Lv93
桜ちゃんと一誠が戻って来た直後、午後の授業が始まる予鈴が鳴ったので桜ちゃんと鼓ちゃんは自分の教室に帰って行った。
そして、その日の放課後の部活。
目下のところライブの予定もないので、ここ最近は今までよりものんびりとした、言ってしまえばだらけたような雰囲気になっている。
それもあってか、俺がユメと入れ替わるのも時間を置くことがあり、まだ俺がユメと入れ替わっていない時に、桜ちゃんが俺達の間を縫うようにぴょんぴょん跳ねながら音楽室の前の方へと向かった。
「皆さん、だらけている所申し訳ないですがちょっと桜に耳を貸してくれないでしょうか?」
「桜、前から言おうとは思っていたんだけれど、そういう事をやる時には先に一言声をかけておいてくれないかしら?
まあ、しばらく暇で暇で仕方がないから、それがどうにかできると言うのなら話は別だけれど」
「ご期待に添えきる事が出来るとは言い難いですが、多少は暇つぶしになると思いますよ?」
そう言って桜ちゃんが稜子に笑顔を向ける。
稜子も特に強く注意する気もなかったらしく、桜ちゃんに頷いて返した。
俺と鼓ちゃんはと言えば、待っていましたと言わんばかりに視線を交わす。
そうしている間に桜ちゃんが言葉を続けた。
「皆さん知っての通り今から約一か月後にクリスマスがあります」
「残念だったな、さくらん。クリスマスは中止になったんだよ」
「それで、ですが」
間に割って入った一誠を桜ちゃんは華麗にスルーして話を続ける。
スルーされた一誠が何故か悟った顔で首を振りながら「お約束ってやつなのにねえ」と漏らしていたので、多少同情してやろうかと言う心も失せ桜ちゃんの言葉に耳を傾けることにした。
「クリスマスソングでも皆で作ってみたいなと思いまして」
「クリスマスソングを作るの?」
「それを皆で……ってどういう事なんだ?」
予想だにしなかった言葉に鼓ちゃんと俺がいち早く反応する。
それを見て桜ちゃんが何やらにやにやと笑うと「あら、御二人とも思いつかなかったんですか?」と楽しさをにじませた声を出す。楽しさをにじませたと言うか、何とも厭らしいと言った方が正確かもしれないが。
ともかくその一言で今日の昼休みの俺と鼓ちゃんの行動を予測されていたことが分かり何となく負けた気になってしまった。
負けた気になってしまったので負けついでに素直に頷く。
それを見た桜ちゃんが満足そうに説明を開始した。
「クリスマス前と言う事で、桜もクリスマスソングを作っていたのですが、せっかくこうやってななゆめと言う仲間がいるわけですから、たまには力を借りてみようと思いまして」
「イメージ的に桜ちゃんが仲間って単語を使うのは違和感があるな」
「今はそんな事はどうでも良いですよ、遊馬先輩。って言うか心外ですね、今まで散々手を貸してあげたと言うのに」
「悪い悪い、それでどうしたんだ?」
「それで、皆さんに歌詞を考えてもらおうと思いまして」
話が進んでいく中、一誠が関係ないところで「この扱いの差は何なのかねえ」とぼやくので今度は同情してやる事にして、それを全く表に出さないようにしながら話を聞く態勢に戻る。
「曲はすでにある程度できているので、それを七つに分けてそれぞれに歌詞をつけてもらえないでしょうか?」
「七つって、桜ちゃんそれって……」
「面白そうね。他にやることもないし、やってみてもいいんじゃないかしら?
