浮舟其の三
頼子は二十分ほどして、一キロ下ったところで救出され、病院に搬送された。どこの病院に搬送されたとまではわからなかったが、何も知らない衆生(‐ひと‐)はこの記事に安堵するだろう。しかし、私はあの人が、どんな風景を見ているのか、どんな想いをしているのか、そればかりが気がかりだった。ただ、愛を重ねた。それだけで悲劇に翻弄された人。あの人にいったい、何の罪があったのだろうか。法律上、死別しているのだから、他の人と愛を交わしたところで基本的には問題はないはずだ。また、女の姿が脳裏をよぎる。前と同じ、紫の十二単に、果てなく長い黒髪、煌びやかな扇に隠した白い顔。男の姿も見えた。橙の束帯に、黒い烏帽子、そして女と同じ白い顔。男の名はニオウノミヤと言っていた。ニオウノミヤ、におうのみや、匂宮!『源氏物語』宇治十帖の匂宮だ。女の名はうきふね。「浮舟」と、名乗っている。憂き世を彷徨う小さな小舟に自らを喩えた浮舟の名。薫と偽って交わされた契りはやがて浮舟を蝕んでいく。苦悩の果てに、浮舟は宇治川に身を投げようと失踪する。私が見たのは、行方をくらました浮舟の姿だった。私の脳裏を掠めたのは、現場のそばにある近くの博物館で見た、あの浮舟の姿だった。紫を基調とした十二単、白い顔に生える細い眉、地面をも這う黒髪。大胆で、奔放な、愛という名の、運命という名の嵐に溺れ、世を儚んだその様はまさに、頼子とぴたりと重なる。
浮舟よ、あなたと同じような境遇の彼女が、千年後のこの宇治の里にいる。あなたには彼女がどう映るのか。私は、不意に聞いてみたくなった。
辺りは既に真っ暗な闇に支配されていた。ガレージを照らす無機質なオレンジのライト。私はただいま、も言わず、家の鍵を開け、中に入り、カバンをどさっと置く。
「あら、お帰り。」
家の台所では母が鍋物の支度をしていた。
「えっ、もうそんな時間?」
時計を見ると既に七時は軽く回っていた。母は病院でパートの看護師をしているので、夕飯はいつも八時頃になる。再び視線を台所に向ければ、電磁コンロに据えられた大きな鍋からふつふつと湯気が立っている。今日の夕飯はどうやら鍋らしい。調理場には白菜、ねぎ、うどん、水菜、豆腐、薄切り豚肉のかたまりが行儀よく鍋用のザルに盛り付けられている。この時期の夕飯では定番だ。
「う〜ん、ちょっと豆板醤入れすぎたかしらねぇ…。」
今夜は口の中がバックドラフト状態になること間違いなし。調理中の母に
「洗濯、干しといたよ、残り湯で。」
「あ、ありがと!助かるわ!」
の、いつもの返事。言いはしないが、この家の洗濯物はホントにすぐ溜まる。冬場は決して乾きはよいわけじゃないんだから、もう少し考えて出して欲しい。母にそう目で訴えて、私は二階の自分の部屋に上がり、パソコンを立ち上げた。インターネットに映る、数々のゲームから派生した短いファンフィクション、ポップなイラストが大好きで、いつも眺めてしまう。学生時代はこれを眺めるだけで一日時間を潰したこともあったっけ。最初はインターネットに夢中になっていたけど、そのうちいつしか、インターネットで出会った小説に私ははまっていった。インターネットはツールに過ぎない。だが私にとっては欠かせない。いつしか私はこうした短いファンフィクションがきっかけではあったけど、徐々に物語の世界へとはまっていったのだった。ファンフィクションと言えども表現力はなかなか。引き込まれてしまう。
家を建て替える都合上、私は去年の一月末から六月の頭にかけて、古いマンションで暮らしていた。傷んで波打つ畳に隙間風、くすんだ壁に部屋全体から漂ってくる強い生活臭。妹や母には不評だったが、私はまんざらでもなかった。これでネットさえあれば、それこそ暮らしていけそうだった。ただ我が家の家具、家電がこのマンションには合わず、常に不協和音を奏でている、奇妙な状態だった。この家の唯一の不満といえば、インターネットが使えないこと。私はネットができない不便さに耐えかねて、すぐ近くのネットカフェに足繁く出入りしていた。「オタクの隠れ家」と言うネットカフェは至極快適だった。そんな私のネット中毒はけっこう重症。韓国の誰かさんみたいに二十時間もネットして死にたくはないが、ネットカフェに出入りしていたのは秘密基地みたいで、楽しかった。
家が完成し、ネットカフェに行くことはほとんどなくなったけど、今もネット小説ブームは衰えていない。今日読んでるファンフィクションはいつだって私の目を楽しませる。でも、書くならやっぱりオリジナルがいいよな。というのが、私のポリシー。でもまだ、書くに至らない。
あ
今日会った、あの女性、頼子って、言う名前の人だったっけ。
あの人は、どうなっただろう。ふと、気になり、宙を眺めた。真新しい青白の壁が私の視界を染める。聞けば頼子は一キロ流されたが、何とか助かって、どこかの病院に搬送されたらしい。
はぁ、と、小さくため息をついた。
プーッ
家の内線で妹が私を呼んだ。部屋にまで届く無機質な音。まったく空気を読まないヤツ。
「はいはい、今降りますって。」
声に少し怒気を混ぜながら、いつもの調子で階段を駆け下りた。テーブルの上に鍋がもうもうと湯気を立て、白い食器が並べられていくのを呆然と見ていた。
「何ボーッとしてんの?はよ手伝って!」
耳にキンキン響く中学生の妹の声に二つ返事しつつも、私は箸を並べ、食卓についた。テレビからはくだらないバラエティが流れている。十数年前、この家にはなかった落ち着きがすっかり取り戻されていた。いつからこんな生活が当たり前になったのだろうか。十年前には考えられなかった、落ち着いた暮らし。
それでも、今は、白菜を口に運ぶことだけしかできなかった。
その晩、ベッドの中、私の頭の中を頼子のことがめまぐるしく駆け巡った。今日一日、まるで激流を下ったかのような一日だった。轟々と流れる宇治川に身を投げた年老いた女。恋した男が息子の手により殺された。私の理解を超えた運命の、性質の悪すぎる悪戯。頼子に何一つ、慰めの言葉もかけてやれなかった。ただ、目の前で起こった出来事の凄まじい激流に呑みこまれ、私の喉は何ももってしても震えなくなっていた。私は、あの人に、何をしてやれただろうか。浮舟のごとく、世の全てを憂う女性。世の悲しみと無常に翻弄された女性。私はただ、無力だった。