浮舟其の二
老女の話によるとこうである。名は大谷頼子と言い、夫は一年前、七十五歳で他界した。その悲しみを拭いたくて、日々夫を思いながら過ごしていたある日、地元の資産家の男と出会ったという。地元では名の通った栗生財団の会長で、独身。名を栗生勇三といった。
出逢ったきっかけはJR宇治駅の前を通ろうとした時、大理石に足を滑らせた。あわや転倒、危機一髪というところを間一髪で抱きとめて、救出した、その相手こそ栗生だった。
「あっ。」
老女の足が絡み、あわや前方に転ぶところだった。七十を過ぎたのだから、尻餅一つでどうなるかわかったものじゃない。転ぶと確信し、きっと目を瞑った瞬間、
「大丈夫ですか。」
あぁ、ここは夢か幻か。いつまで経っても地面にぶつかる感触がない。はっと目を開けると、男性の手が老女の体を抱きとめていた。男は身長百七十センチに届くか届かないかくらいで、少し痩せていた。品のよいスーツに、顔はきちんとひげを剃っている。その清廉とした印象はとても若く見えるが、白髪と目元に刻まれた皺から五十代半ばぐらいに見えた。
「あ、はい。」
「この辺りは滑りやすいですからね。気をつけたほうがいいですよ。」
「あ、ありがとうございます。何とお礼を言っていいのか。」
「気にすることありませんよ。一応、こういう者ですが。」
と、名刺を差し出す。互いに警戒しながらすれ違うのが普通となったこの時代には珍しい、オープンな男だった。渡された一枚の名刺にはこう書かれていた。
(財)栗生財団 会長
栗生勇三
「くりゅうゆうぞう?栗生財団って、あの有名な。」
「えぇ。中小工場関係の融資や支援を中心にやっています。」
「そうですか。私は大谷です。大谷頼子。」
「大谷さん、ですか。またどこかでお会いできるといいですね。」
栗生は急いでいたのか、その場を立ち去ろうとした。その刹那、
「あ、あの。」
「何か。」
「いえ、失礼しました。」
頼子は栗生に気づかれないようにと、小さくため息をついた。これが二人の出会いだという。
「栗生さんと出逢って、それから、どうなったんですか。」
私は問うた。頼子は小さくため息をついた。私は早く続きを知りたい苛々と必死で闘いながら、静かに続きを待った。
「それから何度かお話をして、何度か逢瀬を重ねました。本当に素敵な方で。」
頼子はしみじみ空を眺めた。語尾のほうは震えていた。世にいうところの紳士なのだろう。私はふぅっと、空を見上げ、栗生のイメージを描いた。
夫の喪が明けないうちから、栗生と逢瀬を重ね、互いに惹かれていった。頼子の服装は派手になり、久しくしていなかった化粧もするようになった。しばらくはなんてことのない普通のデートだった。喫茶店でコーヒーを飲んだり、宇治の里を一緒に歩いて、桜を楽しんだり。
「栗生さんは桜がお好きなのですね。」
「京の市中の桜は人が多すぎてね。この宇治の桜もまたいいものですよ。」
とにこやかな栗生。宇治の早瀬の轟音にしばし苛まされながらも、毎年美しく咲く桜。それを眺めながらのコーヒーは格別なものだったという。若くて、仕事をしていれば尚更だろうが、老人というのは時間にゆとりがあるように、私には感じられた。喫茶店で桜を見ながらのデートとはなかなか粋なものではないか。そう考えるだけで、今年の桜は違う境地で眺められそうな気さえした。
「ご主人、お亡くなりになられたのですか。」
「はい、先日。」
「そうですか、それはお気の毒に。とても、仲がよろしかったようですね。」
「はい。」
頼子には、そう答えることしかできなかった。栗生に頼子がどう見えただろう。この時点から少しずつ、いとおしく見えたのだろうか。視線が切なく絡み合う。
「店を出たら、宇治川でも眺めますか。」
「そうですね。」
外に出ると、満開の桜に桜吹雪が、空気を桃色に染めていた。蒼い宇治川によく映えている。
「きれい、ですね。」
「ここから見る桜はいつも綺麗ですよ。」
そう答える栗生の横顔はいつ見ても神秘的だった。逢瀬や付き合いを重ねるうちに、その神秘性はますます深められていく。頼子自身もこんなにも人をいとおしいと思ったこと、五十年以来なかった。栗生の存在は夫のいない心を埋めていく。魅せられた頼子は思わず漏らした。
「あなたは不思議な方ですね。」
「そうですか。あなたのほうこそ。」
それとなく寄り添った二つの手。二人の手が初めて絡まった。
そして、二人はそっと寄り添った。春風に温もった身体が心地よい。こんな心地は五十年と久しかった。夫とこうしたことはないわけではもちろんなかったが、随分遠い昔に感じられた。
「頼子さん。」
「はい。」
「桜、きれいですよ。」
「えぇ。」
金箔をちりばめたように輝く蒼い宇治川に、朱い橋、生命萌ゆる翠の山々。雲ひとつない水色の空に映える桜、花吹雪。そこはまさに、二人だけの穢れなき世界だった。