綺歩と鼓はどう思う?」
「私はやってみても良いと思うよ? ちょっと恥ずかしい感じもするけどね」
「えっと、あたしは……」
「つつみんは桜に協力したくないですか?」
「ううん。そんな事ないよ」
上手く鼓ちゃんが乗せられたと言うか、勢いで押し切られるように了承してしまう。
次に桜ちゃんはくるっと俺と一誠のいる方を見るとニコッと笑った。
聞きたいことがある、聞きたいことがある故に少なくとも今すぐには了承するわけにはいかない。そう考えていると桜ちゃんはニコッと笑いながら口を開いた。
「これで、四票を得て過半数になりましたから、民主主義的にやる事が決まりました。
そんなわけで、遊馬先輩もユメ先輩もそれでいいですよね?」
「嫌だ……って言っても一緒なんだろ?」
「よくご存知ですね」
半分諦めたように言った俺に桜ちゃんの眩しい位の笑顔が俺に向けられため息をつく。
『確認する名前に一誠が入っていなかったって事は一誠は最初からグルだったって事だよね』
と言うユメに心の中で頷いて、諦めついでに聞いておきたいことを聞いておくことにした。
「歌詞を考えるのは良いとして、七つに分けるって事は俺とユメは別カウントなのか?」
「はい、勿論です。今回の趣旨としましては、他の人がどんな歌詞を考えているのか分からないようにして最後に全員分を合わせて完成させると、そう言う話ですからね」
「いや、他の人がどんな歌詞を考えているのか分からないようにってどう頑張っても無理だろ。
俺が見るものはユメにも見えるし、ユメが見ているものは俺も見ているんだから」
「その辺、実はどうにかなるんじゃないかなとか思ったりするわけですよ。
例えばブラインドタッチを先輩は出来ますか?」
「ブラインドタッチと言うと、キーボードを見ずに打鍵するってやつか?
それだったら、出来ないな」
「打鍵って言葉が良く出てきましたね……
じゃあ、紙を見ずにそこに文字を書くとかやった事はありますか?」
そこまで言われて桜ちゃんが言いたいことが分かった。
俺が見たものがユメにも見えるのなら、見なければいいんじゃないかと言う事か。
「やった事は無いが、試してみてもいいかもな」
『でも、何となく分かりそうな感じするけどね』
「じゃあ、早速練習してみましょうか。たぶん今日はこれで潰れるかもしれないですけど、稜子先輩良いですか?」
「まあ、仕方ないわね……と言いたいけれど、最低限は練習もしてもらうから、一度ユメになってその実験はユメでやってくれないかしら?」
「と、いう事なので遊馬先輩よろしくお願いします」
桜ちゃんにそう言って準備室に押し込められ、泣く泣く……と言うわけでもないがユメと入れ替わる事になった。
いつものように、男の服装のままユメと入れ替わって、それから着替える。
昔はたまに下着になるまで、なった後からはユメの目が開いていることもあったけれど最近は着替え始めた時から目を閉じるようになった。
それがどうだと言うわけでもないのだけれど、目を閉じているからこそそのほかの感覚が強調されるためか、肌寒い中晒された腕の細さとかそう言うものが明確に分かってしまうようで困る。
「予想外れちゃったね」
『そうだな。そもそもクリスマスパーティから抜け出せなかったのが俺達の敗因だな』
「そうかもね」
くすくすと笑うユメの心地よい声が耳に響く。
「それにしても、わたしと遊馬が別々に歌詞を考える事になるなんてね」
『桜ちゃんのごり押しはいつもの事とは言え、ある意味とんでもない事を考えてきたものだよな』
「でも、本当に遊馬に分からないように歌詞を書けるのかな?」
『まあ、それが駄目だったら桜ちゃんの事「期限の日に口頭で伝えてください」とか言ってくるんじゃないか?』
「じゃあ、頑張ってお互いに判らないように歌詞を書けるようにしないとね」
『それを頑張るって言うのもなんか変な感じだけどな』
「そうだね」
楽しそうなユメの声が聞こえた所で、着替えが終わったのかユメの目が開かれる。
ユメが右を向けば視界は右に動くし、ユメが左を向けば俺の視界も左に動く。
ユメが話した言葉は全て俺にも聞こえるし、逆もまたしかり。
もしも本当にユメが書いた文字を見ないように文字を書いて、それが俺に判らなければ、それは何だか不思議な感覚と言うか、それが当たり前のはずの感覚と言うか。
でも、何となく嬉しい気がする。俺とユメが違うような気がして。
「取りあえず、今日も歌楽しんでくるよ」
『じゃあ、今日もユメの歌聞かせて貰おうかな』
明るい声で言ったユメの言葉に、俺も明るい声を返した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
