Lv75
「ちょっと待て、俺が歌えないのは知っているだろう?」
「その辺はちゃんと考えていますよ。とは言っても、裏声にならないような少し低めの曲を演奏するみたいなことしか思いつきませんでしたが」
俺の抗議に桜ちゃんが飄々とした態度でそう返す。
それを聞いて何故話を部活まで引っ張ったのかと言う理由がはっきりした。
綺歩がいるからか。桜ちゃんは俺が歌いたくない理由を知っている。
歌えばまたユメのように歌いたいと思ってしまうかもしれないから。
でも、それを綺歩に言えない以上、俺が歌えない理由は基本的に間違えて裏声を出してしまったら困るからと言う一点だけになる。
ただ、どうして俺が歌いたくない理由をユメと俺を除くこの場にいる誰よりも知っているはずの桜ちゃんがこんなことを言うのかはわからないが。
「歌うならユメの方が上手いんだから、そっちの方が良いんじゃないか?
一誠みたいに特別に認めてもらえるかもしれないし」
「実は一誠先輩以外の事でも色々と無理を言っているのでこれ以上を言うのは難しいんよね」
「それに、もしかするとユメユメの裏で遊馬の方が歌が上手くなる可能性だってあるんだから、それは言い訳にはならないねい。
何か歌いたくない理由でもあるのかい?」
「稜子は嫌だろ? 俺が歌うの」
「以前夏休みの時歌って良いって言わなかったかしら?」
「あ、あと、ずっと歌っていなかったから歌えるか不安でな……」
苦し紛れにそんな事を返してみると「遊君なら大丈夫だよ」と綺歩が俺の隣にやってくる。何だか嬉しくない援護射撃。
「そう言えば遊馬先輩には一つ貸しがありましたよね?」
思い出したかのように人差し指を立てた桜ちゃんが追撃してくる。
一瞬何のことだろうと思ったが、確かにユメが舞と一緒に歌う場を作るために桜ちゃんに一つ貸しだと言われていた。
もしも隣にいる綺歩にその事を尋ねられたら、どこかから俺がドリムだったと綺歩にばれてしまうかもしれない。
完全に詰み。でも俺の心だけがそれを認めようとはしない。
「なあ、ユメ。ユメは俺に歌ってほしいか?」
何かに縋り付くように、肯定してほしいのか否定してほしいのかもわからない問いをユメに持ち掛ける。
ユメは俺の問いからワンテンポ遅れて沈黙を破った。
『わたしは、聞いてみたい……かな。遊馬は歌いたくないかもしれないけれど、「ユメ」として遊馬の歌を聞いた事は無いから。
遊馬だってななゆめの仲間のはずだから』
ユメにそう言われて、俺は諦めたように「わかった、歌うよ」と答えた。
綺歩がいなくなった後でいかにして桜ちゃんと一誠を問い詰めるか考えながら。
俺はそんな状態なのに、桜ちゃんが手をパンと叩いて明るい声をこちら側へと投げかけてくる。
「さて、遊馬先輩の了承も得たことですし、詳しい話をさせてもらいますね。
って事でまずは御崎先輩お願いします」
「りょーかい。大学の文化祭は十一月の最初の三連休にあって、オレ等が呼ばれたのは二日目のバンドコンテスト。
向こうに行けばチクバの面々が必要な場所については案内してくれるみたいだねん。
で、コンテストは一対一のトーナメント形式。いつかのライブハウスのように見に来てくれた人に投票して貰う。特別枠とかも特になく純粋にその投票結果で勝敗を競う。
それから参加チームは全部で八つ」
「それってアタシ達を二つに分けて八って事よね?
案外少ないのね」
「あくまでも大学の一軽音サークル内のイベントだからねぇ。
むしろ一サークルにバンドが六つって言うとそこそこ多いんじゃないかい?
