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Yは天使の記号~鏡の中に恋をしたマリオネットの物語~

作者: ムラカワアオイ

十七歳の頃、僕は何を見ていたのであろうか。正確に見ていた者が僕自身と高木由佳利だけであった。それは六月の出来事。僕は生まれ育った御国野と云う街でテレビカメラに囲まれた。

「好きな政治家は誰ですか」

女に質問された僕は「いない」と言った。その日の記憶。彼女が中指を立てて僕を見て大声で笑った。「ありがとうございました」カメラマンは苦笑いで頭を下げた。半径三メートル以内に納まる二人が不自然であった事から僕も笑ってしまう。女は僕に聞いた。「放送してもよろしいですか」僕は、「ご自由に」と答えて中指を立てて笑う事を選んだ。このインタビューが放送されたのは、五日後の事で、テレビに写った僕が彼女に見惚れていたのは事実であり、テレビの前に座る僕が見惚れていた人も高木由佳利であった。


その頃の僕には付き合っている二つ年上の女性がいた。彼女の愚痴を聞いてやる事と性行為を交わす事から僕は所謂、彼氏として彼女から見られていた。彼女の名前は佐々木志穂と云い、僕の名前は武田瑠璃と云った。

志穂に会う度に感じた事がある。本当の恋愛関係とは、どのようなものなのであろうか。十七歳の僕は同調と類似が、恋愛関係であると位置付けをしていた。結局のところ、志穂は僕の事を特別な存在としていたので悩む必要もなかったのであるが僕の体と心に大きな違和感と負担が存在したのは確かな事だ。彼女の父はコンビニエンスストアを経営していて僕を可愛がってくれた。佐々木家の人達は何事に対しても執着しない僕が、何れ志穂と結婚をしてコンビニを継ぐと予測していた。しかし、僕は志穂にも執着していなかったので僕等の関係は恋愛関係では、なかったのであろう。


僕にはバイトで貯めた五十万円があり、さらには親父が七十万円を出資してくれた事もあり、専門学校への進学を決めた。映像処理専門コース。高木由佳利と出会ってからの僕は放送関連の仕事に就きたくなった。


僕は必ず眠る前に出精をする。今日は相手がここにはいないので手淫をする。十八歳の僕が性行為を交わす相手は桜井。彼女の名は祥子。彼女をデッサンした事から付き合いが始まり、彼女の家もここから近い。桜井祥子依存症。僕は出精時に桜井の裸を想像する。テレビの中のAV嬢を眺はあくまでも参考資料なのだ。今日も桜井の名を呼んで出精をした。

彼女の撮る写真には必ず毒気が含まれていて、前回のテーマは戦う女。友人関係である、女二人を嘘や芝居ではなく作品の為に言葉巧みで対立させる。喧嘩に勝った方には賞金二万五千円。洗脳と云えばそれまでなのであるが、人間を憎しみ合わせるのは容易い事であると彼女は言う。彼女は作品に対して正直である。

出来上がった写真には同じ事務服を着た女二人が写っている。報道カメラマンが撮れば、ただの殴り合う女達なのであるが、子を守る母親像を表現したいとする彼女が撮った写真は作品と呼ぶ事が出来る。桜井の部屋はいつも散らかっている。  

彼女の弱点は整理整頓が出来ない事。人間の匂いがする女。彼女と僕の共通点は泳げない事から、小中と水泳の授業が始まると一日中、学校をさぼっていた事。僕は家にひきこもるタイプであった。新聞やチラシをコラージュして退屈な一日を埋めていた。桜井は幼稚園に通っていた頃からカメラを離さない人間で、小学校六年生の夏休みには単独で四国を自転車で一周。

十二歳で彼女は修行僧の最期を撮影している。撮影を依頼したのは癌を患っている僧のほうで、彼女は彼の最期を看取った後に救急車を呼んだ。三十歳での最期。十二歳の桜井が流した涙。


冷蔵庫を開けると何故だかフリカケが卵の陳列ケースに鎮座している。『愛ってなんだ』と、テレビが言ったので僕は「さようなら」と言ってチャンネルを替えた。バイブが知らせたのは志穂。今更、何だよ。電話に出ないと決めた。何度ものコールがしつこい。鬱陶しく感じた僕は志穂からの着信を拒否してしまいガムを噛む。今度は桜井からのコール。

『今、新逗子。歩いて帰るね』

『あっ、悪いけどさ、バナナを買ってきてよ』

『オーケーです。毎度あり』

ガム噛み続ける僕には災難が続く。また電話。

『元気でやってるか』

『ぼちぼちだな』

『瑠璃、今日、帰れるか』

僕の事を瑠璃と名指しする親父。珍しいこの事から何らかの出来事があったのだと悟る。幸ではないな。不幸の結果報告である。

『志穂ちゃんのお父さんが亡くなったんだよ』

『それで』

『志穂ちゃんがお前に会いたいんだって』

『もう、別れたんだよ。僕には関係ないよ』

驚きはしなかった。過労死して当然だ。志穂のお父さんには何事も一人で背負い悩み苦しむ性質がある。彼の適職はコンビニ店長ではない。関係ないとは言ったものの世話になった人だ。親父には、すぐ逗子へ帰る事を条件で行くと答えた。桜井に事情を話し、僕は逗子駅へと歩いた。


川崎で乗り換え。小便を済ますと眠くなった。御国野まであと八駅。電車に揺られる僕には考えてしまう事がある。

小学生の頃、葬式に一度だけ参列している。亡くなったのは同級生で僕の真似を得意とする小柄な男の子であった。僕は家に同級生を呼んで親交を深める子供であった。親父がパソコンに接していた事から常に最新のテレビゲームを僕等に与えてくれて、お袋は保育士をしていた事もあってか、小さな来客には優しくて。亡くなった同級生は中嶋寛太。彼は僕の親父が、購入したものを痛烈に批判して、中嶋家のほうが楽しいと主張をする。

