Lv95
桜ちゃんからクリスマスソングを作ると言われた後、最初の部活の日。
つまり言われてから二日後に当たるわけだが、その間の授業で黒板を板書するついでに手元を見ないで文字を書く練習をしていた。
お陰様でかつてないほど真面目にノートを取ったように見えるが、かつてないほど読み難いノートが生まれた。
複雑な字であればあるほどその造形が崩れてくるのはもちろんなのだが、それ以上にすでに書いている場所の上にもう一度字を書いてしまう事が多い。
そうは言っても、ここ最近の板書に関してはいくらか読める箇所も増えてきたのだけれど。
そうしている中でユメに『わたしも結構大変なんだからね』と言う話をされた。
要するに無意識に意識してしまうから、意識的に意識しないようにするのが大変だとかなんとか。
言いたいことはわかるし、俺自身覚えはあるけれど、その言葉自体は意味が分からないなと内心笑ってしまった。
ともかく、そんな事もあっての昼休み。
少しでも練習をしておこうと昼食もそこそこにシャープペンシルを手に持ってプリントの裏に向かっていると「やっていますね。どうですか?」と言う声が後ろから聞こえてきた。
その声の方を向かずに「見ての通りだな」と手にしているシャープペンシルの後ろ側で頭をノックする。
「まだまだって感じですね」
「でも、少しなら読めますよ?」
そこでようやく声のした方を向くと桜ちゃんが少し残念そうに、鼓ちゃんが困ったような顔でいつものように席についていた。
二人の言葉――特に桜ちゃんに対して――ため息をつくと、そのままの思いで口を開く。
「これでも頑張っているんだけどな」
「勿論先輩は頑張っていると思いますよ? むしろ桜が思っていた以上に上達していると思います」
「いや、そこまで上達もしていないだろ」
表情を一転させニコニコしながら話す桜ちゃんに違和感を覚えなくもない。
しかし、今は桜ちゃんの言葉が過剰評価だろうと言う方により意識が向いてしまったのでそちらを訂正した。
「別に桜は褒めたわけじゃないんですけどね。
お陰様で桜の計画が狂ってしまいそうです」
「いや、さっき否定しておいて何なんだが、上達が早い分にはいいんじゃないか?」
「まあ、先輩には最終的に雑談しながらでも文字を書けるようになって貰わないといけませんから、別に構いませんけどね」
「……そこまでする必要あるのか?」
驚きと言うか、唖然というか言葉に詰まってしまった俺に対して、桜ちゃんは不機嫌そうな顔になったり楽しそうな顔になったりといつも以上に表情がコロコロと変わる。
最後の俺の疑問には澄ました笑顔を向けるだけだった。
そうしている間に教室内前方に設置してあるスピーカーから軽快な音楽と共に聞いたことのある声が聞こえてきた。
『皆さん、こんにちは。お昼の放送の時間です。
今日はピンクちゃんとは呼ばないで放送部赤井白のお相手でお送りします』
「この学校って校内放送とかやっていたんだな」
「えっと毎日だったかどうかは覚えていませんが、前からやっていたと思いますよ」
困り笑顔の鼓ちゃんに言われると、桜ちゃんの時とは違いすんなり受け入れられる気がする。
そして校内放送。普段は意識していなかったか、気が付いていなかったか。
でも、考えてみると自分も関係するような連絡だと聞いたことがあるような気もする。
無意識って怖いなと思っていると放送が先に進んでいたので、たまにはと耳を傾けてみることにした。
『今日の連絡は特にありません。
それではいつものコーナーと行きたいところですが、その前に放送部から一つ皆さんにお願いがあります。
文化祭も遠い昔になりつつあるこの時期、つまりもうすぐクリスマスです。
待ち遠しい人も、無くなって欲しい人もいるかと思いますが、放送部ではクリスマス一週間前からこのお昼の校内放送でクリスマス特別放送を行う予定です。
