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浮舟其の四

 

 いつの間にか一月も下旬にさしかかろうとしていた。私は武川病院に入院している父の見舞いに向かった。生と死の絡み合う独特の雰囲気と、苦い薬品の匂いが子供の頃から苦手だった。私の父は十年前、医療事故に遭い、脳に重大な後遺症を残し、十年以上も病院のベッドに寝たきりとなっている。父のいない生活、奪われた日常、あれ以来、必死で母を支えようと自分を律し続けてきたが、皮肉にも心が崩壊し、鬱病になりかけた。複雑骨折した心の痛みに耐えながら、母を支えようとしたのが仇となったのか、ある時、気づくと私は手首を切ろうと包丁を手首に当てていた。あれから何とかしようと自分で精神科医の厄介になっていたが、抗鬱剤のコンスタンを処方されただけだった。リストカットに対する欲望はそれで消えたものの、心は依然としてポキンと真っ二つに折れたままだった。人間何にでも慣れるというが、やがては心の痛みすら感じなくなっていた。そんなある日のこと、母親が私の事情にも対応した別の精神科医を探していた。父親のことか、と、思っていたら、私の治療のためだった。母を支えようとしてきた私がなぜ、その母の手を煩わせてしまうのだろう。ただただ、情けなかった。そんな、これ以上ないほどの苦い傷跡が、私には、この病院の薬の臭いには、今なお存在する。

 父は相変わらず、しまりのない顔をして寝ているだけだった。十年前のまま、時が止まってしまったかのように動かない父。ただ、薄くなっていく髪だけが、年月をかろうじて留めていた。亡くなる一年前の年老いた母に仕打ちとも言えるような脳障害の現実。脳障害の父を最期まで案じながら亡くなっていった父の母、私の祖母。

 私の父のことも案じながら、知らず知らずのうちに精神を病んでしまった私のことまで気にかける母。母親と言う存在は私には今だって不可解な存在だ。いつか、自分も子どもを産んだら、少しは母の境地が理解できるのだろうか。

 ここにくると、いろんなことがいつも脳裏をよぎってしまう。そう言われた中で頼子は、あの人も聞けば息子がいる。私の知る限り、私の知っている母親像とは、随分かけ離れていたように思えた。あの人の息子も、罪の意識に苛まれながら、私のように必死で母を支えようとしたのだろうか。いや、今でも、そうし続けているのだろうか。

「この前宇治川に飛び込んだおばあさん、たしか山ノ下病院に運ばれたそうですよね。」

 聞こえてきたのは看護婦の何気ない会話。その会話に聞き耳を立てた刹那、私には、患者の呼吸音も、苦い薬の臭いも届いていなかった。宇治川に飛び込んだおばあさん、というのは、言うまでもなく頼子、あの人のことだろう。私はさらに聞き耳を立て、看護婦の話す一言一句に注意深く耳を傾けた。

「あぁ、あの宇治川に飛び込んだ?確か、大谷頼子さん、だったっけ?息子さんがお友達を轢いてしまったとか。」

「そうそう。名前は正確には覚えてないけど、確かそんな名前、でも、助かって何よりよね。」

「そうね。」

 それだけの短い会話で、看護婦達は仕事に戻っていった。あの人は山ノ下病院にいるのか。安心と疑念とが複雑に交じり合う。私はあの人がどこで、どうしているのか、今すぐにでも知りたい衝動に駆られた。

 あの人は。

 私を恨んでいるだろうか。

 恨んでいるなら、恨んでいると言って。

 それが、

 貴女の、

 心を救うと言うのなら。

 

 君の悪い癖だ、と、旧友ともだちは苦言するかもしれないが。

 

 私は病院を後にし、山ノ下病院に自転車を向け、風を切った。車の列も、聳え立つ団地も今は、目に入ることなく、スピードを上げていく。山ノ下病院ならここから目と鼻の先だ。私の頭はあの人のことだけで満たされていた。母が見たら、何をやっているんだ、と、こちらも苦言しそうだが、それも今はかまわなかった。私はただ、坂道を駆け上がり、病院の自動ドアを開ききる前にすり抜けた。ドアをすり抜けた左手にあった総合受付で、