「武田の家には行くな。武田菌がうつって頭が腐る」

「武田は人間じゃない。猿が服を着てるだけ」

 などと僕に言葉を浴びせた。彼は水泳の授業を嫌がっていた僕を責めたて、これから仲良く出来るかもしれない人間を僕から奪っていく。僕は一人に慣れていた。いじめだとは感じなかったが愉快ではなかったのがその頃の心中である。その一方で彼は学校に行こうと言う。彼は先生達と僕の家を訪ねる児童会長でもあった。嘘吐きは嘘を止めない。

彼と彼の取り巻き達に囲まれ、暴行を受けた事が一度だけある。当時の僕は、心の中で中嶋を責め始めたのだ。死んでしまえ。何度も思った。その皮肉な願いが叶ったのは冬の事。その中学生からリンチを受けた中嶋はショックのあまりか、自宅で自殺を図り、死んだ。警察は彼の姉を含めた中学生を暴行と恐喝の罪で逮捕した。僕も友人として警察や学校から事情を訊かれた。なかには中嶋の霊だと騒ぎ立て、教師の車を破壊する児童も存在した。僕はこの街が苦手である。中嶋の死から学んだ事を活かしていない。おごりから成り立つ無意味な暴行事件が頻繁に起こる。


駅に着いたのは午後七時前。実家へと歩く。駅前のパン屋がファミリーレストランへと変っていて。横断歩道で赤信号。坂道を下がると実家が見える。小さな白い門の前にはお袋がいた。

「大変だったな」

「昨日まで働いていたのに。あんたも気をつけるんだよ」

「親父は」

「佐々木さんの所」

玄関には喪服と黒い靴が用意されている。慣れないネクタイを締めようと試みるが、お袋が背中にやって来て黒いそれを結ぶ。僕はお袋の車の助手席に乗り込む。

「志穂ちゃんからの電話に出なかったんだって」

「あの娘に新しい相手がいたら嫌だろう。もう、別れてるんだから」

「そうだよね。あんたの立場も複雑だね」

「パン屋がつぶれてたね」

「そう。集団食中毒でね。店長が替わってからいい事なかった」

「ふうん」

「彼女は出来たの」

「いないよ」

「そう」

お袋が気を利かしてか、演歌が演奏されるCDの再生を停止させて、FMへとスイッチを換える。僕は家族を持つ者の過労死を認める事が出来ない。僕は死んで、伝説となる人間を軽蔑している。死を前提に働くのならば独り者でなくてはいけない。電柱に忌中佐々木家の文字。今日の終電で帰ろう。母子はトンネルを通過した。


「お前の来る所じゃないんだよ。帰れ、変態が」

志穂の叔父である。変態と呼ばれる。デッサンの為に彼女の裸の写真を撮った事がある。彼女は喜んで脱いでくれたのであるが現像した写真屋の店員と彼が、友人関係であった事から情報が漏れてしまい彼から叱られた事がある。僕の親父がいる。こちらを見て「ご苦労さん」と、曇った表情を見せる。


「顔を見ていって」

「いや、いいよ。遺影が良い表情をしているから」

「良い顔なのに」

「いいよ」

「元気だった」

「ぼちぼちだね」

「私、彼氏が出来たんだ」

「ふうん」

僕と志穂は手早で悪いが焼香を済ませてA―ストア佐々木店へと移動。僕が黒いネクタイを解くと彼女は彼氏がなかなか自分を理解してくれない現実を語りだす。

「もう、行くわ」

僕はバス停へと歩く。すると彼女がついてきて誰かにメール。そして、その彼氏が車で僕をお迎えに。どうでもいいのに。来た男は美容師であり、知識だけで動いている男であるらしい。彼は映像に携わっている僕に興味を示し、「イベントを一緒にしよう」言葉を振ったのであるが僕は「また」とだけ言って彼の外車を降りた。


深夜の鎌倉をバイクで散歩。僕はシャララと口ずさむ。今日の出来事。初めて行った喫茶店で会話をした店員さんが美形であって僕は自分のわきまえを、喜んで話した。常連客と化す予感。暴走族に遭遇。道を譲ると「ありがとう」旗持ち男が笑顔の大声であって。僕は桜井の家へと向かった。ポケットの中が揺れる。携帯電話にメールが一件。かたじけない。桜井からであった。

『夜食作ってマース。祥子より奉仕のメール』

『行きマース。瑠璃よりありがたき幸せメール』

待てよ。悟った。立ち寄る。二十四時間営業の薬局でコンドームを買った。彼女が求めている事を察知。耳鳴りがする。僕の体にはセックスをする前に耳鳴りが起こるようにセットされている。そして彼女が満足した後に耳鳴りが途絶える仕組み。その後に僕は自分を満たすのである。



「瑠璃君ってさ、ほんと、面白いね。何か持ってそう。お世辞抜きだよ。実際さ、くだらないお客さんの会話とか聞いてね、こいつら、ほんとに馬鹿だ。って結構、思うことも多いんだ」

喫茶店のオーナーである女性、児山さんと会話。僕は素直に照れくさい。

「常連さんになってね」

「は、はい」

席を立つ。喫茶店の名は『HANABI』と云い、店名の由来は児山さんが高校生の頃、組んでいたバンドの名前からきているとの事。一階が喫茶で二階が小さな美術館となっている。

