本音
SNSをやり始めてから、普通というのが如何に恵まれているのかが段々と分かって来た。
普通に大学まで行って、普通に就職して、普通に暮らしている。自分自身にも、自分の周囲の環境にも大きな問題は無い。
それが、恵まれている事だと。
幼少の頃から他人に迷惑を掛けたりだとか、人に怒られたりだとか心配されたりだとか、そういう事は平均よりやや多い方だったと思う。多分ADHDの気もあって、それは今でも多少残っている。
とはいえ、日常生活に支障を来すほどでもない。多分、10%程度、自分で十分にコントロールできる程度に、その長所と短所が僅かにそれぞれ、本当に単純な個性として残る程度に残っている。
生まれつきの内的要因な精神的な負の事柄を自分の身には抱える事は無かった。また、学校や家族、職場等の外的要因からの精神的な負の事柄も自分は背負う事も無かった。
嫌な思い出は沢山あるし、思い出すと死にたくなるほどの事も多々ある。自分の近くに銃があったら自殺していない保証はない。ただ、それが無かったら自分は今もクソな人間だったのだろうと思える程度のもので、元々の自分がクソだったからこそ早めにそういう経験があって良かった、もっと大きくなってから取り返しのつかないミスを冒すよりはその程度で済んで良かった、と思える程度のものだった。トラウマとは程遠い。
変人だとよく言われるが、自分は恵まれた普通という域の中に居る人間なのだと自覚するようになった。
ただ、だからと言って他者がその人自身の内的要因や外的要因によって強い負の事柄を持っている、普通を羨むような人達に対して何かをしてあげられるとか、そういう事をするつもりは余りないし、そもそも出来る事もそう多くは無いと思う。
平均よりは馬鹿な事をやらかしてきたとは言え、変人と言われる類の人間だとは言え、自分は社会において普通の領域に留まる人間だ。その普通を羨む人達の抱えている様々な事象を体験談などから察する事は出来ても、それに対して体に刻める程深く理解、共感は出来ない。自分が普通の視点からこうすれば良いんじゃないのとか言おうが、結局それはその人から見たら机上の空論でしかないかもしれない。恵まれた観点から言われるただの皮肉にしかならないかもしれない。負の事柄を実際に抱えていない立場の人間が、その人に心根から寄り添う事は出来ない。
そしてまた、何らかで繋がりがあろうとも、その繋がりは金を出したり、長い時間を掛けて一緒に悩んだりする程の強いものではない。
自分には自分の生活があるし、繋がりの薄い他人が悩んでいようとも、それに自分は自分のリソースを多く割こうとは思わない。そういう人が居るのだという事が頭の片隅に残る事になる程度だ。薄情だと思われるかもしれないが、もう正直に言ってしまうと面倒だというのが本音だ。
この世がお人よしばっかりならば世界から貧困とかはとっくに消え去っているだろうし、虐待や自殺なんて起きないだろう。様々な場所でそういう人達は見捨てられているし、そういう面でも結局、自分は普通なのだ。
自分は自分である程度精一杯だし、余った時間があったとしても、それは自分の為に過ごす。どこかで悲しい事や辛い事があっても、そんな他人の為に時間や金は費やさない。
時間と金を使って、余暇は自分が楽しい事をしたいのだ。他人が助かる、かもしれない事をして自分はそこまで楽しくならない。頭の片隅にそういう人が居るのだ、もっと広げて言えば世界では今この瞬間に餓死する人が居る、虐待されている人が居る、自殺に追い込まれている人が居る、そんな人で溢れていようが、自分はそれらを運が悪かったと片付けて、見捨てて楽しむ。
そうやって生きていくと今のところは決めている。
この社会のシステムの中で普通に生きていく為に普通よりも労力の要る人が居る。そもそも普通を享受出来ない人が居る。自分は、普通に生きていけているが、それは恵まれている事だ。
しかし、自分はそれに対して心底からの善意で自分に対して見返りが来なくとも何かをしようとする心優しく、余裕のある人間ではないし、自分が恵まれているという事に罪悪感までを背負ってそれに駆られるような人間でもない。けれど、そういう人が居るという事は心の片隅には置いておこうと思う。
薄情なのかもしれないが、それが本音だ。