お祓い屋
こんにちは。
音楽SNSアプリ、nanaにて制作しておりますボイスドラマ『お祓い屋』のキャスト再募集ということで、本編をちらっとお見せします!
台本を載せてしまうのは憚られるので、現キャスト向けに公開しておりました小説版をこちらにも掲載させていただくことにしました。
詳しくは、概要サウンド(https://nana-music.com/sounds/04404d8c/)お祓い屋のtwitter(https://mobile.twitter.com/unit_oharaiya)をご覧ください。
もし、この小説を読んでボイスドラマに参加したいという方でも気軽にご応募いただけます!
ぜひともよろしくお願いいたします。
この世界には二種類の人間が存在している。方や、当たり前の平凡を享受して、時には不必要な刺激を求め恐怖に身を曝す愚劣な人種。方や、常に危険と隣り合わせの非凡を泣く泣く受け入れるしかない哀れな人種。どうして全てが同じ種でいることが許されなかったのだろうか。そんなことを今更悔やんでも遅すぎるのだが。
つまるところ、僕は後者に当てはまる。外れくじを引いてしまった人種だ。
哀れだと思うのなら受け入れなければ良いだろうと馬鹿にされるかもしれない。だが、それを受け入れないということは、言い方を変えれば人生に見切りをつけたということである。つまり、僕がここに存在しているのはまだ心のどこかでこの生にしがみついていたいという欲が存在しているのだろう。
誰の恨みを買ったわけでもない。だけど、非凡のままに生きていく。
平凡と非凡。そんな風に形容してみたものの具体的に言い換えれば、異形なる存在と世界を共有している、ということ。簡単に言おう。僕は、所謂“視える人間”である。
そして、その非凡はまさに今僕を苦しめているのだった。
「はぁ……くっそ! いつまで追いかけてくるつもりなんだ!」
黄昏時というにはまだ少々早い時間。田舎といえるほど緑が広がっているわけではないが、都会と呼ぶには閑散としすぎている。そんな郊外の外れにある小さな山を、何かに追われるかの如く必死に駆けている一人の少年がいた。芦屋望、という名前を持ったその少年は、浅葱色の髪を有しておりその容貌は中学生か、はたまた女生徒にすら見紛う幼さを残している面持ちである。しかし、纏う制服はここらで一番大きな高校の男子生徒のものであった。そんな可愛らしい、と本人が聞けば怒り出しそうだが、顔を険しくして、走り続けているからか額にはぽつりぽつりといくつか汗が浮かんでいる。外気はこれほど汗をかくような温度ではない。
纏っている制服もそこまで使い古されていないようであるが、ところどころに付着した砂がどことなくみすぼらしさを醸し出している。背中にはどこかで転んだのであろうことを思わせる大きな砂の痕。だが、それらを一切払うそぶりも見せず懸命に足だけを動かしている。時折、その顔に見合わない悪態を吐きながら後ろを見やっては慌てて足の回転を速める。
彼は何から逃げているのだろうか。傍から見ているとその疑問を抱くのは容易い。なにしろ、彼を追いかける影など一つも存在していないのである。
しかし、視える人間には視えてしまうのだ。その異形の姿が。
重苦しい足音を響かせながらゆっくりと、しかし着実に望との距離を詰めていくそれ。その体躯は標的の二回り以上をも誇り、大きな角を生やした牛の面。
それは、牛鬼という名を冠する妖怪であった。
牛鬼は、ゆっくり、ゆっくりと望を追い詰めていく。口元には大量の唾液を滲ませており、こぼれる涎も少なくはない。ただただ望を追いかける。まるで、という言葉は適さない。間違いなく望は“ごちそう”なのである。
視えない人間がこれを見たら、ましてや追いかけられたのなら、おそらく発狂どころでは言葉が足りないだろう。むしろ、発狂する間もなくぺろりと一口でその体内に収められてしまうのではないだろうか。それを踏まえて考えると望は相当対処法を心得ているのだろうし、制服に付いた砂埃を払う余裕がないことをしっかりと理解しているのだろう。