「今度、ギター、教えてくれませんか」

「もう、何年も弾いてないもんなぁ。うん、いいよ。たまには弾かないと、ギターがかわいそうだもんね」

次回は二階の美術館へ赴くとしよう。彼女に会釈をして店を出ると桜井から着信あり。

火事だ。僕はよく火事に遭遇する。逗子に越して来てから、三度目になる。十八年間の通算で八度目。自動車免許の教習中にも山火事に遭遇。仮免許保持者だった僕は山火事の為に走行不可能と教官から教習中止を言い渡され、途中から運転を教官と交代。そのおかげで同じ教習をもう一度受ける羽目になった。



重い機材を背中に背負って走る。学校は合宿と題して横須賀の民宿を借り切った。桜井と僕はバイクで横須賀を目指す。彼女と走る国道に邪魔者はなし。回転数がほぼ同じであるバイク二台は東へと行く。早朝。ヘルメットの中で思う。児山さんのギターをモデルにしたグラフィックは課題に合格。この作品を知った鎌倉にあるファッションビル『フォール』から個展開催の打診も来た。

桜井は去年フォールで個展を開催した。彼女は、「やってみんしゃい」と一言。僕は、「やるべか」と一言。ジュゼッッペは遅く、横須賀は遠い。合宿は必須。必須でないと行ってない。少しずつ空は明るくなり、ガソリンを入れる為にスタンドへ立ち寄る。深呼吸を二つして彼女と横須賀への道に戻った。


先程の笑える出来事。黒人にバイクを誉められたのだ。会話が愉快。

「オオ、ジュゼッペ。ユア、ナイス、チョイス。いいバイクです」

「オオ、アリガトウ。ジュゼッペ、ワールドチャンピオン。サンキューです」

交差点での信号待ち。黒いセダンに乗った男がウィンドウを開けて言った台詞。黒人は、クラクションを鳴らして僕等を追い越して行った。良い買い物。ジュゼッペは僕のイタリヤ産まれの愛車。去年のF1のワールドチャンピオンを産んだメーカー。中古車で五万円。事故には充分気をつける事にしよう。僕は働くのだ。パソコンで洗濯機をデッサン。来週からは映像に着手出来る。人間が扱う機械をデッサンしてきて下さい。僕は自宅近くにあるコインランドリーで洗濯機の写真を撮ってきた。帰る事が出来るのは明日の午後一時。少しの頭痛が調度良い。五人の男が昼寝と作業を繰り返すこの部屋は涼しくてありがたい。

自宅以外での昼寝。色々と模索する事が増える。もしも、男の子の父親になる日が来たら、どうしよう。武田家の男は、代々、名前に色を取り入れている。親父が銀一、祖父が金助、叔父が紅介に紺伊知郎で僕が瑠璃色の瑠璃。僕は黒と橙色が好きだから、黒太。凄く、違和感あり。橙色を取り入れる場合は橙輔なのか。これもかなり、違和感あり。やっぱり、母親になる人に決めてもらおう。


「マエダ!ナメテミル?」

高木由佳利がイメージキャラクター。家電屋にて寄り道。マエダのモニターを使っているのも僕。ナメタかいあった。黒と白を基調にした高木由佳利の写真の下にマエダの文字。彼女の自然な笑顔。自然に僕はマエダのカタログを手にしていた。老夫婦が僕に道を尋ねる。この辺りの土地鑑がないものだから店員さんを呼ぶ事にした。当たり前の事ではあるが、幼稚園児の頃から気付いていた事を重んじる。教室にいる全員は死ぬのだ。園長も先生も園児も父母も。いずれは地球や宇宙さえも。だけど、世界というものは永遠に廻っているものだと思う。何故だかそんな気がするんだ。



同室内で喧嘩があったとの事。作品について生徒二人の意見が割れ、口論から殴り合いに発展。学校側は僕を含めた五人全員を別々の部屋へ割り振った。暴走族上がりの男と教職免許を持った男とでは作品へのアプローチが違う。僕はラッキーな事に一人部屋を頂戴出来た。夜の米軍基地はうるさい。窓の前を横切った浮浪者もうるさい。からまれる。

「うるさいのだ、くそはげ王子。出て行けこの若者くそ王子」

この中年男性は髪が薄く、僕に向かって唱える様に台詞をすらすらと吐く。僕への中傷だとは感じなかった事に付け加え彼の顔は楽しそうだ。彼が僕に意見を求めるので言った。

「僕、何も言ってないよ。なんでうるさいって言うの」

「君、偉い。君、屈辱だとは思わない。わかるのか、僕の事」

「いや、偉くないよ。屈辱だとも思わない。あなたがわからないから僕は訊いたの。僕のどの辺りがうるさいの」

「肩、胸、腰、がうるさいのだ」

「どんな風にうるさいの」

「音がする」

「どんな、音がするの」

「ヘリコプターに近いのだ」

「おじちゃん、何処の人なの」

「僕、浮浪者。世界を転々」

「羨ましい」

「僕、行く。君、頑張ってね」

浮浪者は手を開き、「パー」と、口から音を残して走って行った。ヘリコプターに近いとは嬉しい。僕は飛行機に乗った事がない。しかしヘリコプターは大好きだ。中学生の頃に体験したヘリコプターで御国野を一周する企画。自宅近くにある遊園地がヘリコプターを所有していて、御国野市民は四千円を払うと企画に参加出来る。市民以外だと一万円を払わなくてはいけない。そんな背景もあって、僕はラジコンを買う事を止めてヘリコプターへと投資したのだ。リアルタイムの振動で空へ浮く。音には凄いとしか言えなかった。操縦士が陽気な事もあってか空中スピンも体験。おまけに十五分間の延長。鳩の群れに遭遇して操縦士が「あれは伝書鳩なんだよ」無線を通じて僕へと知らせてくれた。ヘリコプターに憧れた僕は三日間、興奮してほとんど眠れなかった。