いつも通りの通し練習が終わり、言われていた通り歌詞を書くための練習として桜ちゃんとユメは別室に移動した。
別室なんて言っても空いている教室を勝手に借りているだけなのだけれど。
ユメと桜ちゃんは机を寄せて相対するように座ると、ユメの前にルーズリーフと鉛筆を置いた。
ユメはその鉛筆をすぐには手に取る事はせずに桜ちゃんに問いかける。
「こうやってわたし達だけで出てきちゃってよかったの?」
「先輩は沢山の人に見られながらこの練習をしたかったんですか?」
「そう言うわけじゃないんだけど、他のメンバーに曲とか渡しておいた方がよかったんじゃないかなって思って。暇だと思うし」
「先輩気が付いていないんですか?」
ユメの問いかけに桜ちゃんが怪訝そうな顔をする。俺としてもユメの問いは至極当然だと思うのだけれど何が桜ちゃんにそんな顔をさせているのだろう。
そう思っていると、桜ちゃんが残念そうに首を振りながら口を開いた。
「桜がこれを思いついたのは今日の昼休みですよ?」
「それはそうだろうなとは思うけど……あ、そっか」
「流石に桜も空間を捻じ曲げることは出来ません」
桜ちゃんの呆れた顔にユメの中に居る俺も恥ずかしくなってしまう。
桜ちゃんが昼休みに企んでいたことは俺達に歌詞を書かせる事。勿論昼休みに決まった事だからその音源が此処にあるはずがない。
当たり前なのだけれど、上手くつながっていなかったらしい。
「そんなわけで話はこの辺で良いですか? いえ、別にこれから話していても良いですが、やる事をやりながら話しましょうか」
「うん。そうだね」
桜ちゃんに促されユメが鉛筆を手に持つ。それから桜ちゃんの方を向いて首を傾げた。
「ところで、なんて書けばいいの?」
「そうですね……適当に「あいうえお」と書いてみてください」
「「あいうえお」ね。えっと、あ、い……」
「先輩、口に出しながら書いたら意味がないです」
桜ちゃんに言われてユメが慌てて口を閉じる。それから「うえお」を紙に書いた。
ユメが書いた紙に視線を移すとルーズリーフの罫線を無視した大きめな、そして決してきれいとは言えない字が書かれていた。
「どう……かな?」
「どうと言われても、見ての通りですよ」
「うん。下手だよね」
そう言って落ち込むユメに桜ちゃんが首を振りながら声をかける。
「別に字の上手さは問題じゃないんですよこの場合。最悪読めたら良いわけですから。
問題は遊馬先輩がユメ先輩が書いていた字を理解できてしまったかどうかです」
「遊馬どうだった?」
『残念ながら分かったな』
一字一字がゆっくりだったし、何を書くか分かっていたし。
俺の返答を聞いて残念そうにユメは首を振ったが、桜ちゃんはそうでもないらしく「まあそうでしょうね」と軽くうなずく程度だった。
「じゃあ、次は今まで軽音楽部で歌っていた曲の歌詞をワンフレーズ適当に書いてください。その時は雑でもいいので出来るだけスピードを意識して」
「歌詞を、スピード重視で、だね」
確認するように繰り返したユメは、何かを考えるかのように少しだけ停止すると鉛筆を動かし始めた。
何を書くのか聞かされていた先ほどとは違い、意識を集中させて何を書いているのか追いかけようとしても鉛筆の動きと文字が一致する前に次の文字に行ってしまい、さらに混乱するという悪循環に陥る。
何気なく書いている文字もちゃんと頭の中で何を書くのか明確にして書いているのだなと変な発見をしてしまった。
と、思っているとユメの視線がルーズリーフの方を向き『見知った道 過ぎ去るエンジン音』と何とか読める字で書かれているのが見えた。
「あっ」
「今見ましたね?」
「ごめんね。でも結構難しくって」
「いえ、別に今日は構いませんよ。桜も今日の昼の授業で手元を見ないで板書を取ってみましたが思いのほかに難しかったですし」
「やったんだ……」
「それで遊馬先輩どうでした?」
『すっごい手元に意識を向ければわかるかもしれない』
「すっごい手先に意識を向ければわかるかもしれない、だって」
「じゃあ、意識しないでください」
「まあ、そうなるよね」
『そうだな』
桜ちゃんの意見ももっともで、無意識でいれば何書いているのかサッパリわからないし、仮に本当に何を書こうとしているのかを意識してしまうとそのうち何書いているか分かるようになるかもしれない。
その日はそのまま桜ちゃんと雑談しながら何か適当に書き続ける事をしたけれど、結局その日はお互いに悟られることなく意志疎通できるかもしれないと言うことが分かっただけだった。