出来る限り枝葉の多い木々の間をすり抜けていく。それは望でも通れるか通れないか微妙な程度の抜け道で、おかげで牛鬼は何度も望を見失いかけている。それでも追いかけてくるものだから望の体力は底をつきかけていた。しかし逃げなければ食われてしまう、という生存本能から服や肌が傷つこうがお構いなしにより深い茂みへと身を投じていく。もはやまともに走れないような道。屈まなければ進むことのできないそこを望は四つ足の動物のように走り抜けていく。
だから、その紅色は彼にとって僥倖だった。視界の端にちらりと映ったそれ。
実をいうと、それを見つけたころには牛鬼も完全に望を見失っており、追いかける者はなかったのだが、今の望にはそれを認識することもできずひたすらにその紅色を目指す。そうして転がり込むようにそれをくぐった。
それは、控え目ではあるが立派な鳥居だった。
訪れる静寂。望の耳に届くのは、吹き抜ける風が空を切る音と自身の乱れた呼吸音くらいのものだろう。先ほどまで望の鼓膜にこびりついていた轟音はもう聞こえない。
神社という場所は神聖なる領域であり、その出入り口である鳥居は聖域と俗世を隔てる役割を持っている。 つまり、妖怪はここに立ち入ることが叶わない。
「ここまでくれば、大丈夫かな……」
しばらくは鳥居近くで寝そべって息を整えていたが、失礼に値すると判断したのか軽くお辞儀をする。しかし、疲れ切ったその足では立つことも叶わないので、本殿に土下座をしているようだ。
頭をあげて本殿に這い寄る。かなり足に疲れがきているのだろう。腕だけで前進するものだから状況を把握していない者が見たら匍匐前進の特訓でもしているように見える。
寂れ切った神社は名前も知らなければ存在することすら認知されていないようなものだった。それでもところどころ手入れの跡があり、敬虔な信者がいることが推測できる。
ようやくたどり着いた本殿。望は、そこに続く石階段にどっかりと腰を落とすと大きなため息を一つ吐き、制服から砂泥を取り払う。そこでようやくこの神社を落ち着いて見渡すことができた。
「こんな所に神社なんてあったんだな……」
いたって普通の神社。少々小さいが手水舎もあるし神を奉るのには十分な大きさだ。そんな神社でとりわけ目立つ紅色に目をやる。堂々と立っているが思っていたよりも小さい。逃げているときによくぞ目に映ってくれたものだと感心してしまえる程には。
流石に陽も傾き始めているし、山のかなり奥まで入ってしまったのだから早く帰らないと、と腰を上げたその刹那。
「随分と不躾なお客様ね。お邪魔しますの一つも言えないのかしら」
突然耳に届いた声。少し棘があるが凛とした少し高めの女の子の声。それは後ろから聞こえてくる。そして、明らかに怒りを含んでいた。
思わず両手をあげ体は自然に強張る。しかし、幾分か冷静さを取り戻した脳内ではこの女が脅威ではないことを察していた。なぜなら、最高の食材がこんな弱り切った絶好の機会に、不意打ちでがぶりといかない妖怪がいるはずないからである。もし彼女が予想と反して妖怪で、食べようとしているのならとんだドジである。つまり、人間である可能性が高いのだ。
考えを巡らせているが、彼女の発する空気とそこから生じる緊張感には抗えない。首を動かすこともままならないので後ろを向かずに受け答えをする。
「すみません、決して怪しいものではないんですが」
ありきたりな常套句はむしろ胡散臭いのではと思いつつ、続けようとした言葉は周囲を震えさせるような轟音にかき消された。それは、先ほどまで嫌と言うほど聞いていた重い足音。そして、荒々しい喚き声。
望は思わず目をかっぴらいてそれを認識する。身の毛がよだつほどの恐怖が再び望に宿る。
あの牛鬼が、望を喰らいに来たのだ。それも、真正面から。
追いかけられている時は、そのおぞましい姿を直視することはなかったが、正面、しかも近距離で対面してしまえば、嫌でも脳はそれを認識する。
何故聖域であるはずのここに妖怪が入り込んできたのか。そんな疑問が湧くが熟考している暇など一切ない。