浮浪者の耳に音が伝わった事は嬉しい。浮浪者になるのは一流の人間。欲を持たず、敵を作らず、世を恨まず、格好を付けず、金を儲けず、家を持たず、何も作らず、生きている。食べる、寝る、遊ぶ、自由だ。一流なのである。



他人様にサインをする魅力が僕にはあるらしい。フォールの五階ホールで個展。女子高生に囲まれたのである。彼女達は僕の作品について、「かっこいい」「かわいい」などと重宝してくれたのだ。正直なところ嬉しさと恥ずかしさが同時に伝わってきた。「電話番号を教えてください」と言う女もいた。僕が作品に取り入れている一貫したテーマは、『安定した狂い』。それは生きているもの、全てが望んでいる事である。と僕は考えている。快楽。増殖。恋愛。性。自己愛。これらを安定した狂いであると位置付け。作品は何も隠さずそれを実行出来る。

だから僕の支持者も自由に安定して狂え、楽しめるのだと思う。個展開催にあたり資料を集めた。子供の頃から撮り貯めた写真をコラージュしてテーマに沿わせ、僕は写真を見ながらパソコンに向かった。

「TAKEDA.RURI FALL.001.」

と赤、黒、で表示されている看板を見ると大きな恥ずかしさを覚える。だけど、嬉しいことだ。心から待ち望んだ大きな意味を持つ夢のひとつだから。


「ちょっと、大袈裟だよな」

「私の時もそうだったよ」

キスしたかった。二人、作品の前。僕が彼女を見る度に二人は嬉しくて、くすくすと笑うのである。

「キスしようか」

と桜井は冗談。

「後でね」

と僕は嬉しくて。今回の個展は成功と言っていい。人様から見て、

様々な意見を頂戴した素朴な個展は嬉しい成果を得て終了した。



金曜夜十一時のHANABIには僕と桜井以外に客はいない。テレビでは女性アナウンサーが入籍報告。媒体への露出が多いコピーライターの男性がお相手でありテレビの中でアナウンサーはこう言った。

『ありがとうございます。今日、私は日本で一番、言葉を扱う事が上手い男と入籍しました』

三人は不様に笑い転げた。その後もアナウンサーは自慢話をにこやかに続ける。メインキャスターが話しを膨らませて、彼女は言葉を扱うアナウンサーと云う立場であり、それを極めているコピーライターに想いを寄せた事は自然の成り行きであるとしていた。エンディングに差し掛かるとメインキャスターからの花束贈呈。未婚の僕等は笑っているアナウンサーを見て笑う。それではまた明日。僕はテレビから視線を反らし欠伸を残した。他の人間に宿っていなくて僕だけに宿っているものはなんだろう。その明確な答えはいつ出るのだろうか。絞って見つかったものは、ものを作る事。しかし、それは誰にでも出来る。僕は別に特殊な能力を兼ね備えている生き者ではない。何かを知りたいんだ。人間。地球。形あるもの。世に存在するもの全てを。そのために僕は行動するんだ。僕はHANABIのカウンターでお疲れ様。僕はそのまま眠ってしまった。


二階から彼女たちの声がする。鉄の階段を上ると絵が見えた。大きなキャンバスの真ん中に大きな瞳をモチーフとし、瞳の上には大きな二つの白い指。生きることに執着している姿、生の苦しみと快楽。死への追究を深々と感じた。

「この人、死んじゃったんでしょう」

「わかる」

「はい。そんな気がして」

「去年、亡くなったの。まだ、二十五歳でね」

「当然の事なのかな」

「亡くなる少し前に、何故、絵を描き続けるのって聴いた事があるの。彼は私を険しい表情で睨んで言うのよ。『僕が唯一、人を殺せる手段が絵なんだ』って。日頃は笑いの絶えない性格で楽しい人だった。幼い頃にお母さんを亡くしてね。お父さんが亡くなってからすぐに仕事を辞めてアトリエを持ってね。お父さんの一周忌が終わって、すぐに亡くなったわ」


彼女達は早朝から彼の事を色々と話していた。彼は、この絵が完成した翌朝に自宅の風呂場で亡くなった。人を殺せる道具を他人に向けず、自分に向けた彼。殺意を感じさせる絵は僕等を生かしてくれる。そこまでする必要が彼にはあったのだ。常に欲求不満である自分自身を認めている彼の事を僕等は素晴らしく生きた人間であると思う。家族を持たず、恋人を持たず、絵だけを描く為に生きた。   

北村宗一。彼の写真も拝見した。何処か淋しそうな笑顔。児山さんは彼の事が好きだった過去を恥じるように話す。僕等は彼女の淋しさを受け止める事にしたのだ。児山さんは自分自身がバイセクシャルでもあると告白した。

少し前に桜井とキスを交わした事も彼女は僕に打ち明ける。僕等は彼女を満たす為に裸になって抱き合った。北村は自らが描いた瞳で僕等三人に殺意に似た使命を注ぐ。僕等が児山さんを満たすと桜井は僕を満たしてくれた。世界は一つではない。僕等は北村が作った世界に浸かっている。当事者は何処かで僕等を見て何かを感じているのだろうか。