大体二十五人前後」
「桜達のざっと三倍から四倍の人数ですね」
「確かにそう聞くと多いかもしれないわね」
稜子が納得したような顔をして頷くと、そのまま引き下がる。
そのまま一誠が説明を続けた。
「決勝までいって全三回演奏できるわけなんだが、決勝以外は一曲、決勝は二曲やるらしいねん。
後は演奏していいのはオリジナル曲だけって事になっているけど、まあ、オレ達には関係ない事かね」
そこまでいうと一誠が「ここまでで質問は?」とこちらの顔を見回す。
少ししても誰も声を上げないので、質問が無いとみなしたのか一誠にとって代わって今度は桜ちゃんが声を出した。
「で、勝手に桜でななゆめを分けました」
先輩を差し置いて何たる暴挙と思わなくもないけれど、隣にいる綺歩は少し呆れた顔で「桜ちゃんらしいね」と苦笑しかしないし、稜子は今さら桜ちゃんに文句を言うつもりもなさそうだし、一誠は向こう側だし、俺も対してその辺は気にしていない――と言うよりも今はもっと気にしないといけないことがある――ので自然話が進んでいく。
「名前とかは面倒だったので「なな」と「ゆめ」に分けまして、ななチームに桜とつつみん、それから遊馬先輩。
「ゆめ」チームに綺歩先輩と稜子先輩、ユメ先輩とさせてもらいました」
「ねえ、桜ちゃん。私と替わって貰ったらダメかな?」
「残念ながらすでにあちらに伝えてしまったので無理ですね」
「そっか。残念」
本当に残念そうな表情を見せる綺歩。何だろう、流石に稜子やユメと演奏したくないってわけではないのだろうけれど。
でもあっさり引いたところ見ると、久しぶりに俺とライブしたかっただけなのだろうか。
これも、何だか自意識過剰な気もする。
と、言うか桜ちゃんの事後承諾っぷりには感服してしまった。今までもたびたび見られたけれど、本当に自分の力で自分の思うように行動しているなと。
皮肉なんかじゃなくて本気でその行動力は尊敬する。
「ねえ、桜ちゃん。どうしてそんな風に分けたの?」
「つつみん、良い質問ですね。単純にこれがバランスが良いかと思いまして。
つつみんと稜子先輩では稜子先輩が、桜と綺歩先輩ではやや桜が技術的には上だと思いますから」
桜ちゃんと綺歩をベースと言う点で比べた場合、桜ちゃんの方が上手だと言うことは今のななゆめのパートからも、綺歩が普段自分で公言していることからも分かる。
その証拠に隣にいる綺歩は今の桜ちゃんの発言に何の反発も持っていないようだし。
でも、それで行くとボーカルは俺よりもユメが上ではないだろうか?
「ボーカルに関しては現状未知数ですが、ユメ先輩の方が上手いと仮定をしまして。
一つ桜達の中だけのルールを決めましょう」
「アタシたち同士で当たった場合、それぞれのオリジナル曲を演奏すること……かしら?」
「その通りです。流石は稜子先輩。
流石に桜は作曲において先輩方に負けるわけにはいきませんので、これで対等って事ですね」
「なるほどね。確かにそれは面白そうだわ。
それで、練習はどうするのかしら? 当日まで別々に練習するにしてもドラムとボーカルは分けられないわよ?」
桜ちゃんと一誠の企みに稜子が非常に楽しげな声で応える。
その声を聞いて桜ちゃんが満足げに口を開いた。
「二回に一回それぞれのチームに入ってもらうことにしましょう。
どうしてもって時にはもう片方のチームと要相談と言うことで。
ただ、今日の練習は全体練習でボーカルを遊馬先輩にして貰ってもいいですか?」
「アタシは構わないわ。本人が了承してくれたらね」
稜子の声とほぼ同時に桜ちゃんの視線が俺の方に向き得も言われぬ笑顔を見せて来たので俺は頷くしかなかった。
◇◇◇◇◇
桜ちゃんと少しだけ発声をして皆の前に立つ。
こうやって見ると、いつもより視線が高いなとか思うのだけれど、考えてみるとユメが生まれる前はこの高さだったのかと妙な感慨に耽ってしまう。
後ろで皆が軽くそれぞれの楽器を鳴らしているのも、もう慣れてしまったはずの事だけれど懐かしいような不思議な感じがする。
「本当にVS Aで良いのね?」
「どうしても桜ちゃんがその曲が良いらしいな。ユメになる可能性はかなり高いはずなんだが……」
稜子からの質問にそう答える。
桜ちゃんは知らないかもしれないがVS Aと言えば俺が初めて綺歩の前でユメに替わった時の曲だ。
それでなくても、裏返る可能性があるのは桜ちゃんなら百も承知だろうに。
そんな事を考えながら、同時にさっきまでの事を思い返していた。
「どうしてVS A何だ?」
「そりゃあ、音としてかなり高い曲だからです」
「それってユメになる可能性を物凄い孕んでいると思うんだが……」
「そうですね。強いていうなら確認ですよ」
「確認?」
「そうです。確認と同時に、桜の予想が当たっているかの答え合わせって所ですかね」
桜ちゃんの予想については聞くことは出来なかったけれど、実際とても調子が良ければ昔も声が裏返らずに歌えた曲ではある。
