1章43話 ブラッディ・ラヴ
ノンフィクションにおける『ボンデージ』とは、拘束されている状態を表す『bondage』という英語を指し、広義的には性的興奮のための拘束行為やその道具を表す。
近年ではボンデージの一般化が進み、性的興奮のために着られていた『光沢のある革やラテックス素材などで作られたタイトな服装』が『ボンデージ』という名で呼ばれ、ファッションとして受け入れられている。
種族『サキュバス』であるラヴ家の三女『■■■■■・ラヴ』は異世界になかったボンデージ文化が気に入って以降、ボンデージをモチーフとした服装をよく着ている。「自分は夢魔である」という意思表示にもなるし、それまでサキュバスであることを嫌っていた過去の自分と決別できる。
これほど昔の自分とかけ離れたものはあるまい。四天王の仕事についた後も、彼女は仄暗い過去を捨てるために愛用し続けている。
■■■■■はラヴ家において良い扱いをされなかった。また、ラヴ家に対して■■■■■は良い扱いをしなかったのだ。
サキュバスは搾り取ったエネルギーを必要分自身への生命源に変え、残りは生まれの住処に捧げる。大きな魔法陣の上に作られたサキュバスの住処は、陣の効力により当主の力を高め、権力を示してきた。
種として優れていたラヴ家の長女、次女に比べ■■■■■はサキュバスとして生きるには『真面目』過ぎた。性に対して貪欲な家族を嫌い、環境を嫌い、やがて自分も嫌いになった。
仕事を果たさない事に憤りを覚えたラヴ家当主は、名前さえ付けられていない三女を知り合いが経営している娼館へと送り飛ばした。
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生まれた頃から、私は、私が生きているこの世界に疑問を持っていた。
『初めて』を経験しそうになったのは■才。周りの大人たちが優しく見守る仲、それは始まり――失敗に終わった。何をすれば良いか、どうしたら悦ぶか、種としての本能が私の脳を支配していった。
しかし、それ以上に…私に対して欲情する『眼』に強烈な嘔吐感を覚えた。
以来、私に『名』は与えられず、『居場所』は与えられず、『意味』が与えられることは無かった。
「――次、来い。お、その桃毛はラヴ家か?ここは無能どもが捨てられる終わった場所だ。お前らが相手してる上品なお客様なんて来ね、ここには狂っちまった変態か世に見放された貧乏人しかいない。スラム街の奥の奥……無法の沼だ」
店主はそう言って私の細い腕を引っ張り、首輪につけられたネームタグに目をやった。
「確かにラヴ家だ。この場所に堕ちるにはもったいない上玉だぜ。ガキ、名前がないようだが儀式に失敗したな?しかもそのタッパってことは何度も……まあツラはいいんだ、高くつくぜ……」
「君、どうしてこんなところにいるんだい!?ラヴ家の三女だろう!?…僕を覚えているかい?」
娼館に連れられて半年が経った頃だった。
商品である私に話しかけてきたのは、背の少し高い金髪の若い男。スーツに身を包み清潔感に溢れたその立ち姿は、掃き溜めのようなこの場所には不釣り合いで、彼1人が異質だった。3つか4つ上の歳くらいに見えるにも関わらず、凛とした振る舞いをしていた。
「そうか、君は性に関することが苦手で…確かにサキュバスとしては致命的だね。この店に来てからも、行為はしたことが無い、と」
男は、私が今よりも幼い頃にラヴ家に訪れたことがあると言った。父様とはビジネス上の関係で、男は近隣にある魔法専門校のスカウトマンをしているらしい。
サキュバスをはじめとした魔族は魔力の扱いに長けているものの、それを生かす魔道に進むことは少ない。そのための引き抜きなのだろう。
金に物を言わせて店主と話をつけた男は、スラム街を抜けた先の商店で私の服を買い揃え、湯屋で体を洗わせた。
私の体は、乾いた体液で汚れてしまった衣服のせいで赤く擦れて出来物だらけだったので、肌に優しい長袖を着させてもらった。
