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浮舟其の一

 

「この泥棒猫!」

 何度その言葉を聞いただろうか、もう指では数えられない。泥棒猫、という、甲高い声で投げつけられた言葉が槍のごとく胸をえぐる。

 

 なぜ

 どうして

 ただ

 誰かを

 好きになった

 それだけなのに。

 

 なぜ、このような目に遭わねばならないのか。モノクロームに霞んだ街を彷徨って、どのくらいの時間になるだろう。体も心から冷え、もう、歩く気力さえ残されていない。

 

 それならば、いっそ、

 

 老女は轟々たる早瀬の川へと引きつけられていった。

 

 

 

 

 

 新春に浮き立つ空気を掻き分けながら、慣れた住宅街をすり抜ける。空気こそ冷たいが、風は穏やかで、冬将軍到来のこの時期としてはいたって過ごしやすいほうだった。こんな日々がいつも続けばいいのに、と、いつも思う。春、夏こそ盛りの時で、人気のシーズンだが、私はどうもこの冷たい空気の中たたずむ方が性に合っている。冷たい空気を自転車で切れば、千切れた風が頬をなで、家々は千切れた風に溶けていく。意外と冬のこの季節も、自転車で走るには格好の季節である。冷たい空気は小説の題材に迷う私のイマジネーションをくすぐっては、過ぎ去っていく。

 宇治のこの街は道が狭く、路地裏のような道が入り組んでいて、まるで迷路だ。どのぐらい狭いかと言ったら、東京や大阪にあるような大通りの歩道を二車線で普通に走っているのだ。そんな状況だから、自転車で走る側も器用にならざるを得ない。歩行者、自転車、自動車が肩を分けながら、狭い道をすり抜ける。器用でなければ、この街では生きていけない。そんな私も中学時代に歩き慣れた道を自転車で狭い道を掻き分けながら辿る。見慣れた茶畑は姿を消し、代わりに外国のカントリーかぶれの家が新しい迷路を成していた。中学校に通っていたほんの十年前、この街もめまぐるしく姿を変えていき、ただでさえ政治や経済の流れに疎い私はもう完全に取り残されそうだ。中学時代に塗られた自衛隊駐屯地の壁画も今は無惨にくすんでいる。

 日の丸の掲げられた母校の門前で自転車を止めた。中学校を訪ねなくなってもう五年は経つだろうか。その間もこの中学校のたたずまいは変わっていない。しかし、校舎の見た目にこそ変わっていないが、当時の先生はもうほとんど転勤し、巷で見かけたと思ったら、しわや白髪が増えている。建物の外観にこそ現れていないが、やはり確実に年月の流れは押し寄せていた。

 十年も経てばそりゃ変わるよな。はぁ、と小さくため息と一緒に吐き出そうとしたが、すんでのところで喉を震えなかった。年末年始休暇ということもあって、この学校には今は、誰もいない。誰もいないと知りながらも、ただ、校舎を眺めていたかった。それだけなのに、どうしてこうもセンチメンタルになるのだろう。十年という卒業からの歳月が成せる、芸術なのかもしれない。

 私は自転車にまたがった。去年の五月に買ったばかりだというのに、既に車体の緑は色褪せている。京都大学宇治キャンバスの塀を横切りながら、車の列をすり抜けていった。変わり映えのないアパートの群れにコンビニがポツンと真新しく建っていた。眼下に広がるバイパスには車がひしめいていて、動く気配一つ見せていない。大型スーパーの横をさらにすり抜ければ、左手に電車が走り抜けていた。踏切を越えて、昔からこの場所にたたずんでいるスーパーや真新しくやってきたスーパーとが競り合う中を通り過ぎれば、辺りに漂う源氏の匂い。この街は『源氏物語』の舞台として名高い地区だ。瀬戸内寂聴が「千年経っても物語の雰囲気が残っている。」と、賞した宇治橋の景観。新興住宅街と呼ぶには歴史のある地区なのだろう。宇治橋から臨む朱い(あか)橋はいつの季節も早瀬の宇治川に映える。瀬戸内寂聴がこの街を愛でるのも、今なら少し、わかるかもしれない。何時しか私も、そんな年齢になっていた。

 

 がたん、ごとん。JRの列車が鉄橋を通り過ぎていった。

 

 宇治川に逆らって川沿いの奥に滑り込んでいく。この先を突き詰めれば、ダムがある。四十年以上の歳月に渡って、従来水害に苦しめられてきたこの街を大水から守っている。以前、このダムにかかる古い橋がきしむ上、車が平気で通るから、腰が抜けそうになったので、あれ以来一度もダムには近づいていない。昔よく、父と一緒に放流するところを間近から見たものだったが、今じゃそれも遠い思い出になっている。川沿いを少し進んだところに支流と本流がぶつかるポイントがあり、そこに、『源氏物語』の雰囲気を醸す、あの橋がかかっている。昔から、そこから下にそびえる激流を見下ろすのが好きだ。轟々と水の表情を刻一刻と変える様は引き込まれそうな美しさがある。そんな水の織り成す美しさに見入っていた。「人生とは、何だったのかしらね…。」しわがれた女性の声が水音をかき消すような存在感を放った。はっと振り向くと、ベレー帽を深くかぶり、老眼鏡をつけた老女がいた。見たところ、腰はそれほど曲がってはいない。

「どいつもこいつも、嘘と綺麗事ばかり。こんな世の中であの人に出会えたことが何より大きかったのに…。あぁ、こんなことなら私は…。」横でこんな意味深な言葉を呟かれたら、現代の若者として生きる私だって多かれ少なかれ気になる。とても独り言には聞こえず、むしろ、誰かに聞いてもらいたいかのような口だ。自分の三倍から四倍くらい長い人生を送ってきたと思われる女性だから、到底私には想像もつかない世界が、そこに広がっているのかもしれない。私はためらう喉に鞭を打って、言の葉を紡いだ。

「ど、どうか、したんですか。」

 老女はまじまじと私を見た。爬虫類のようにこけた目のまま、私から目を逸らさない。顔は疲労の色が色濃く皺を際立てている。その不気味な恐ろしさから、妖怪のようにも見えた。

 

 ごくり、と、喉が鳴った。

 

 老女の目から堰を切ったように涙が溢れ、

 

 突然、わっと泣き出した。

 

 私は、慌てふためいた。老人が泣くのを見るのは、これが生まれて初めてだった。こういう時に限って何時も、周囲の目は辛いものがある。誰かこの状況を何とかして欲しい。そんな私の訴えは道行く人々には伝わらない。

「あ、あの、落ち着いてください。どうなされたのですか。」

「私は…この年にもなってね…男性と、性を交わす仲になりました。」

 男とセックス。このことだけで頭の中は大地震に揺れ、雷が鳴り響き、大雨、洪水。何もかもが崩れ、洗い流されてしまった。今の私の頭の中には荒れた大地が閑散と広がるだけで、もうすっかり何も考えられない。私の中にあった知識は突然の災害に耐え切れなかった。

「な、何を、また。」

「先日、夫に先立たれ、私は悲しみの底に暮れました。そこから立ち直りきれぬまま、すっかり老いこけてしまって。そして先日、資産家の男性と出会ったのです…。」

 懺悔でもするかのような口の利き方だ。私の喉が再び、ごくり、と鳴った。自分の人生をもってしてでもこの老女の人生の断片を垣間見るのが精一杯なのは百も承知なのだが、妙な緊張に襲われた。あぁ、この緊張感をなんと形容したらよいのだろう。どうしてこういう時に限って、私の語彙は乏しいのか、何時も口惜しくて仕方ない。

 


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