今の三人が持つ心の中はどこかで共通しているんだろうな。僕はこんな事を感じて首を回した。僕は児山さんと桜井の事を同時にのみくだしてしまった。北村は欲求を満たした僕にどんな感情を抱くのであろうか。コーヒーに砂糖をいつもより多く入れた僕は欠伸と背伸びを同時に行なう。彼女達は昼からの買い物を楽しそうに計画している。


職員室で映像編集用ソフトを手に入れた。僕は明日、十九歳になる。八月二十二日。何処で誕生日を過ごすかなんて決めてない。アンプルを飲んだ僕はバイクに跨るのであるが少し図書室でくつろぐとしよう。女優が書いたエッセイを読んで僕は笑い、深呼吸をする自分自身にも笑ってしまった。



好きな女が目の前に二人。イベント会社クラークに就職。三人での共同生活。僕は二十歳の秋に女性二人と暮らしている。どうやら僕の欲求不満をのみくだしてくれる女性達は僕に恋愛感情を持ってくれている。桜井祥子と児山安喜子と僕。三人はお互いに依存しながら生きている。僕等は三人が良いのだ。住まいはHANABIの隣り。こうして、三人は三人の居場所を作ったんだ。


昨日は夜の七時に眠ってしまった。北村が描いた絵も高く評価されて先月は新宿で彼の個展が行われた。彼は何を想うのだろう。彼の事を朝が来る度に感じる。

僕のポケットの中には小銭が少しあって携帯電話の時刻表示は午前七時二十八分。児山さんがコーヒーを沸かす。

「瑠璃君、昨日、よく寝てたね」

「そっか。疲れてたのかな」

「何処かへ行くの」

「大船へ行こうかなって」

「ついて行っていいかな」

「いいよ。桜井は寝てるの」

「寝てるよ。少し、二人で夜更かし」


児山さんと朝食。お箸を持ち、にこりとほほ笑む彼女。何をしていても彼女の表情は絵になる。彼女は、桜井と僕がいないと何も出来ないと話す。あらゆる物事に対しても彼女は適切な助言を与えてくれるのだ。僕はまだ息を続ける資格がある人間であるらしい。欲望と満足のグラフが僕の心と脳の中にきちんとしまわれている。

「僕のあだ名は悪魔君だったんだよ」

「あ、それっぽいよ。それっぽい」

「小学生の頃なんだけど、公園の空き地で基地を作って遊んでたんだ。基地って言ってもダンボールとベニヤ板と釘で出来ているものなんだけど。公園の横には塗装工の事務所があってさ。そこの社長と喧嘩した事があって。僕等が基地を作る事に社長は怒鳴って叱り付けたんだ。僕は、『お前だって事務所を持ってるじゃないか』って暴れて友達四、五人で彼の事務所まで乗り込んで行ってさ。彼の息子さんが小学校の先輩で。息子さんのつけたあだ名が悪魔君。でも息子さんとは仲良くしてもらって中学に上がっても向こうから挨拶をくれてさ。悪魔は格好の良いものなんだなって、子供ながらに嬉しくてね」

そして、憧れの女は今日もテレビの中で様々な笑顔でいた。僕は人間だ。空間とも時間とも取り引きをする。

矛盾だらけの世界を選んで産まれてきて良かった。僕は来週から、高木由佳利と職場を共にしてしまう。昨日の昼、彼女と電話で話した。震えて会話にならなかった。僕は高木由佳利を知る。高木由佳里は僕を知る。今日は晴天。カラスが空を独占していた。


肉眼でとらえる事が出来る理想の女は「はじめまして」ときれいに言った。緊張と理想現実化が心を包むのである。しかし、彼女が大きな包容力を持ち合わせているので、緊張はすぐに解けた。はじめてではないのだけれど、「はじめまして」香り。いでたち。彼女は僕の完全理想の完璧な女。

「鎌倉に住んでるんだって」

「はい」

「二人の彼女と同棲」

「はい」

「やるね。私の二十歳の時なんて恋愛も出来なくて」

「だけど、今の由佳利さんも昔の由佳利さんもきれいですよ」

「もう、うまい事、言うね」

「何でグラフィックを始めたの」

本当は、今、横にいる、由佳利さんにもう一度、会う為。格好を付けた。

「気が付けばパソコンの前で汗だくでしたよ」

「それ、すっごく、素敵な事だよ」

「うまい事、言いますね」

「瑠璃って、良い響きの名前だよね。私の本名は由希なんだ。由希って出世運が悪いらしくて、だから、由佳利にしたの」

僕は僕で武田家に伝わる、男の名に色を取り入れている話を彼女に振った。彼女はメモを取りながら、

「面白いね。今度、ネタにしてもいいかな」

と可愛く、言った。

彼女の笑顔にすぐに溶け込む僕。今日から一ヶ月、夕方五時から夜九時まで、彼女を毎日、束縛出来る。企みは正解。僕は他の何者でもなく彼女を作る男。彼女は本物の高木由佳利。



三日連続で目が合う。彼女は何も言わず僕に白い紙を渡して出口階段へと走って降りて行った。そこには彼女のメールアドレスと僕宛のメッセージが転がっていて。ホームには山手線の音を後ろにして口に缶コーヒーを咥えて、手紙を読む僕がいた。


「いつも、見つめてごめんない。あなたを知りたい。メールを下さい。岡村薫」


僕がメールを発信したのはこの後すぐ。僕はこの日から深く、薫を心に意識する様になっていく。


順調な撮影と入念な会議の繰り返し。鎌倉と青山の往復。渋谷で由佳利さんと待ち合わせ。薫とは昨日も今日も出会わなかった。邪念とか煩悩とか何とか。三人の恋愛関係もゆったりと、のんびりと回転している。愛すべき女達。缶ビールを開ける。祝杯は毎日。パソコンには由佳利さんのデッサン。そうこうしていると、薫からメールが来た。

