立場と望み
避けてきたはずのこの状況に、喜んでいる自分がいる。
「先生こそ、出ないんですか?」
素っ気無い言葉を言って、百合は視線を逸らす。何か危険なものが自分の中から溢れるのを防ぐ為に。それに知ってか、知らずか、彰は彼女に近付き、側にある椅子に腰掛けた。
「僕はちょっと疲れちゃいまして。あ、食べましたよ! ケーキ。流石時条さんは料理上手ですね」
「……ありがとう、ございます」
込み上げてくるもの。それを素直に出せないのが、もどかしい。百合は横目で彰の顔を覗く。あまり明かりがないせいか、彼の表情まで窺えなかった。
「あ、あと………時条さんて」
言いかけて何故か彼は言葉を切った。首を傾げて思わず顔を向けると彰の肩が小刻みに震えていることが理解できた。
「先生?」
「時条さんて、意外と歌下手だったんですね」
震えている理由を理解して百合は顔を赤くした。その様子で我慢がきかなくなったのか、思い切り彼は吹き出して笑い出した。
「せ、先生! 何笑ってっ……」
「あはは! ごめん、だって」
笑いが尽きそうにない彰に百合は思い切り睨む。その目は少し潤んでもいる。
流石に罪悪感を覚えた彰は慌てて謝った。
「わー! すみません! もう、笑いませんから、泣かないで下さい!」
「な、泣いてなんかない! 馬鹿!」
「百合さぁん、機嫌直して下さい」
「ふんだ、彰なんかしら――――」
はっと、百合は口を閉じて立ち上がる。目を見開いて彰を見れば、彼も同じような表情をしていた。
恐れていた、この状況…。
「―――っ、ごめん…なさい。私、ちょっと皆の所に行きますね」
戻らなくてはいけない。
だから、喜んではいけない。
望んではいけない。
引きつった笑みを彰に向けて百合は走り出した。
恐れていた、この状況。
だけど、私が最も望む。
だから、二人っきりになんてなっちゃいけなかったのに。
皆の所へと言いながらも彼女が行く方向は誰もいない校舎。
彼女の足音が哀しく響き、だけど心臓の音をかき消してもくれない。
息が苦しくなって百合は足を止める。がくがくと膝は笑っていた。
「情けない…」
その場に座り込んで百合はスカートをきつく握り締めた。
冷たい床は彼女の心まで冷たくしていく。遠くで聞こえる生徒の声は彼女を笑っているようにも思えて来る。
「もう、嫌」
戻りたくない。
それよりも、あの日に…。
「百合!」
聞こえてきた声に百合は顔を上げる。喉が凍り付いて声が出せない。
「嫌なら、無理しなくていいんだ!」
その言葉に首だけ振った。状況が理解できない。わからない。
「何で、追い掛けてくんだよ! 何でそんなこと言うんだよ! 一緒にいるだけで……彰の立場、悪くなるのに」
消え入るような訴え。聞いてはいけない気がした。この先を、聞いちゃいけないと。けれど、耳を塞ぐ勇気も無くて。
「………そうだな、確かに一緒にいることで立場が悪くなる」
ずきん。
一瞬呼吸を忘れるくらい、胸が痛んだ。けれど、本当に最悪な事態にはこれではならない。
だから、安心した。
「うん。だから、戻ろうとした。実際、本当に元に戻った。だけど、戻ったところで、私の願いは変わらない」
変わらないから、苦しいんだ。
「関係が戻っても、願いは変わらない。願いを叶えるために必要なもの、それがわかったから、もっと苦しい」
戻りたい。
元にじゃなくて………
肩を震わせる。堪えていたものが一気に溢れて、床に落ちる。
「………俺も戻ろうとした。百合の立場が悪くなったら、困るから」
「―――っ!?」
「だから、戻ろうとした」
思いがけない言葉に耳を疑う。襲撃で身を固くすると後ろから温もりが彼女を包んだ。
「戻れると思ったんだ。だけど、俺の方が元に戻れなくなった」