女の子ときっかけ
「え? 章様ですか? 今日はちょっとした仕事で一日留守にするらしいですよ」
夜の食事をテーブルに並べながら朱理は答えた。自室にこもったままの彰は周りの状況を理解していなかった。今日入っている仕事の内容すらも知らないのだ。
「そっか…」
「………淋しいんですか? 彼女と会えなくて」
「はは、そうだな。微妙な空気のまま別れたからな」
並び終えた朱理はそのまま正座をして彰を見やる。それに気付いた彰は思わず見返した。静かにその時が流れる。
「―――っ、な…何?」
「あ、いえ。彰先輩はどうして教師になろうと思ったのかなって」
女性と二人きりで一緒にいたことは何度かあった。けれど、こんなに落ち着かない雰囲気を出すのは百合との間だけだった。
百合以外と、そう思ったら彰はこれ以上ないくらい心の中で慌てて、話を振った。
「俺が…教師を目指したのは、小さな女の子がきっかけだったな」
「小さな………女の子?」
昔を振り返るように目を細めて彰はゆっくりと話し始めた。
真夜中。
人が眠るその時間に彼は無意味に立つ。自分の拳を見れば血が滲むぼろぼろな手。じんじんと痛むそれが更に虚しくて、苦しかった。
冷たい風が自分を追いやるように強く吹き付ける。
「何も………ない」
俺には。
親の言うことを聞くのも、何も目標もなく学校に行くのも、何もかも無意味に思えて。
彼はけれど結局何も意味のない日々を送る。
「お兄ちゃん、いつからここにいるの?」
まだ陽が昇ったばかりの時間、一晩中その場所に座り込んでいた彼に物好きにも声をかけた女の子がいた。
髪の毛を高い位置で二つに縛った彼女はきっちりとコートを着込んでいる。
「寒くないの?」
「関係ねーだろ」
冷たくあしらう。そうすれば離れていくと思って。
だけど、彼女は離れることなく逆に彼の手を取った。温かいそれに思わず目を瞠る。
「つめたぁい。だめだよ、こんなに冷やしちゃ」
「な、何して」
「お兄ちゃん何かつまんなそうにしてるね。どうして?」
「聞けよ、人の話!」
少女は構わずポケットに入れといたホッカイロを彼に握らせる。じわじわと戻る感覚に顔をしかめた。右手に感じる痛みも同時に戻ったから。
「………痛いの? 大丈夫?」
「あぁ」
「でも、苦しそうだよ。そんなに、淋しいの?」
滴った涙を必死に小さな手で拭う少女に彼は揺れる瞳を向ける。
純粋で、まっすぐな存在。普通なら側にいるはずのない存在が、自分の心配をしている。
それが不思議でならなかった。知り合いでもないただの他人が、何故こんなにも親身になれるのか。
「…………あり、がと」
久し振りに感じた温もりと優しさに言ったことのないその言葉を彼女に放つ。
「それがきっかけ?」
「きっかけのきっかけかな?」
すっかり冷めた料理をやっと口に運びながら彰は答えた。
そろそろ仕事に戻らないといけないのだが、彼女が言うにはもうほとんど仕事はないから大丈夫らしい。
「久し振りに感じたものだったけど、結局俺はそのまま無意味な日々を過ごした」
「あ、彰だぁ!!」
怯えながらかかってくるガラの悪い連中に彼は容赦なく殴りかかる。何十という数を気にせずにがむしゃらに。
「たく、うぜぇ」
倒れた人の中心で彼は息を吐く。吸っても、吐いても、生きているという実感がわかない。
ただ辛いだけで。
苦しいだけで。
「お兄ちゃん?」
聞き覚えのある声に彼は振り返る。そこにはランドセルを背負った女の子がいた。
数ヶ月ぶりの、再会。それが夕暮れ時のこの瞬間。