出会ってから半年以上経った夜の晩のこと。ついに、しわがれた唇が、裸の胸が、体が、黒い蜜の中重なり合う。それだけで私の想像を遥かに超えた境地だった。いけない、あぶない、禁断の漆黒。想像するだけで体中を電気椅子も顔負けの、凄まじい電撃が駆け巡る。新春早々、このような境地を味わうことになるとは、正直、思ってもいないことだった。なんと奔放で大胆な光景だろう!私の頭は、体は、突然の電撃に麻痺してしまった。
「もちろん先立たれた夫のことも忘れられるはずがありません。でも私は、勇三さんの想いを嬉しく思いました。このような身分でこのようなことを、とは、思いながらも、次第に、次第にそういったことを思っていたことすら、忘れていきました。」
老人同士と、侮ることはできないものだ。愛を交わすことは何時の年齢になってもできるものである。新春早々得た教訓がこれというのも、若い私には新鮮なことなのかもしれない。
だが、それからまもなく、悲劇が起こった。
栗生は頼子の息子が運転する車に撥ねられ、死亡した。
そのため財団のほうも大パニックになった。これに怒った家族が頼子に、息子に多額の慰謝料を請求し、裁判でもその慰謝料請求が通ったのだった。
「この泥棒猫!すべてあんたのせいよ!」
頼子にそれをぶつけるのはいささか筋違いに映るかもしれない。そうだというのに頼子は、その理不尽な罵声を何度浴びたかわからなかった。頼子はそれを支払うために、夫と住み慣れた家をも売り払うことになったのだった。慰謝料は何とか支払い、息子に家に同居するよう声をかけられているが、住み心地は最悪だった。あまつさえ夫の遺影も居心地悪そうにたたずんでいる。遺影に映る夫は、こんな頼子と息子をどう見ているだろうか。
以前ならこんなこと、想像すらしていなかった。夫以外の誰かを愛すること。その人が息子の手によって、死に至ること。別々の家で、それほど遠く離れることなく、頻繁に会ったりしていた。お互いごく当たり前の生活を営んでいた。それが、たった一人の男性の存在でこんなにも激しく、哀しいまでの変貌を遂げてしまった。息子との関係は悪化し、口すら利かない日が何ヶ月も続いた。家を売り払った今となっては息子の家に暮らすのが精一杯だったが、勇三を死なせた息子がどうしようもなく悲しくて、やり場がない。
ひとり淋しく、路地を放浪しながら感じたのは、すれ違う度に冷ややかに刺さる世間の人々の目。楽しそうに笑うカップルも、親子連れも、頼子の目には影にしか映らない。誰一人として、頼子に優しく声をかけよう者など、一人もいない。街頭のニュースに耳を傾ければ、食品の偽造やら不正やら、そんなニュースばかり。何もかもが煩わしく、哀しい。まさに、憂き世の海を漂う小舟、浮舟。彼女はまさに浮舟だ。
「私は勇三さんに惹かれていました。夫には申し訳ないとは思いつつも、勇三さんの想いは嬉しく、幸せだったのに、それも長くは続かなかった。あぁ、なんでこんなことになったのでしょう。」
そう言い残すと、老女は橋から早瀬の水底に身を差し出していた。その間のことはほんの一瞬で、私には止めさせる、と、考える間さえなかった。状況が飲み込めたときには既に、水しぶきの中からベレー帽がちゃぷちゃぷと漂っていた。周囲から、女性の黄色い悲鳴と、警察だ!救急車も呼べ!と、声高に叫ぶ男の声が幾重にも、ぐちゃぐちゃと交じり合う不協和音。
不意に私の脳裏にある女性の姿が映った。紫を上に重ねた十二単に白い肌に、どこまでも続きそうな黒髪の女が橋から宇治川を物憂いながら臨んでいた。
あぁ、あなたは、浮舟なのか。誰なんだ。
辺りに、霧が立ち込めた。
「どいてください。邪魔ですよ。」と、二十代後半と思われる警察官が私を掻き分けていた。我にかえると、宇治川にはいくつもの救命ボートが何艘も浮かび、頼子を探していた。辺りにはいつの間にか人だかりができていて、私にはあの人の話と今のこの展開になるまでの間の記憶がなかなか繋がらなかった。
「あ、失礼ですが、さっき伺った時に聞いたんですけど、あなた、飛び込んだお婆さんと話をしていたそうですね。」
「は、はい。」
「その時に何かおばあさんに変わったこととかなかったですか。」
いつの間に私があの人の関係者になったんだろうか。ただ、ついさっき知り合って、話を聞いた。それだけだった。
「さぁ、随分と大きな独り言だったから、気になって訳を聞いただけで、変わった様子とかどうこうって言われても、どうとも言えません。それに、飛び込むまでの間は一瞬だったので。」
と、だけ答えておいた。
「そうですか。これは失礼しました。」
警察官は一応非礼を詫びたが、とても本心から詫びているようには聞こえなかった。あの人は、あの女性は。早瀬の宇治川は何も答えず、ただ轟々とあらゆる憂きを飲み込みそうな水音をけたたましく立てていた。