振り返ると皆準備が終わっていたようで、俺は一度頷くと前を見た。
「どうしたらいいのさ」
第一声にして最大の難関。
声にした直後大きな違和感を覚える。勿論、ユメと入れ替わったと言うわけではない。
以前はあんなに高いと思っていた音が、思っていた以上にすんなりと出せたことに対する、困惑と感動。
一瞬我を忘れそうになり、慌てて皆の伴奏に耳を傾けた。
「持てと言われて持った夢 大人になるほど否定され
手のひらを返し 現実を訴える
始めから自由などなかったとでも言うように
目の前にレールが引かれていく」
あんなに歌いたくなかったのに、歌ってみると案外あっさりと歌うことが出来た。
それだけじゃなく、昔よりも出したい声を出せるようになったような気がする。
だから、あっさり歌えたのはきっとその驚きがそのほかの感情全てを上回ったからなんだと思う。
「それなら初めから言わなければいいのに
せめて
ボクに芽生えた自由への渇望を
何処に捨てるのかを教えてくれればいいのに
もう どうしたらいいのさ」
以前に比べて歌は上手くなったはずなのに、歌うほどに心の中がもやもやとしてくる。
歌うことを楽しんでいいのか、いけないのか。
このまま歌うと何かが可笑しくなるんじゃないか。
そんな疑問だけではなく、得も言われぬ不安や焦燥が俺の中を埋め尽くして少し眩暈がしてくる心地がする。
しかし、不思議とユメのように歌いたいとは思うことは無くて、後半はただ無心でひたすらに音だけを追って何とか一曲歌い切ることが出来た。
◇◇◇◇◇
曲の余韻も終わり、いつの間にか下を向いていた顔をあげる。
「思っていたよりは上手くなっているんじゃないかしら」
誰よりも早く稜子がそう言って、綺歩がそれに嬉しそうに同意する。
稜子に小言を言われなかった、その事に少し安心して息を漏らす。
「もしかしたら、ユメ先輩くらい歌えるようになるんじゃないですか?」
「どうだろうな、それは」
桜ちゃんの言葉は、今はユメには追い付いていないと言うことをありありと表していて、それには激しく同意する。
しかし、俺はユメに追いつけるのだろうか? 追いついていいのだろうか?
そもそも、俺は歌を楽しんで歌えるのだろうか?
今歌ってみた感じ、歌を歌えないと言うことはない。その点だけははっきり言える。
どうして意固地に歌わずにいたのか、と思えるほどに簡単に歌うことは出来た。
でも、楽しくはない。何かが楽しむのを邪魔している気がする。
それでも、役割は果たせるかと思った所で「遊君大丈夫?」と綺歩に声をかけられ我に返った。
「何か久しぶりに歌ったから変な感じがしてな。疲れたのかもしれない」
「そうだよね。ねえ、稜子、今日はこれくらいにしない?」
「少し時間的には早いけど、今さら新しく何か出来るわけじゃないものね。
桜、そんなわけでいいかしら?」
「大丈夫ですよ。今の遊馬先輩がどれくらい歌えるかわかりましたし、確かにリハビリには少しハードな曲だったかもしれませんね」
桜ちゃんがいつもと変わらない様子でそう返すと、稜子は部活の終了を指示してそれぞれに帰宅することになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
家に帰って、まだ少しもやもやする気持ちを抑えつつ夕食を食べ終え部屋に引きこもる。
『遊馬大丈夫?』
「どうだろうな。大丈夫だとは思うんだけど、何となく心が晴れなくてな」
『ごめんね。わたしが遊馬の歌聞きたいって言ったせいだよね』
「いや、あの場面だとすでに桜ちゃんの術中にはまっていてどうすることもできなかっただろ。
最後覚悟を決めるって意味だとユメの言葉は良かったと思うぞ」
『それならよかった』
顔の見えないユメがその時どういう表情をしたのかは想像するしかないのだけれど、きっと小さな花が咲いたような笑顔をしてくれたのではないか。
そんな事を考えさせてくれる、安心と喜びに満ちた呟き。
そのユメの呟きを聞いて一つ、試してみたいことを思いついた。
「なあ、ユメ」
『どうしたの?』
「表に出て歌ってくれないか?」
『歌っていいの?』
「ああ、ユメの歌を聞かせて欲しい」
言った直後にユメと入れ替わる。着ていた部屋着が一回り大きくなって、袖が完全に手を隠した。
ユメは少し何かを考えて、それから鼻歌を歌いだした。
言葉にすれば「ふんふんふん」と言った感じだけれど、ユメが歌っているのは間違いなく『鼓草』。
家族もいるためか少し遠慮気味に小さい音量で歌っているはずなのに、一人しかいない部屋。ベッドに背を預けて歌っている様子はその場の雰囲気にも曲の雰囲気にもマッチしていてスッと俺の心に入ってくる。
別に特別な事はしていないのに、心ひき寄せられる。
その理由はきっと、仄かに楽しいという気持ちをユメがその歌に滲ませているからだろう。
そんなユメの歌を聞いていると何故か、そして思った通りさっきまでの心が晴れるような心地がした。