『瑠璃君って何者なの。凄く、不思議。いつも一緒にいる人、高木由佳利さんだよね』

『僕はイベント会社で働いているんだ。今、頑張り時。そう、高木由佳利さんだよ』

『イベント会社か。大変だね。健康第一。私は倉敷から出てきた十九歳。弁護士事務所の雑用をやってます』

『そっか。大変な仕事を選んじゃったね。だけど良い仕事だと思うよ。助かる人がいるんだから』

『ありがとう。いきなり、質問。付き合っている人はいますか』

『いるよ』

『どんな人なの。凄く、知りたい』

『正直に答えていいかな』

『いいよ』

『二人の女性と同棲中』


僕は薫の事が欲しくなった。彼女の家は渋谷のどこかで今は夜の十一時。明日の早朝三時にバイクで家を出る事にした。彼女の心を知りたい。僕は愛すべき二人に初めて、仕事があると嘘を吐いた。ごめん。自分自身に対して素直なんだ。家族より身近な存在に悪い振る舞いをしている。僕は人間だ。百面相はその人の心まで完全に演じてくれるのであろうか。百面相だって恋をするのだろう。僕は少し眠って、二時半過ぎに起きた。ジュゼッペのエンジンは今日も元気で僕はスロットルを少しずつ回した。空はいまだに暗い。薫の声を聞きたい。東京、渋谷はまだ遠い。月は三日月。神奈川の秋は僕を抱きしめるように優しい。  

感じる事が、いつもと違う。ガソリンスタンドで給油口を見つめる時間がいつもより長い。コンビニ店員にも笑顔で接してしまう。動く星の上で赤信号に遭遇。右手には高速道路がきらきらきらきらきれいに見える。


薫との関係は続き、僕はジュゼッペを走らせる事が多くなった。彼女には出産した過去がある。しかし、親権を持っていない。彼女は結婚を選ばず上京を選んだ。彼女の娘はもうすぐ一歳になる。彼女の口癖はこうだ。「私にはまだ、母親になる資格がないの」そうなのかもしれない。彼女は純粋で赤子のような瞳を持っている。僕は不思議だった。不思議でたまらなかった。気が付けば彼女の横にいるのだ。どきどきする、ほっとけない、抱きしめたいのは薫なのである。不器用な性格。赤い唇。



「送ってけ。送って行け。この若年寄」

「はい、はい」

「酔っ払いには瑠璃君の事がわけわからん」

高木由佳里と僕は同じ部屋に。僕は重い鞄をベッドの上に置いた。その時だった。切り裂く声は憧れの声。


「殺してよ。殺しなさいよ。もう、私も限界。死にたいの。その方が私は楽だわ。もう、全てから解放されたい。私を殺せばいいじゃない」


高木由佳利は何かを秘めている。朝に彼女を起こす事にした。僕は訊いた。

「昔ね…」

彼女は煙草に火を点けて、髪を触り。

「一度だけ男の人と住んでた事があるの。彼は警察官でね。全てを支配しようとする馬鹿な男で。パソコンでしょ、服、時計、指輪、それに安眠が出来るようにって、ベッドまで買ってくれてさ。私は彼のペットみたいになって、言いなりになって。だけど、そんな恋愛、面白くもなんともないじゃない。しつこく感じる様になってさ。別れたの。私、それから恐くて。そうだ、瑠璃君に話さなきゃいけない事があるの」

仕事上の事かな。何だろう。僕が頷くのを彼女は待っている。そして、彼女は目で急かした。

「言っていいかな」

「はい」

「私、ナルシストなんだ。自分以外の人を愛せない」


僕は彼女の煙草を頂き吸った。煙は何処かへ行って、やがて、消えて。

二人の会話は二人だけの秘め事になった。鏡の中の由佳利はこちらを見て笑う。

「私、おかしいよね。子供の頃からそうだった。友達と遊びに行って家に帰ると、鏡を覗いて見惚れちゃって。私、家族の誰にも似てないの。勿論、友達にはこの事を隠して。私、恥ずかしかった。だけど、自分が好きだから、私が私の体が求めるから、苦しさから解放されたくて」

世界中にもう一人の高木由佳利は存在しない。彼女がどうあがいても。彼女が彼女をどんなに求めても。



「ねぇ」

「どうした」

「薫はさ、自分の顔、好き」

「ううん、どちらかというと好きだね。何で」

「いや、仕事の参考になるかなって思ってね」

「深く悩まないでね」

「そうだな」

「今度、旅行へ行かない」

「いいね。何所、行こう」

「何所でもいいや。瑠璃君が決めてよ」

「わかった。考えとくよ」


 回り続けるシャッターとビデオカメラ。そして、完全理想の女とセックス。高木由佳里を抱いた後、鏡の中の僕を見た。欲望しかない、くだらない男だった。


クラークで一人。欲望だらけの男はまた、パソコンに向かう。時計の針は、二十三時十五分を刻んでいて。高木由佳利は僕の事をどのように見ているのだろうか。だけど、訊く事が出来ない。僕は以前から欲しかった快楽を得たのに何故だか解せない思い。パソコンの中には九人の高木由佳利。


桜井と児山さんに全てを告白した。薫。高木由佳利。僕の心中が穏やかではない事。桜井は意外と気さくに言った。

「薫さんの事を一目見て、好きになっちゃったんでしょ。瑠璃は間違ってないわ。成長したって、私は思うよ。だって、好きな事をやっと、覚えたんだもん。瑠璃はこれまで、仕事とセックスしか出来ないロボットみたいな奴だった。でも、人を好きになれたんだからこれで良いじゃん」