「すみません、大谷頼子さんの見舞いに来たものですが、病室はどちらでしょうか。」

 と、尋ねた。

「大谷頼子さんですね、少々お待ちください。」受付の若い女性事務員は頼子の病室を調べ始めた。五分ほどして、

「お待たせしました。大谷頼子さんは五階二号室です。」

 と、丁寧に返した。

「そうですか。ありがとうございました。」

 軽く一礼し、五階へエレベーターで上った。案内図を頼りに二号室を探した。この病院は父の入院している病院と違って薬品の臭いが抑えられていて、幾分居心地が良い。突き当たり手前が二号室だ。わずかに開けられたドアの隙間から、老女のすすり泣きが聞こえた。

 

 あの日と同じ光景が、そこに広がっていた。

 

 頼子は病室で泣き崩れていた。

 

 あの日と同じ、あの人が、そこにいた。

 

 覗き見とは何時の時代も趣味の悪いものだが、そんなこと今の私には言ってられなかった。息を殺し、部屋の中の様子を伺う。頼子は人が覗いていることにも気づかず、おんおんと泣いていた。担当している看護婦と医者が困り果てている様子が覗いているだけでも伺い知れた。覗いているこの瞬間は、怖いような、楽しいような、ジェットコースターでも味わえないスリルだった。

「誰かいるのかい。」

 ドアの辺りから人の気配を感じ取ったらしい医者がこちらに視線を向けた。まずい、視線が合ってしまった。医者がこちらに近寄ってくる。私の背中を冷や汗が一筋、たらりと、通った。今まで社会の規範に従うことだけを考えてきた私、それから逸脱することを許すまじとしてきた私だった。だが、今の私は完全にそれから逸脱している。社会から逸脱するのは、実はとっても簡単なことだったのだ。私はきっ、と目を瞑った。

 恐る恐る目を開けてみると、ドアを開けた医者と視線がかち合った。髪を五分に分けた、四十前後の医者だった。

「お見舞いの方ですか。」

「あ、はい、福沢です。福沢亜弓。」

 勢いあまって名を名乗る私。傍から見れば、本当にどうかしている。しかし、医者はそんなことにかまう様子はなかった。

「福沢さん、ですか。お見舞いでしたらどうぞ。面会時間は夜の八時までですから。」

 返ってきたのはごく普通の事務的な返事。拍子抜けしてしまった。ほとんど付き合いもないのに手ぶらで見舞いに来るとは、なんとも格好つかないが、すぐに切り替え、私はすすり泣く頼子のもとへと足音を殺しながら近寄った。

「あ、あの。」

 声をかけると、頼子は泣くのを止め、私をまじまじと見ていた。青い入院着を来た頼子の腕は骨だけしかないくらいに細く、顔は前に会った時よりかは幾分ふくよかになったものの、やはりやせこけていた。

「さっきからこの調子なんですよ。あなた、頼子さんとお知り合いですか。」

「え、えぇ、そうです、ね。」

 救いの手とでも言わんばかりの若い看護婦の質問に私は歯切れ悪く答えた。

「家を売り払ったり、いろいろ苦労したのでしょうね。」

 と、表面的に同情するような口を利きながら私に会釈し、看護婦は退室した。なんだか頼子がますます気の毒に見えて仕方がない。一体彼女が何をしたと言うのか。頼子の爬虫類のような目とかち合ったが、頼子は何も言わない。一体何の報いで彼女はこんな形で愛する人を二人も失わなければならなかったのか。頼子の爬虫類のような目とかち合っていたが、頼子は何も言わない。とはいえ、じっと私を見ている中、私はなんと声をかければよいものか、思案に暮れていた。光源氏なら、薫なら、匂宮なら、なんと切り出すだろう。紫式部なら、清少納言なら、どんな歌にするだろう。私の脳内はめまぐるしく駆け巡っていくが、一向に適当な言葉の一つも浮かんでこない。

 その上、頼子はただ、私を見ているだけで何も言わない。よく見れば、その目は虚ろで、私が見えているのかさえ、定かではないようだ。輝きを失った黒水晶、虚しく移る殺風景な病室の白い箱。私は今、どのように映っているのだろうか。頼子の目には言葉も感情もない。

