一節
私はただ一匹の子鬼であった。
薄汚れた緑の肌に、額を割る様に生える短角。貧弱で、知性も薄い、繁殖力のみがずば抜けた最弱なる鬼の一匹だった。
産まれて、季節が何度か巡った頃には同じ頃に産まれた兄弟は2、3匹残っているだけで、それ以外は土に返り、更に上の代などは寿命や病死、当然のような弱肉強食を前に淘汰されている。それでも集団としての総数は増え、それと同時に守るべき存在も増えていった。
守るものが増える度に守る力を持つ者は減り、負担は次第に耐え難い程に肩にのしかかってくる。
守るべき者が力を得る度に私は侮られ、下剋上を夢見る者に現実の厳しさを教え、そして私は現実に負けぬ厳しさで彼等を鍛え上げていく。
いつしか私は長と呼ばれるようになり、私は彼等を守る為に安全を第一に行動する事の重要性を理解した。なにせ我々は弱い。力もなければ知恵もない、成長しようにも伸びしろもない。
だから我々は戦闘に重きを置くよりも、人間の行動を真似る事で、食料の確保を優先させた。
試行錯誤の末に得た赤の実を子が美味そうに食べる姿に、私は、──妙に感動したものだった。
──そんなある日の事だ。
私達の集団は気が付けば有名になりすぎた。力がないが生産力のある集落として、魔物達の中では地味に知られていたらしい。
その生産力を目に着けた別の鬼の集落から、身の安全と引き換えに合併の提案をされた際、私を含める老鬼以外の子鬼達は反対し、──そして長であった私は、自分達の非力さの証明の為に戦闘による決闘をする羽目になった。
相手は私よりも強大な力を持つ鬼であり、巨大にして俊敏、強靭でありながらどこまでもしなやかな肉を誇る赤銅の大鬼で、振るわれた鉈の斬撃は、たやすく愛用していた錆びた剣を叩き割り、僅かに回避が遅れていれば身体が両断されていたのは間違いがない。
それから暫く回避を繰り返し、攻め手のない私と、決め手のない大鬼との戦いは、誰にも聞こえないよう声を潜めた密談により、こっそりと決着が付く事となる。
分かり易く言うのなら、私は彼らの武力を当てにしたい。そして大鬼も自らの仲間の為に生産力を手に入れたい。
だから私は大鬼の攻撃を一撃だけ、わざと受け、大鬼は私を殺さないように精一杯の手加減をして勝負を決着させた。──その時はうまくいくと思っていたんだが。
決着により合併が決まり、大鬼を長とした新たなる集落の中で、私は、私が長を務めていた集落の若者達に責められた。何故わざと負けたのかと。
若者達は知っているのだ。私は逃げる事に関してのみは誰よりも上手い事に。──まあ、そのおかげで8年もの歳月を生き残る事ができた。
生き残るのに一番必要なのは逃げ足だと私は誰よりも理解していたのだ、本能的に。
だが、そんな私が大振りの一撃を受けて倒れた姿は集落の若者達からすれば本当にあからさまに怪しい物で、おまけに大鬼の一撃を受けたと言うのに怪我は利き腕が千切れただけで、大鬼の一撃を受けて生きている事から疑われていたらしい。まあ、あの威力を見て私が無事なのを見ると違和感しかないだろうな。
怒りで目を輝かせる彼等に、私は、──私は嘘が吐けなかった。吐きたくなかった。
若者達は私を追い出そうと動いている事を理解していたし、何より一部の身内以外からは殺意にも似た敵意を向けられているのにも気が付いていた。自分達が長年足掻いて得た物を簡単に手渡した私を許す事が出来なかったのだろう。良くも悪くも我々は単純な種族だからな、悩むよりも感情に身を任せるのが我々の流儀だ。
だが、それでも私は間違えたとは思わない。
大鬼の集落の武力はすさまじい。それこそ、我々を武力で鎮圧し、奴隷として働かせる方が容易であるほどに。けれども大鬼はそれを良しとはせず、真正面からの交渉で解決しようとしてくれたのだ。それは我々に対する譲歩であり、同時に我々に対する敬意だったのだろう。──大鬼はどうにも暴力的な解決法を楽しんでいたが、同時にそれに頼らずに生活する我々に対して真摯に向き合っていた。
だが、感情に身を任せた若者達にはそれが横暴に見えたのだろう。そして私はそれに屈した情けなく、同時に裏切り者だ。
それからは早かった。
私は気が付けば全身に傷を負ったまま、集落とは遠く離れた川の傍に捨てられていた。
仲間はおらず、武器もない。長としての年月は最早意味がなく、育て上げた野菜や家畜は私の物ではなくなった。五体不満足である私だが、──それでも、若干の虚しさ以外に感じる物はなかった。
私は、守りたい物を守る選択をした。次の長となりうる子鬼の教育も終えている。アレは必ず大鬼のよき理解者となれる、と信じたい。
ならば老兵はもう消えるべきだったのだ。此処にいるのは腕を無くしたただの子鬼に過ぎない。
──私は今、誰よりも孤独で、誰よりもむなしい、けれど自由な子鬼へと戻れたのだ。