魔術を数年学ぶ中で、どうやら私は魔力の扱いに長けている事に気がついた。男は私をよく褒め、私もそれを誇らしく思っていた。間違いなく、私はその男が好きだった。
男は…『クラウス』という名の彼は、私がどれだけ専門校で優秀になっても、決して名前を呼ぶことがなかった…ないのだから、当然なのだが。
「やあミシェル、こないだの発表、素晴らしい出来だった!君の活躍ぶりには僕も嬉しくなってしまうね――やあリンゲル。昨日の講義中寝てたな?はは、怒ってるわけじゃない。伸び伸び学びたまえよ――こんにちはマタさん。いつも校内の清掃ありがとうございます。この間はお茶菓子ありがとうございました。是非お暇な時間に私の部屋をお尋ねください、良い茶葉が手に入りまして――」
「――やあ、君か。元気にしてるようで何よりだよ」
やがて、私は名前が欲しくなった。
「家に来てほしいって…正気かい?君を捨てた家だろう」
「ええ…でも私は本気よクラウスさん……私、あなたに名前で呼んで欲しいの」
クラウスは決して、私を欲情した眼で見ることは無かった。それもそうだ、彼の中での私は、引き抜いた大勢のうちの1人なのだ。「それで君が満足するのなら」と言って、クラウスは私のワガママを受け入れてくれた。彼へのワガママは、これが最初で最後だった。
サキュバスの名前は、遠く知覚しない場所で親が見守り、初めて行った行為の様子からつけられる。そうして晴れて一人前の淫魔なのだ。経緯をクラウスに話すと、「名前がないのは不便だろう」と、渋々受け入れた。
父様はすんなりと私を迎え入れた。「サキュバスはいずれこうなるものだ。それが性なのだ」と言って小部屋へ私たちを案内した。
部屋のドアにカギをかけ、私たちはベッドに腰かけた。暫く他愛のない話しをしてして、それから私は衣服を脱ぎ始めた。
「っ…!君、本当にいいのかい?名前なら僕がつけても――」
「他の種族と違って魔族の名前は、祝福でもあり呪いでもあるわ。その名で己を縛り、他を縛る。そうすることで魔力を扱ってきた――でしょう?」
「……そうだ。名に制約をし、真名という概念を生み出す。それが君たち魔族だ。吸血鬼なんかは最たる例だね。真名が知れればそれは死と同義だが、代わりに絶大な力を手に入れる」
「授業で学んだもの。それに、身体なら昔見られてるし」
「君ってやつは、昔から肝が据わってるなあ」
「……次、私を呼ぶ時は名前で呼んでね」
私たちは互いに身体を寄せ合った。
ああ、きっと彼なら大丈夫だ。誰にでも優しく、誰にも興味がない彼なら、私を見ないでいてくれる筈だ。
クラウスの腕に抱かれると、私は自分の心臓がドクドクと激しく動いていることに気がついて、それが小さな恐怖と本能としての興奮のせいであるとわかった。私は自分の心臓がそうやって動いていることが嬉しくて、目を瞑り――ただその音に耳を傾け続けた。
疲れ果てた私は彼の上に倒れ込み、その幸福感に心酔していた。
彼の身体が心地よくて、その胸に耳を澄ますと――
私と同じ音がした。
男は私に貧弱な声をかけた。
私は起き上がり、その雄の顔を見た。
眼。
あの眼だ。
彼は、私を愛してしまった。
「――肌、治ったね。綺麗だよ――僕は、君をなんと呼んだらいいかな?」
それが、その眼が、たまらなく嬉しくて、たまらなく怖くて、愛おしくて、おぞましくて、可愛くて、気持ち悪くて、それで――
――アタシ、そいつをぐしゃぐしゃに殺しちゃったの!
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そうして彼女の名は、十数年の時を経てついに決定された。
他者に愛される自身を拒み、自身を愛す他者を拒み、ただ他者を愛する自身を望んだ。性に己を殺され、理性に内側をかき乱された癒されることのない心――その名は『Bloodylove』。
愛に呪われた、誇り高き鮮血の悪魔である。