「じゃ、僕はここに居て良いの」

児山さんも続ける。

「当たり前じゃない。この家は三人の為の家でしょう。それに、瑠璃には、北村みたいになってほしくないの。だから高木由佳利との事も薫さんの事も当然の事だよ。何も悩む必要ないのよ。ね。そう云う事だよ。当たり前だよ。ね」

「ねえ、カラオケ、行こうか」

「良いよ。勿論、瑠璃のおごりね」

「おうよ、任せろ」

「瑠璃君、儲けてんだから、たまには、おごってね」

「はいな」

その夜、僕の財布は空になった。カラオケボックスに酔っ払い三人。その後は深夜のテトラポットの上。児山さんは言う。

「北村にはならないで。これだけは約束して」

「了解。約束する」


薫と旅行へ行った。十一月の箱根。ナルシストか。由佳利さんの取り巻きに言われた事をついつい思い出してしまい、それを軽いトラウマとして感じてしまう。


『君が、優れているクリエイターだとは思わない』

『技術はあるかもしれない。だけど、作ったものに心が無い。三流どころか四流だ』


確かにそうなのかもしれない。四流。優れていない。心が無い。薫の背中を愛おしく、見つめ、僕はため息を二つ、残した。


天邪鬼が一匹。今、僕は自転車で鎌倉を移動中。二十四時間営業中のコンビニ店員は寂しくはないのだろうか。動物は光に集まるもの。今日の空はきれい。雲、一つ無い。明日はいよいよ高木由佳利が媒体をジャックする。上唇をなめた僕は空をもう一度、見上げた。


企みは正解。彼女は確実に変わった。僕はこの現実を実家で観ている。彼女からメールが来る。電話が鳴る。一時間に二回の割合。至福の時を家族と共に過ごしている。薫からもメールが来る。桜井からも児山さんからも。親父は「たいしたもんだ」と大きな声で笑った。午前二時。テレビを見終わって由佳利さんと長電話。彼女が笑った。二人は大きな至福と複雑な日々に終止符を打った。


「お疲れさーん」

 児山さんの計らいもあり、店の中では、頑張ってくれた皆と飯を喰らい、酒を喰らい。二十人余りのスタッフは酔っ払い。桜井を口説こうとする奴や児山さんの写真を撮り、「俺、貴女をプロデュースしますよ」何て、おどける奴。そして、打ち上げの最後に皆でビール掛け。こんな日々がずっと続けば良いよな。すると、携帯電話が鳴った。薫からだった。

『もしもし、打ち上げ、楽しんでる』

『うん。すっごく、楽しんでるよ』

『ねえ、瑠璃君』

『どうした』

『私の事、好き』

僕は一旦、外へ出て、薫の声が震えている事を確認し始める。会話の中身は彼女のお父さんが僕に会いたがっている事。僕はその場しのぎで彼女をはぐらかす事しか出来ない。


 昨日の夜は眠れなかった。僕にとって結べる人は薫なのである。由佳利さんを愛する事はこれ以上出来ない。僕は結論を出した。薫を大事にすると。

新倉敷には僕を出迎えてくれる彼女が居た。彼女の為なら何でも出来る。軽自動車は、二人を乗せて将来へと少しずつ動き出して行った。


 岡村酒店。小さな店の中には薫の両親。彼女のお父さんから、小さな会釈を頂き、僕も頭を下げる。大きなリビングに案内してもらい、彼女のお母さんがお茶を入れてくれる。そして、お父さんが僕を鋭く見つめ、口を開いた。

「話は薫から聞いています。まだ、若いのに、凄く、仕事が出来ると」


 彼は薫の事も僕の事も責めずにいた。僕には決心した事がある。彼女とこれからを一緒に過ごして行く事。


「瑠璃君には家族以上に大事な人達が居るの」


 薫は僕が言えない事実を話し始めた。薫はどうにかして僕等の事を両親にわかってもらおうと言葉を探す。そして、お父さんは言われた。

「この娘は大きな失敗を何度かしている。わかった。どうやら、薫が瑠璃君の事を一途に想っている事に間違えはないようですね。この娘を幸せにしてやってください」


倉敷での二週間の休養。薫のお父さんともお母さんとも色々と話がふくらんで、僕も彼等も冗談を言える様にもなった。心から休めた日々になった。その後、HANABIで順調な同棲生活が始まり、桜井も児山さんも薫を歓迎してくれた。さて、仕事。深夜、パソコンを開けた僕は彼女に電話を掛ける事しか出来なかった。


『高木由佳利さん、自殺未遂』


どうして。一つ、繋がると、一つ、繋がらない。

「もう、わからない」

一言、僕が言うと、薫は言った。

「行ってあげなさい。これは瑠璃君の仕事なんだから」

「もう、わからない。もう、わからない」

「わかった。薫ちゃん、車、出してあげて」

 助手席に座り。唇を噛む。初めてだ。自らの手で死にたいと感じた。薫が僕の手を握る。

「僕、ただの格好付けだよな」

「そんな事、言わないで。瑠璃君しか彼女を支える人はいないのよ」

「やっと、彼女を忘れられたのに」

「私の言う事、たまには聞いて。由佳利さんは、まだ、瑠璃君を必要としてる。私は母親だから。彼女の気持ちが分かるから。今だけは彼女を想ってあげて」

 僕は彼女に何も言えない弱虫。僕は薫の優しさに応える事が出来ない。


毒薬と睡眠薬を一気に飲み込んだ彼女は自宅近辺を徘徊し全裸で倒れていたとの事。病室に通され、変わり果てた彼女を知る。顔色は青白く手首に巻かれた包帯。薫は彼女の右手を強く握った。僕は震える事しか出来ない。医師が来る。焦るのは僕。病室に運ばれた由佳利さんは僕の名前と自分の名前だけを叫び、苦しんでいたのだと云う。