こちらを伺う牛面。大きく開いた口は歪んでいて、しきりに涎を溢している。
望のような視える人間は、その魂に微々たるものながら妖力が宿っているらしい。それは、妖怪にとってシロップのかかったアイスクリーム。つまり、極上の甘味なのだ。
据え膳を前にした化け物の様態は、醜悪。まさにその一言である。
そんな異形と間近で対峙しているのだから望の心拍数はどんどん上がっていく。うるさい心臓とは裏腹に脳はひどくすっきりしていた。
そして、大きな咆哮が望の鼓膜を震わせる。
望はそっと目を閉じた。もう、諦める以外の選択肢はなかった。そう思うと脳裏には今までの軌跡がぼんやりと思い浮かぶ。これが走馬灯というやつだろうか。しかし、どの情景も望にとっては忘れてしまいたい記憶であった。なぜ、こんな生に執着しているのだろうか。そんなことを思ってしまったらもう、死を受け入れるしかなかった。
悪臭が望の鼻に突き刺さる。おそらく牛鬼の吐息なのだろう。つまり、もう、目前に迫っているのだ。あんなに恐れていた、死が。
覚悟を決めた瞬間、牛鬼は再び大きな喚き声をあげた。しかし、それは何かに苦しんでいるような、悶えているようなものだった。
驚いて目を開けば、目の前には栗毛色の髪をした少女が望を守るように手を大きく広げて立っていた。
少女と言ってしまうと語弊がある。人の貌をしているのだが、頭に生えている獣のような耳と、臀部あたりから生えて、ゆらゆら揺れる大量の尻尾が昔話に出てくる妖狐を彷彿させる。
「ちょっと、あんた! いつまでそうしてるのよ。今のうちに逃げなさい!」
こちらを向いたそれは随分とかわいらしい顔だった。少し鋭い目は綺麗な翡翠。腰ほどまで伸びた髪は栗毛色。そして、印象に沿った高い声。その声は間違いなく先ほど望に声をかけたものと同じであった。
彼女、妖怪だったのか。望は、そんな場違いな思考をするが、何にしても彼女が自分を助けてくれたことは事実なのだろう。
「ねえ、聞いてんの!?」
再び彼女から発せられた声によってようやく望は自分が絶体絶命の状況に立たされていることを思い出す。
「に、逃げるってどこに……?」
「そんなの知らない! とにかく、早くここから出て言ってちょうだい! 私の家が壊れたらどうしてくれんのよ!」
その言葉でようやく望は牛鬼がここに現れたことに合点がいった。この神社はすでにその役割を終えた、ただの廃墟だったのだろう。そりゃあ牛鬼だってここに入り込むことは容易かったに違いない。つまるところ、ここは一切安全な場所ではないのだ。
望は牛鬼と逆の方向へ走り出す。それを見た牛鬼も足元の妖怪なんてどうでもいい、というように後を追いかけてくる。
「あんたの相手はこの私よ。人の家荒らしておいてタダで済むと思わないことね!」
彼女が火の玉を繰り出す。だが、牛鬼の厚い体ではそこまでの傷にならないのか、あまり効いていない様子だ。もはや牛鬼は、彼女を踏み潰す勢いで進んでくる。
しかし彼女は速かった。あっという間に望に追いつくと横に並んで一緒に逃げる。
「なんなのよあれ! なんてもの連れてきてくれたのよ!!」
「そんなこと言われたってまさかここが神社じゃないなんて思わないだろ!?」
「相変わらず人間様は思い込みが激しいのね!」
横の彼女は、走りつつも時々牛鬼に応戦し、望と共に逃げる。
だが望は、ここに来るまでにもすでに相当体力を消費してしまっていたためか、とうとう限界が来た。
「はぁっ……もう、むり。走れない……」
望は膝から崩れ落ちてしまった。へたりと座り込んだ望は呼吸も乱れていてどことなく顔色も悪い。
「ちょ、立ちなさいよ! ここまで助けてあげたんだから死なれたら胸糞悪いでしょ!?」
「でも、もう、足動かない……」
「あーもう! これだから人間は!」
そういうと彼女は走るのをやめ、くるりと後ろを向くと再び牛鬼と相対する。
「さあ、来なさい牛野郎! 私が相手になってあげるわ!」