「あ、あの、私がわかりますか。」

 私は私を指で差しながら、ゆっくり尋ねた。しかし、頼子は何も答えない。聞こえていないのか、と、ため息一つ、小さく零すと、

「お、お嬢さん、なぜここに。」

 と、口を開いた。壊れた一昔前のロボットのように。

「このご時世、変な話かもしれないですけど、頼子さんが救出されたのが新聞に載ってて、たまたま別の病院でここに入院してると聞いたんですよ。それで、少し、気になったので、来ました。」

「そう。」

 感動の薄い返事だった。私はまたため息を一つ零した。そんなにため息つくと、幸せが逃げるよ、と、また苦言されそうだったが、仕方ないだろう、この状況。

「それで、その、少しは落ち着きましたか。」

「落ち着いたというよりは、今まで何をそんなに執着していたのだろうか、と、急に思えてきてしまったの。あの人のこと、夫のことと走馬灯のように夢の中に出てきて、疲れて目が覚めて、無性に悲しくて仕方なくて、それが過ぎ去れば、頭の中がひどくぼんやりして。そんなことを繰り返していたら、失った夫のことも、勇三さんのことも、全てが夢か幻のようで、どれだけ自分が執着していたか、たっぷりと思い知らされたわ。そうしたら不思議なものね、勇三さんを轢いてしまった息子のことも自然と受け入れられるようになってきたの。」

 頼子という肉体から、余計なものがそぎ落とされ、何物にも染まらない、研ぎ澄まされた雰囲気が言葉を紡ぐ頼子からひしひしと感じられる。泣いていたのは、そぎ落とされていく過程の中で、それらと別れを告げていたためだったのかもしれない。いくら学を重ねても、すべては誰にもわからない。むしろ、余計なものは捨ててしまったほうが、何かが明瞭になる。そのことに言葉なく気づかせた頼子に、

「そう、ですか。」

 と、答えるしかなかった。

 しかし、

「貴女は不思議な人ですね。」

 私は切り出した。

「私は年をとった人をある意味見くびっていました。年を取った人ならこんなに人を愛することなどできないと、先入観から見ていました。でも、貴女は栗生勇三さんを誰よりも強く愛した。そのことだけは紛れもない事実でしょう。結果としてこのようなことになってしまい、難しいことかもしれないし、私みたいな他人よその若造が言うのも不謹慎なのかもしれないけど、好きだと思った気持ちに誇りを持っていいじゃないですか。」

「それが、貴女の答えなの?」

 頼子の目が一段と見開かれた。

「え、ええ、そうです。」

 頼子の思わぬ返答に一瞬怯んだ。だが私はすぐに切り替え、毅然と答えた。自分の人生の三倍以上を生きてきた人だけど、私は私の人生を頼子にぶつけた。

 いつだって憂き世だ。

 この世は地獄だ。

 この世界は穢れている。

 私も何度そのことを嘆いたか、わからないほどだ。この世は剛健そのものと信じてやまなかった私の心でさえへし折ってしまう。私の場合、自業自得なのかもしれないが、今だって心のどこかではそう感じている。鬱の痛みは今だって残っている。それでも、

 

 私達はこの世界の生き物だ。

 

「ありがとう、あなたは強いのね。この先いろんなことがあるかもしれないけど、あなたならどんなことでもきっと、きっと大丈夫よ。」

 ようやく見せた頼子の笑顔。その顔は無邪気で、穢れ一つ知らない少女のようだった。私は頼子に、人生の先輩としての一面と無垢な少女の面影を見た。

 

 退院後、頼子は山科の寺で出家したという。頼子は今、山科の里で静かに第二の人生を踏み出した。私は知らなかったが、入院中からそのお寺の経典を熱心に読んでいたらしい。あの人の姿は今はもう見ていないけど、それだけで私は随分と心穏やかになっていることに気がついた。千年の昔、きっと浮舟もあの人と同じ風景を見たのかもしれない。

 

 運命と言う名の激流に翻弄され、私は宇治の早瀬に思いを捧げた。宇治の早瀬の先に広がっていた仏の世界で、わたくしはしめやかに生きています。

 

 書き出した、最初の一行。苦に惑う我らに救いを。新たな世界へ繋がる川よ、今ここに。私は空を見上げた。冷たい空気は今日も宇治川に冴え渡る。


皆さんこんにちは。2008年一作目です。


私は歴史が好きで、しかも今年は『源氏物語』千年紀と言うことで、インスパイア小説を書きました。

皆さんの感想、お待ちしています。

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