それにあたって皆さんが聞きたいクリスマスソングを募集します。
放送室前にリクエストボックスを置いておきますので、その隣にある用紙に曲名と出来ればアーティスト名、その曲にまつわるエピソードや一言を書いてボックスに入れてください』
「放送部もクリスマスするんだな」
「いやいや、遊馬よ。去年も似たような事していた気がするんだが」
「そうか? たぶん興味なかったんだろうな」
そこでユメの声が聞こえてきたので、一誠の事は放置してユメの言葉に意識を向ける。
『確か去年のこの時期って遊馬が軽音楽部に入ったくらいか、入って少し経ったくらいだよね』
「そうだな。文化祭の後くらいだった記憶があるし、まだ稜子の小言に慣れていなくてお昼の放送どころじゃなかったんだろう」
「なあ、遊馬。二人で納得するのはいいが、もう少しこっちに脈絡をくれないかい?」
「残念ながらこちら側には脈絡があってな、肝心なところはちゃんと言葉にしてたろ?」
「で、遊馬先輩。ユメ先輩は何て言っていたんですか?」
「大体今くらいに俺が軽音楽部に入ったなって話をな」
「確か綺歩先輩との約束があったから入部を決めたんでしたよね」
「桜ちゃんそんな事よく覚えてたな」
「そりゃあ、桜がドリムに出会えた理由と言っても過言ではないですから、忘れようもないですよ」
自信満々に桜ちゃんが言う後ろで、一誠が鼓ちゃんに「何でオレだけこんな扱いかねえ」と言って困らせている。
鼓ちゃんには悪いが一誠の事は置いておいて、一度『繰り返します』と間に挟まった放送に再度耳を傾けることにした。
『もしも曲名が分からない場合にはどのような曲だったのか書いていただければ、放送部が可能な限り調べますので気軽に書いていただけたらと思います』
「そこまで頑張る必要ってあるのか?」
別にそこまでしなくてもいいんじゃないだろうかと思わなくもないのだけれど。
そう思っていると、難しい顔をした鼓ちゃんが口を開いた。
「たぶん、そうでもしないと集まらないんじゃないですか?
あたしの中学時代の放送委員だと、リクエストが集まらなくて困ったって話を聞いたことありますから」
「そんなものなんだな。ところでそれって集まらずに結局どうなったんだ?」
「えーっと……どうなったんでしたっけ……」
鼓ちゃんが考え込むようにそう言うと、ゆっくりと桜ちゃんの方へと首を向けて「桜ちゃん知ってる?」と尋ねた。
桜ちゃんは最初「桜ですか?」と少し驚いた表情を見せた後で、何かを思い出すように腕を組む。
「確か放送委員が好き放題にやっていたと思いますよ。放送委員の趣味なのか何なのか、毎回似たようなジャンルと言うか、同じアーティストの曲が流れていた気がしますし。
まあ、リクエストが来ていた頃にも趣味でリクエストを選り好みしていたようなところはありましたけどね」
「選り好みしていたからリクエストが来なくなったんじゃないか?」
俺の問いに桜ちゃんは「そうでしょうね」と平生通りの表情で答えてくれたけれど、それに続くようにして一誠がしたり顔で口を開く。
「そこは今は別に関係ないと思うけどねい。大事なのはここの放送部もそうならないようにする事で、桃色の君がその辺をしっかりと考えた子だと言う事ってね」
「それが赤井さんの意志かはまた別だろう」
「それもそうだねい」
一誠が俺の言葉にちょっと桜ちゃんの方へ視線を逸らすと、顔を明るく笑顔にしてそう返す。
俺も別に赤井さんがそう思っていないと思っているわけではない。
ただ正しい事を言っているような一誠が少し癪で捻くれたことを言ってしまったのだけれど、それを軽く流されてしまったため捻くれた自分が何だか負けた気分になってしまった。
何となく自分が子供っぽいなと思い直し自分に対してため息をつくと口を開く。
「それで、どうするんだ?」
「どうする、と言うと?」
「放送部に協力するかって事だ」