彼女はこの日から五日に渡り眠り続ける。眠りから覚めた彼女は鏡と自分の写真しか見ない。会話が出来るようにはなってはくれない。医師と薬では治らない病。どうする事も出来ない。病院の廊下を下を向いて歩く。狂っている。何もかもが。僕が全てを狂わせたんだ。


「武田瑠璃さんですね」

男はナイフを持ち僕の腹を刺そうとする。僕は必死に彼の抵抗を押さえる。

「お前は高木由佳利を駄目にした。お前みたいな奴は死ね」

「もう、死んでんだよ」

彼は警備員と看護師に担がれる。

「絶対、お前を殺してやる」

男は、けたたましく声を狂わせる。コーヒーが床に落ち、もう一度、八十円を投入。僕には家族がいる。そして、高木由佳利。二つは選べない。今の僕に何が出来る。また、ごまかして、由佳利さんを一時の安堵に導く事なのか。


十二月十七日。黒いコートに身を包む僕は、色々な重たいものを色々と背負ってしまう。彼女の病室へと向かう。彼女の話題を報じるテレビを消してしまう。何の為に今までやってきたのだろう。

彼女が起き上がる。そして、言った。

「私、何してたんだっけ」

「ちょっと、疲れてただけ」

「そっか。瑠璃君と薫ちゃんが助けてくれたんだよね。途切れ途切れだけど記憶があるの。私なら、もう、大丈夫だから薫ちゃんの側にいてあげなよ。瑠璃君は医者でも看護師でもないんだから」

「僕の最後の仕事はまだ、終わってないんだ」


 雪の無い十二月。僕は彼女の隣で横になった。今、出来る事。それは素直に彼女を受け入れる事。僕等は色々と話した。悲劇的な人間でありたいのか、喜劇的な人間でありたいのか。考えて物事に接する事。考えなくて済ませてしまう事。ただ、単純に楽しければいいのか。楽しみを見つける為に苦労する事も必要なのか。

「ねえ、何所かへ行こうよ」

そう切り出した彼女は、もう、高木由佳利ではないのだ。二人は病室から抜け出す。階段を下りて、外へ飛び出した。そして、自転車を一台、失敬した。僕は夢中で自転車をこいだ。後ろに座る彼女はいつもの彼女らしい笑顔に戻った。

良し。財布に五万円。僕等はタクシーの中で抱き合った。彼女は大袈裟に笑って言う。

「クリスマスより、ましだね」

「そりゃ、言えるかも」

由比ヶ浜。ここには僕等以外、誰もいない。楽しさも喜びも少しずつ、終わっていく。そして、十二時をまたぐと淋しさが込み上げてきた。彼女は笑顔の涙。

「私、武田瑠璃になっちゃったよ」

二人は温もりを探してしまう。少しずつ唇と唇が近づき、長いキスを交わした。そして二人は携帯電話を海へとふわふわきれいに投げた。僕等は、もう、言葉を必要とはしなかった。こうして僕と高木由佳利と高木由希の時間は終わった。



あれから、一週間が過ぎた。もう、悩む事はない。踏み切りを通過。携帯電話のない生活にも慣れてきた。夕日がきれい。彼女はきっと、どこかで笑顔なのだろうな。僕には、よく、わかる。

ジュゼッペも元気。鎌倉へと帰る。次の仕事はバイクメーカーのラジオCM。ラジオは初めてだな。浮かばないから走ったのだけれど、やっぱり、何も浮かんでこない。リモコン型のぬいぐるみを薫へのクリスマスプレゼントに選んで、約束の指輪も買った。鎌倉は雪が降りはじめ、僕はよろよろと行く。自宅に到着。児山さんと桜井がお出迎え。


二人の部屋に入る。薫は「お疲れさん」と僕にキスをした。彼女の失敗は二度と無い。キスの本来の意味を知る。

僕等がはしゃいでいると、桜井が来た。何だろう。

「瑠璃、お客さんよ」

薫と玄関まで下りる。そこにはランドセルを背負った女の子が一人。笑顔であって、上機嫌であって。

「お譲ちゃん、どうしたの」

「あなたが武田瑠璃さんで、横にいるのが、彼女の薫さん。それで、児山さんと桜井さん。二人のお姉さん達の関係は、少し複雑」

「何で僕等の事を知ってるの」

「何でも知ってるよ。私、パソコン、強いんだ。ここの皆の事を書いてあるページがあって」

「そっか。それで僕等に何か用かな」

「私をプロデュースしてください」

「お譲ちゃん、ごめんね。僕等、そういう事は出来ないんだ。本当にごめんね。気持ちはありがたいんだけど…」

桜井の電話が鳴って、僕等の勘違いが解ける。彼女はタレント何だ。メールからも指示が来た。

「ごめんごめん。勘違いしてた。お譲ちゃんはタレントさんなんだね。わかった。それじゃ、身分証明書あるかな。児童手帳か何かある」

 女の子は嬉しそうに笑ってランドセルを開けて、赤色の手帳を僕に「はい」と元気に手渡した。

「えーっと、桜山小学校、五年三組…」

僕はここでつまる。手帳を囲む、四人。

「桜山小学校、五年三組、高木由佳利、高木由佳利ちゃんだね」

「はい。私の夢は高木由佳利さんみたいな素敵な女性になる事と武田瑠璃さんを一流のクリエイターにする事です」



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