そう吐き捨てると、彼女は大量の火の玉を周囲に展開し、次々と牛鬼へ放り込む。さすがの連撃に牛鬼も体制を崩したが、すぐに拳を正面の敵に繰り出す。が、彼女は小柄なだけあってか周囲の木々を利用し、軽々よけると続けて何発もの火の玉を繰り出す。だが、やはり牛鬼にはほとんど効いていないようだ。牛鬼は、大して強くもない敵と判断したのか、邪魔者を相手にすることをやめ、腕を望の方へ伸ばす。しまった、と彼女が声をあげ、こちらに向かってくるのが見えるが、タッチの差で腕のほうが早いだろう。まだ全く回復していない望は、もう避けることもできない。
腕が望を捉えたと思ったその瞬間、周囲の木々がざわめいた。
そしてそれは、すべてを薙ぎ払いそうなほどの強風になる。
ほんの一瞬の出来事だったが、牛鬼は怯んでしまい伸ばした腕を引っ込めてしまう。
突然の風に目を瞑ってしまった望が目を開くと、眼前には黒い羽根を生やし、黒衣を纏った女性が立っていた。
「随分と暴れてるねー! 私も混ぜて欲しい、なっ!」
女性はそう言いつつ手に持っていた扇子を一振りする。すると、そこからまるで刃のような強風が発生し牛鬼の体に切り傷をつけていく。これには牛鬼も堪えたのか喚き声をあげて苦しみ始める。
「……烏天狗、勝手な行動はやめろと言っているだろ」
そして、牛鬼の足元にはいつの間にか真っ白い男性――しかし、その容姿は狐の彼女と同じく、獣耳とふさふさの尻尾が携わっている――が刀を構えて立っていた。彼は手元の刀を思いきり振るうと牛鬼の足に深い傷を与えた。
「な、何が起こっているんだ……?」
突然現れた妖怪が、望を助けるように牛鬼と応戦している。その事実に望は何が起こっているのか理解できず混乱してしまう。それは狐の彼女も同じなようで、頭上には明らかにクエスチョンマークを浮かべている。
三体の妖怪の戦いは、どんどん激しくなる。やはり二対一では分が悪いのか、牛鬼は押されているように見える。女性が風を起こし牛鬼のバランスを崩したところに犬男が切り込む。牛鬼も負けじと腕を振り回して女性に拳をいれようとしたり、地団駄を踏むようなステップで犬男の狙いをずらそうとしたりしている。一筋縄ではいかないと感じた女性は、懐からさらに扇子をもう一つ取り出すと、二つの扇子を同時に振るう。巻き起こる大旋風。周囲の木々はもはやその根では体を支えることが叶わなくなってきているのか、少しずつ斜めに傾いている。しかし、強烈な風で圧倒できても、決定打には欠けているようだった。
そこに、火の玉が飛んでくる。狐の彼女も加勢したようで、その猛攻は牛鬼を翻弄している。こうなってしまえば牛鬼はされるがままで、抵抗もできないまま喚き声をあげている。
そして、戦いの音はふいに止んだ。
三体が囲っていたはずの巨体は忽然と消えており、後に残ったのは悲惨な戦いの痕だった。
「……ちっ。逃げられたか」
犬男が舌打ちとともに牛鬼が元居た場所を蹴る。高まるだけ高まった興奮を発散できずやるせない思いなのだろう。三体とも、まだ目がぎらついている。今話しかければ何が起こるかわからないと察した望は、少し離れた場所からその様子を眺めていた。すると、背後から草木をかき分ける音が聞こえる。
「君、大丈夫!?」
少し息を切らせて望に声をかけたのは望と同年代くらいの女だった。大和撫子という言葉が似合いそうな雰囲気を醸し出す彼女に一瞬目を奪われたが、よく見るとその顔に望は見覚えがあった。記憶に間違いがなければ、高校の生徒会長である三好、という人物だったはずだ。
「え、えっと……。はい、大丈夫です」
なぜここに彼女がいるのかと疑問が湧く。しかし、それは彼女の後ろからゆっくりやってきた存在によってかき消されてしまう。目に映ったその人物に思わず望は身を震わせる。
「賀茂、遅いわよ」
三好が声をかけた人物は学校一の不良と名高い賀茂という男ではなかっただろうか。まさに両極端という二人が同じ場に居合わせ、それどころか会話までしているなど目を疑うような光景であった。
