと思っていたので、拍子抜けだった。
まぁ、まだ本調子ではないし、疲れやすいので、正直助かってはいる。
「なるほど、給料が低いわけだ……。転職しても給料はあがらないだろうなぁ」
一人なので、珍しく男言葉を使って独り言を言った。
この世界は男言葉と女言葉が明確に分かれていて、普段は女言葉を使用している。
大学では経済学を専攻していて、授業以外にもネットや本で手に入るビジネス系の情報を見ていた。
なので、ついメイドという今の職業について考えてしまう。
「下着=給料一ヶ月分」なのは下着が非常に高かったのは間違いないが、メイドの給料が安いのも理由の一つだ。
ここ数日の会話で分かってきたのだが、メイドというのは男の肉体労働者と比べても三分の一から五分の一らしい。
普通の男は2万エリス以上もらっているので、日本換算で20万円は余裕で超えている。
それに対して我々の月給は日本換算で4万円程度だ。
だからこそ、こんなスカスカな仕事でも俺を含めて4人も雇用できるのだろう。
男と同じ給料だったら、一人優秀な人を雇ってもっとしゃかりきに働かせるだろう。
緩いのは助かる。
しかし、これでは下着を買うだけで給料がすべて消えてしまう。
「う~。といってもなぁ、レベッカとかの話を聞いているとよその職場も同じような待遇のようだし。転職してもなぁ」
下手をするともっと悪いところもあるらしい。
つまり、給料がもっと安くて忙しくて、なにより口うるさいメイド頭がいてストレスがやばいらしい。
そんなのごめんだ。
コンコン
扉を叩く音がした。
「ん? はい、何でしょうか」
言葉を女言葉に戻して返事をした。
「開けていいか?」
聞こえたのはご主人様、アルフォンスの声だった。
え、な、なんで!?
「は、はい!」
扉が開いて、男が部屋の中をのぞき込んだ。
「な、なんでしょうか?」
「なんだ、アリスか。使ってない部屋から物音がするから泥棒でも入ったかと思った」
男はそう言いながら、部屋に入ってきた。
なにか用があるのだろうか。
「泥棒? この辺りは泥棒がでるんですか?」
「そりゃ、たまにはな」
そう言われると、途端に外に誰かがいる気になった。
窓から外の道を見る。
とりあえず、今のところ変な人物はいなそうだ。
「おいおい、そんなに怯えるなよ」
男は俺のおびえを一笑に付した。
「だ、だって、怖いじゃないですか」
この体になってからという物、とにかく無防備に感じて仕方ない。
実際、力も無いし小柄だし、悪意のある人間に襲われたらひとたまりも無い。
「ははは、まぁいい。ところで、調子はどうだ?」
「え?」
「今まで、あまり話す時間がなかったからな。なに、言いたくないことは言わなくていいぞ」
「言いたくないこと……?」
あぁ、なるほど。
そういえばどこからか逃げてきたことになっているんだった。
「で、ですから、以前のことについては記憶が無いんです」
「分かってる。マリーやレベッカはそれを信じているようだな。俺はまぁ……そうでもないが、それについては聞かないで置こう」
うわ、思いっきり疑われている。
「で、でも、本当に……」
「だから、聞かないと言っただろう。だけど、一つだけ聞かせてくれ。取り返しのつかない犯罪をして逃げてきたわけではないだろうな?」
と、男が俺を意味ありげな視線で見た。
「ち、違います! それは誓って言えます!」
すると男は息を吐き出した。
「そうか。よかった。罪人をかくまったとなるとこちらもお咎めなしとは行かないんでね。まぁ、アリスがそんな大それたことをできそうにも思えなかったが、念のため聞いただけだ」
「そ、そうですか」
「で、どうだ、この屋敷の生活は?」
男は一息つくと、話題を変えてきた。
「よくしてもらっています。仕事もきちんと教えてもらっていますし、みんな親切です」
「それならよかった」
男が頷いた。
む、ここでお礼を言っておかないと非常識な奴だと思われるかもしれない。
「あの、本当にありがとうございました」
「ん?」
「見ず知らずの私を拾って頂いて、住み込みで働かせていただいて、何から何まで本当に……」
と言い出したら、なぜか男が顔をゆがめた。
ん?
「お、おい、そんな顔をするな。大げさだな」
男が照れくさそうに顔をそらした。
え、俺いまどんな顔してるの?
未だに「自分が思っている表情」と「実際に外に出ている表情」にずれがある。
男はすこし戸惑ったようだが、そろそろと腕を伸ばしてきた。
へ?
「たいしたことじゃない。気にするな」
そういって、男は伸ばしてきた手で俺の頭をポンポンと軽く叩いた。
そんな頭をなでてほしそうなほど憔悴した顔をしていたのだろうか。
「え……」
そんな大げさな、と思ったのに、なぜか涙が出てきた。
「お、おい、ど、どうした!?」
男があわてて手を引っ込めた。
どういうわけだか涙がどんどんあふれてくる。
そっか、実はずっと心細かったんだな。
それがふっと今の瞬間に出てしまったらしい。
「おい……こ、こんなとこ他の奴に見られたら」
男が慌てる。
この世界は貴族と平民が別れているが、それ相応に敬意を払う関係だ。
貴族だから平民を奴隷のように扱っていいわけではなく、この男のような立場であれば貴族でも平民でも女性はきちんと扱うことが社会的に求められている。
つまりは、現代日本と心理的にはあまり差が無いのだ。
男は泣かせてしまったところを他の人に見られることを恐れているらしい。
「す、すいません……な、涙が……止まらなくて……」
「お、おい……」
男は少し落ち着くと、また俺の頭に手を置いた。
無意識に男の胸に飛び込んでいた。
「おいおい。ま、大丈夫だから安心しろ。守ってやるよ」
男が軽く肩に手を回した。
ちょっとだけ、体がビクッと震えた。
「はいぃ……」
しかし、そんなことは気にせず、そのまま男に体を預けた。
心の中が満たされていく。
頭を包む大きな手が頼もしい。
目を瞑って、このままずっとこの感覚を味わっていたい。
ずっと緊張していたなにかが緩んで、そのまま崩れていきそうな気分になる。
そのまま、頭をなでられる感覚をずっと味わい続けていた。
「……ん?」
気がつくと、頭をなでられる感覚が消えていた。
男の手が止まっている。
顔を見上げると、男の顔があった。
「わっ」
慌てて離れようとすると、男が手を離した。
「落ち着いたか?」
「す、すすす、すいません! ど、どれくらい抱きついてました!?」
「10分ぐらいじゃないか」
10分!?
一瞬だと思ったのに。
見ると、メイド服に涙で濡れた後がある。
よほど涙を流したらしい。
「本当にすいません! いきなり抱きついたりして」
「お、おいおい、そんなに謝るな。心細かったんだろ」
と、男が笑みを浮かべた。
「え、そ、そうですね……」
俺は涙を拭き取りながら答えた。
「俺も気にしてないから、お前も気にするな。じゃあな」
男は余裕の表情を浮かべて、また俺の頭をポンポンとなでた。
「あ……」
そしてそのまま部屋を出て行った。




