オーナーと跡取り
「……これがきっかけ。理解できないだろ? たったそれだけなのに何故かなりたくもないはずの先生を目指すなんてさ」
苦笑しながら彰は朱理に言った。不良時代の、ちょっとしたできごと。誰にも話したことがないだろう、その内容に一言も口を出さずに彼女は聞いていた。
彼の言葉にゆっくり首を振って彼女はうつむいた。
「何となく、わかるから」
「俺が先生を目指した理由が?」
「希望を持つことで救われる気持ちが…。彰先輩は彼女が自分を必要としてくれてることが嬉しかったんですよね。純粋に、ただ。だから、思わず彼女の希望に応えたくなった。それは、もう…しょうがないことですよ。それに、その希望に応えるために、彰先輩は救われた。すごいな、その子。尊敬する。私なんて、彰先輩のこと気にしてたのに、何も声をかけられなくて」
暗くなっていく声に彰は目を細める。あの時の状態で誰かが話しかけられるなど、彰自身も思ってはいない。逆に恐れずに近づいてくる者がいる方が変だ。
だけど、あの少女はその常識を突き破った。見ず知らずの者に希望を抱き、見ず知らずの物と約束を交わした。
「そういえば、今先輩の彼女になっている人はどういう人なんですか?」
「うーん、不良だった」
「え?」
あっさりと答えられた言葉に唖然として、彼女は口を開ける。その表情が面白くて、吹き出しながら、あの時のことを思い出した。
「百合はさ、似てたんだよ。最初は本当同情にも似た気持ちで近づいて、できれば俺のような人にならないようにって、思って。だけどさ、俺とは全然違ったんだ」
「どう?」
「学校とか、家とかにもう自分の見方をしてくれる人がいない、気にしてくれる人がいないはずなのに、学校には来るんだよ。変な運だけ悪くてさ、いっつも不良に見つかって喧嘩になってるけど、何故かさ。俺にはそんな気持ち何もなかった。学校行ってもうるさいだけだし、嫌な思いするだけ。勉強なんてしてもって思って何もしなかったのに」
誰よりも淋しくて、誰よりも辛い心境に立っていたはずの彼女は、誰よりも強く生きて、頑張っていた。
「不良期間が短かったのもあってさ、頭いいし、まぁ努力もしたんだろうけど、いつの間にかクラスのトップにいるような奴。しかもさ、一番苦手だっていう数学が一番いいんだよ。不器用で、子供っぽくて、だけど一番純粋で。俺と同じ状況にいるのに、俺とは全く違う方向にいる彼女を見てたらさ、もう手遅れだった」
「……恋はするんじゃなくて、落ちるものなのよってお母さんが言ってたのを思い出します。たぶん、それが、本当の恋なんですよ」
にっこりと笑う彼女は、不意に話をしていた百合を思い出させる。何も言わずに出て行った。携帯も取り上げられ、家の中で動くのも監視が入る状態。この状態じゃ連絡もできない。
しかも、喧嘩とも言えるそんな状態で別れてしまった。
おそらく彼女は章と出会った時に何かよけいな事を言われたのだろうと大体の予想はついている。
「はぁ、早くここから出たいよ」
「彰先輩は何でここに呼ばれたんですか?」
「この家が何をしているか知ってるだろう?」
「んー、菓子屋ですか?」
「そこの跡取りとして呼ばれてんだよ」
和菓子と洋菓子をそれぞれ作り上げている会社。今、不況の時期でもあり、次第に売り上げは右下がりとなっている。それらのストレスもあり、オーナーである総一郎の身体の調子が崩れてきたのだ。
「じゃぁ」
「………俺がここに入ったら、二度と彼女には会えなくなるな」
自嘲にも似た苦笑を浮かべて、彰は小さくため息をついた。