Lv8
「ねえ、遊君」
廊下に出てすぐ綺歩から声をかけられて、そちらを見る。とても言いにくそうな表情の綺歩に「どうしたんだ?」と返す。
「今からの部活なんだけど、ユメちゃんで行って貰っちゃ……駄目?」
「別に悪いことはないけど、どうするんだ?」
「ユメちゃんをボーカル志望の子って事で連れて行って、固定観念無しでユメちゃんの実力を見てもらった方がいいと思うの。ユメちゃんなら問題なく稜子のお墨付きは貰えると思うから」
「稜子が認めれば後だしで俺だと分かっても何とか言いくるめられるとかそういうことか」
「ごめんね。こんなことしか思いつかなくて……」
「まあ、仕方ないんじゃないか。普通こんな状況ないだろうしな」
「あと、それから、もう一個……」
綺歩がとても言い難そうに俯いてしまう。はじめ言いにくかったのはこのもう一個と言うのが理由か。
「たぶん……と言うか、ほぼ間違いなく稜子は今後ユメちゃんの方が歌えって言うと思うの……」
「ああ、なるほどな」
現状どう足掻いてもユメの方が歌が上手いだろうし、そうなると「新しいボーカル」が入るまでの俺の役目は終わると言うことか。
「でも、結局裏声使った時点でユメが出てくるわけだし俺はボーカルを続けていけないだろう。本番で入れ替わったりしたらそれだけで大騒動になるだろうからな」
『それでいいの?』
「それでいいと思っているのはお前もよく分かっているんだろう?」
ユメの問にそう返して、ユメと入れ替わる。その時に綺歩の顔が疑問に染まるのが見えたが、俺とユメが入れ替わった直後何か納得したような顔をしていた。
「ユメちゃん……えっと、昨日ぶり、昨日は……」
「昨日の事は大丈夫って言ったでしょ?」
「うん、そうだったよね。でも、ごめんね」
「もう、綺歩は相変わらずなんだから」
呆れた声を出すユメに綺歩が少し照れた笑みを浮かべる。それから、ユメに問いかける。
「そう言えば、ユメちゃんの意見を聞かずに決めちゃったけど……」
「それも大丈夫。基本的に遊馬の意見と同意見だから」
「そっか、じゃあよろしくね」
「任せて」
そうユメが返したところで、音楽室に向かった。
袖をまくり、裾をまくり、ご機嫌なように歌いながら歩くユメの姿は恐らく異様なのだろうが、幸い音楽室は科学部室が近いということもあり普通ほとんど人が来ない。
すぐに音楽室にはついて、その扉の前で綺歩が一度立ち止まりユメの方を向く。それに対してユメが頷いて返したところで、綺歩がドアを開けた。
通い慣れたはずの音楽室もユメの視点から見ると少し大きく感じられる。ユメもそう感じているのかしきりに視線が動いていた。
「遅くなってごめんね」
「まあ、たまには仕方がないんじゃないかしら。ただ、三原と用事って言うのが……って綺歩その子誰?」
「その子って誰だい志手原さんよ……本当だ。綺歩嬢誰だその変な格好した美少女」
稜子と一誠がそういう後ろで後輩組も首をかしげている。
「えっと、ボーカル志望で入りたいって言う……」
「ユメです。よろしくお願いします」
ボーカルと言った瞬間に稜子の視線が好奇なものから、じっくりと舐めまわすようなものへと変わる。
その後ろで一誠が「ボーカルねぇ……」とやはり観察するように見てくる。
「気になることは沢山あるけれど、綺歩が連れてきたってことはそれなりのレベルなんでしょうから、とりあえずテストを受けてもらいましょうか。話はそれからって事で」
「でも良いの? この子が合格したら三原はボーカル降りないといけないけれど」と言う稜子の言葉はあくまでも綺歩に対してのもので、まるで俺への配慮と言うわけではなさそう。
だが、その辺はボーカルに限らず他のパートも同じだとは思うし、可能性として俺が一番高く、俺以外ほぼゼロだったというだけの話なので特に気にすることのものではない。
「わたしはどうしたらいいんですか?」
釣れかけた魚を急かすようにユメがそう尋ねる。まだ十五分には余裕があるとは言っても用心しておくにこしたことはないと言ったところか。
「そうね。貴女どんな曲が歌えるかしら」
「このバンドの曲なら一通り歌えます」
「へぇ……結構難しい曲もあると思うんだがな」
一誠がドラムの向こうでスティックをあごの下に当てながら感心したように言う。
一誠が言うように難しい曲もあるが、それはどのバンドでも同じではないだろうか。
「そうね。じゃあ、『loved girl』とかどう?」
「うわ~……流石稜子姫こんな美少女に対しても容赦ねえ」
そういう一誠も内心楽しそうに、軽くスティックを振っている。こんな様子を見ているとこいつらは本当に音楽が好きなんだなと思わざるを得ない。
桜ちゃんは値踏みをするようにユメを見て、まるで貴方にこの曲が歌えるのかと言いたげ。対して鼓ちゃんは小さい体でしっかりギターを持って思い出すかのように軽く弾いていた。
綺歩も綺歩で「がんばってね」と言うと楽しそうにキーボードの方へと向かう。
「準備はいい?」
「大丈夫ですよ」
先ほどからユメの敬語がぎこちないのだが、考えてみればユメとしては昨日まで俺として普通に話していたのだから急に敬語で戸惑っていたりするのだろう。
中世西洋風の曲調の前奏が始まり、ユメが軽く深呼吸して第一声に備える。
「そう 貴方の為ならば」
決意、悲しみ、憎しみそれらを明るさで覆い隠したような、なんとも言い難いユメの歌声が音楽室に響く。
『loved girl』そのタイトル通り愛された女の子の話を描いた曲。確か稜子が好きな小説を歌詞にしたものだったか。
「世界に囚われた私を 貴方が守ってくれるならば」
ユメが歌い始める前に一誠も言っていたが難しい曲で、その難しさの根幹にあるのは描かれている少女の心情がかなり読み難いところにある。
Loved girlなんてタイトルをしておきながら悲恋を綴っているし、しかも元がファンタジー小説だけあって設定が複雑。
「どれだけ辛くても この思いを持ち続けよう」
それに加えて普通に音程も取り辛い。俺がこのバンドに入る事が出来たのも、一、二回聞いただけである程度歌う事が出来る様になったからで、ある程度からさらにもう一段階上を目指すとなると本当に辛かった記憶がある。
「貴方はこんなに近くにいるのに 誰よりも近くにいるのに」
そうは言ってもユメはそれを完璧に歌いこなす。
地声の時の俺よりもはるかに上手く、裏声の俺よりも少し上手く。
俺がいつもそうするようにユメがメンバーの顔を見回す。感覚を共有している俺が全く違和感がないほどスムーズな動きで、自分がやっているんじゃないかと言う錯覚にすら陥りそうになる。
しかし違うのだ。声の出し方が、その違和感は拭いされる気がしない。
「これ以上近づけないのは 全部そう 私のせい」
ユメの目を通してメンバーが驚いている顔が見て取れる。
一人は感心し、一人は純粋に驚き、一人は少し顔をしかめ、そして一人は目を輝かせていた。
皆のそんな表情はほとんど見たことがなくて、元々は俺なのに、俺が出す事の出来た声なのに。
『羨ましい……』
たまに行くカラオケが無くなるだけ、無理に地声で歌うこともない。そう思っていたけれど、案外そうでもなかった。