「遊馬はどうするのかね」
「何か思いつけばリクエストしたいとは思うが……」
『クリスマスソングなんて童謡みたいなのしか思いつかないよね』
「そうか。オレはとりあえず思いつくものを適当に入れて来てあげようかねえ」
一誠がそう言ったところでお昼の校内放送が終わり、それと同時に昼休みの終わりも間もなくになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の放課後。部活に行くかとまだ教室が騒めいている中立ち上がると、頭の中でユメの声が聞こえてきた。
『遊馬、昼休みの事なんだけど良いかな?』
「クリスマスソングの話か?」
『ううん。約束の方』
ユメにそう言われて「ああ、そっちの方か」と呟く。
そう言えば桜ちゃんが俺と綺歩の昔の約束の事を覚えていたんだっけか。内容までは伝えていなかったはずだが。
『遊馬は覚えている?』
「ユメも覚えているだろ?」
『勿論。それで確認何だけどこの間綺歩が何か言いかけた時に何だろうって言ってたけど、実は心当たりあったんだよね?』
「そうだな。一つ……ではあるが」
この間と綺歩が言いかけたと言うと綺歩が俺を軽音楽部に誘った理由のところだろう。
自信はあまりなかったのでユメにも言わずにいたが流石にユメに隠すことは無理があったかと諦めて素直に応じる。
ユメは俺の返答に『うん』と言うと、続けて話し始めた。
『その心当たりって言うのが綺歩との約束……だよね』
「そういう事だ。でも、どうして今それを確認したんだ?」
『どうしてってわけじゃないんだけど、ちょうど約束って言うのが話に出て来て気になったから』
まあ、ユメの言いたいことも分かるので「そうだな」とだけ返して、教室はまだ騒めいているとはいえ立ちっぱなしでボソボソと一人つぶやいているのは目立つので荷物を持って歩き出す。
少し歩いて教室を出た所でユメとの会話を再開した。
「約束ってどうやったら守ったって事になるんだろうな」
『前にもそんな話したよね。新幹線の中で』
「そうだな。その時から考えてはいたんだが……」
『綺歩との約束を守れたかって事?』
「ああ」
『「私の演奏が上手くなったら、また遊君の後ろで演奏させてね」……ね。
確かに遊馬は演奏が上手くなった綺歩の演奏で歌ってたよ?』
ユメは俺がどんな返答をするのか分かっているかのように、恐らく敢えて疑問で答える。
そもそもこんなに迷う必要なんてないような約束。
小さい頃とは言え「結婚しよう」とか言うのよりも果たせそうな約束。
それでも少し考えてしまうのはユメが居るからでも、綺歩との約束を反故にしたいからでもなく、それ以上に俺が易々と歌ってはいけないと思っているから。
それにユメの言う通り確かに俺は綺歩に軽音楽部に誘われて実際歌っていたのだから約束は守ったとも言える。
「でも、綺歩はどう思っているんだろうな」
『そもそも覚えているかって言うのも分からないからね。
それに仮に覚えていたとするとその約束があったから遊馬を軽音楽部に誘ったって事になるでしょ?』
「そうだな」
『で、遊馬はその約束があったから軽音楽部に行くことを決めた。それが軽音楽部に行こうと思った理由の全てじゃないのはわたしも知ってるけど。
ともかく綺歩が約束を覚えていてくれたとしたら、遊馬が少なくとも約束を守った事も分かってくれていると思うよ』
「うん。ありがとう」
その結論くらい最初から出ていた事ではあったけれど、自分の頭の中だけで考えるよりも――例えそれが俺に都合が良い考えだとしても――自分を納得させることが出来た。
その意味での感謝。
それはユメも分かっているのだろう『どういたしまして』と言う何の飾りもないシンプルな言葉が返って来る。
この妙に安心のできる居心地のいい感覚の中で、迷っていた自分を否定するように首を振ると音楽室の方へと足を向けた。




