財津家と不安
暖まった身体は一瞬にして凍り付く。目の前にいるのは紛れもなく彰の兄で、百合が変装して誤魔化した相手。
しかも、すっぴんの顔を見られただけではなく既に相手は自分の名前を知っていた。
「一体何のことだよ? あんた、誰?」
とりあえず少しでも誤魔化すため百合は声を出した。今とは全く違う、不良時に出していた態度で。だけど、章は恐れる様子も驚く様子もなく、ただそれを笑って流した。
「時条百合十六歳。両親を中学の時失い、親戚内をたらい回しされ、最後には一人暮らし。両親が残してくれた遺産を元に何とか生活を保っている。成績は優秀だったが、一年の終わりから二年の夏にかけて遅刻欠席を繰り返す不良へと変貌………か」
し、らべ、てる?
何を言われたのか理解ができなかった。淡々と述べられたそれが自分のこれまでの生活内容だと理解すると突然怒りが沸いて来る。
「中々すごいお嬢さんだな。俺も調べなかったら騙される所だったよ。まっさか、あいつが付き合ってる相手が生徒だなんて」
「…………一体何が言いたいの?」
もう隠す気も失せて、震える声音で問う。瞬間、章の顔つきは一変した。声だけでも出会った時とは別人のようだったが、顔つきまで変えれば流石に百合も息を止める。
「別れてもらわないと困るんだ。財津家としてはね」
「………? 私は、財津家と付き合っているわけじゃない。だから、彰とも別れません」
「それがあいつの首を締めることでも?」
「――――っ」
返す言葉もなく彼女は固まる。強く握った手は既に血の色をなくし、白くなっている。
守るものがなかった彼女はこういう時どう対処していいのかわからない。しかも相手が彰だ。年齢差も抱えているものも全く違う。
「ま、いーけどね」
「え?」
「今は君が付き合ってくれてることが好都合だよ。これであいつを教師という職業から離せるからね」
何を言われたのか彼女は一瞬理解できなかった。ただ、何かがずんと重くのし掛かる。
教師から………。
つまり、いなくなる?
やめちゃう?
「どうして?」
「財津家にはあいつが必要だからだ」
目線が泳ぐ。一体何を見ていいのか、何を考えればいいのか、わからなかった。
その様子に薄く笑んで章は追い討ちとばかりに口を開く。
「でも、最終的に君がいるから彰は教師をやめなきゃいけない」
「ん………」
明るい光に彰は眉を寄せる。ぼんやりとした視界には障子が映った。見慣れぬ天井、見慣れぬ部屋。瞬時に昨日のことを思い出し身を起こした。気が付けば隣りに寝ていたはずの百合がいない。
時間は七時過ぎ。おそらく起きて外にでも散歩しに行っているのだろうと大体の予想を立てて着替える。
しばらくして、襖が引かれる音がした。
「百合、どこいって………」
言いかけた言葉は止まり、彰は彼女を凝視する。一目でわかるほど顔色が悪かった。身体は震えて焦点が定まっていない。
「百合? 大丈夫か?」
「………あ、きら」
やっと彼女は彰の顔を確認して歩き寄る。覚束無い足取りの彼女を両手で支えて彼は彼女が何か言うまで待つ。だけど、何かを言うことはせず、百合は突然涙を流した。
それは止まることなく、静かに服に吸われていく。
「う、………ふ」
泣く彼女を彰は黙って抱き締めるしかなかった。ただ、微かに感じる不安が、この時次第に増えていることに気にかかりながら。
わかってた。
それは付き合う前から気付いてた。
だけど………多分まだ理解していなかったんだ。
それが本当になり得ることなんだってことを…。