望の知る限りこの二人は望の一つ上、つまり高校二年生である。それもあってか普段の彼らがどれだけ仲が良く、どれくらいの頻度で会話をしているかなど知り得ないことであるが、少なくとも噂が独り歩きしている限りでは、この二人は犬猿の仲である。
「どうせ俺たちが追いかけたところで、どうしようもないだろうが」
舌打ちをしながら賀茂が吐き捨てる。それだけで望は委縮してしまって、出かかっていた言葉を飲み込んでしまう。
「助けてくれたことに感謝はするけど、私は今後どこで生活すればいいかしら?」
望がいつ発言しようかと場の様子を伺っていたら、先陣を切って口を開いたのは狐の妖怪だった。彼女は、話しながら自分の家を指さす。そこには、いたるところに切り傷が走り、雨をしのげそうな屋根の姿はなく、心なしか斜めに傾いてしまった、見るも無残な木の塊がある。あれを見て誰が家だと断言することができようか。だが、戦いが激化する前に彼女ははっきりあの建物は自分の家だと言っていた。
三好は慌てた様子で黒衣の女性を見る。女性は女性で三好と目を合わせないように顔を彼方へ向けているが、僅かに見える横顔には焦りが浮かんでいる。家の傷のほとんどは間違いなく女性がつけた。それは誰の目にも明白だ。
「……黒羽、いくら何でもやりすぎ」
三好が黒衣の女性に対し、問いかける。女性の名は黒羽というらしい。
「え、えっとぉー……。ごめんなさい、やりすぎました!」
弁解の余地はないと判断したのか、黒羽は素直に狐に向かって深々と頭を下げた。狐は謝られたところで問題は解決していないと納得できない様子だった。
「さっさと戻らねえとまた店長にどやされるぞ」
賀茂がめんどうくさそうに呟く。望は内心で頼むから場の空気というものを読んでくれないだろうかと思いつつ苦言を呈すことのできない自分にため息を吐く。そのため息に対して賀茂が、あ? と不機嫌そうな声を出すものだからまたしても肝が冷える。
「そうね……。色々話したいこともあるから、芦屋くんと九尾ちゃんもついてきてもらっていいかしら。家のことは店長がどうにかしてくれるかもしれないから」
断りたい。そう思うのだが三好の言い方は有無を言わさないものである。狐は狐で付いていかないことにはどうにもならないのだから渋々、三好たちの後を追っている。何度か出てきた店長という未知の存在のこともあり嫌気がさしているのだが、足を動かさない望に、どうしたの? と声をかける黒羽が後ろに控えているのだから逃げ出すことは叶わない。どうにもならない理不尽というものはこの世に嫌というほど蔓延っている。望はそれを回避する術を知らないのだから仕方がない。足取りは重いが、どうにか前進し始めた。
「あ、あの」
道中、望は恐る恐るといった様子で狐に声をかける。何、とこちらも見ずぶっきらぼうに返されその怒りが相当高いところにあるのは分かるのだが、声をかけてしまったからには引き返せない。
「巻き込んじゃってごめんなさい。それと、さっきは助けてくれてありがとう」
「……別に。助けないで喰われて、化けて出てこられたら困ると思っただけよ」
物言いも態度もぶっきらぼうに返されたが、それでも腹の奥に溜まっていた澱を吐き出せて望はすっきりとした。
狐が望をちらりと見る。それに対して疑問符を浮かべると、さっと顔を逸らされる。何だったのだろうかと思っているとふっと小さく笑ったのが見えた。その笑みが何を意味するのか、望には想像もつかないが、少なくとも怒らせてしまったわけではなかったようなのでほっと胸をなでおろす。
空と山の境界に太陽が沈んでいく。九月のこの時間帯は、空が茜色に染め上げられ、どことなく寂しさを含んでいるように見える。望はこの空が好きだった。くるくると表情を変える秋の空で一番魅力のあふれる瞬間。
これからどこへ連れていかれ、何が行われるのかなんて見当もつかないけれど、悪い事は起こらない気がする。それは、先ほどまで最上の恐怖体験に晒されていたから、対比的に湧き上がる安心によるものか、はたまた前を行く人間二人が望と同じ見える人間だったことから起こる安心なのかは望にすらわからない。
――――……続きは声劇本編にて!