Lv54
目が覚めると一瞬自分がどこで寝ていたのかわからなかった。
そもそも何でベッドで寝ていないのだろうかと不思議に思った。
しかしすぐにここが学校、薄暗くユメ専用の更衣室と一誠のドラム置き場にされている音楽準備室だと言う事を思い出す。
朝起きた場所がこのようなやや埃っぽい雰囲気のところだと言う事が妙に現実感がなくて、頭もだいぶ寝ぼけているのが分かる。
同じ部屋で寝ていたはずの一誠の姿はすでになく、俺が起き上がったところでドアを開けて入ってきた。
「お、起きたのか」
「ああ、おはよう」
「遊馬、ひとつ頼みがある」
「なんだ?」
「今すぐユメユメに替わってくれないか?」
一誠はとても真剣な表情でズイッと俺に言い寄る。
何でそんな事を言うのだろうかと、眠たい頭で考えていると頭の中で眠たそうな声が『嫌だ』と呟いた。
「嫌だと」
「そこを何とか」
『やだ』
「やだ……
そもそも何でそんな事を頼むんだよ」
堪え切れずすぐそこまで出かかっていた欠伸を噛み殺しながら俺が尋ねると、一誠が真剣な表情のままで口を開いた。
「だって今遊馬がユメユメに替われば寝ぼけたユメユメを見る事が出来るわけだろ。それはもう最高にエクセレントだと思わないか?」
『ばーか』
「ばーか」
ユメの言葉を復唱している間にだいぶ目も覚めてきて、本当に一誠が馬鹿な事を言っているのだとはっきりと認識する。
「その馬鹿って言葉もユメユメの口から聞ければ……」
「もう脳内で勝手にユメに置き換えろよ。確かにユメが言っているんだから」
「なるほどその手があったか」
感心したように何度も頷く手遅れ男の事は放っておいて現状を把握するため辺りを見渡す。
しかし、この部屋に時計などはなく、窓はあるが全てカーテンがされてあり僅かに漏れてくる光で夜中ではない事だけはわかる。
一誠を見るとすでに制服に着替え終わっていてもしかしてもう学校に行かないといけない時間なのだろうかと焦る。
「もう学校に行かないといけない時間なのか?」
「もう学校だけどな」
「あ、そうか」
「まだ寝ぼけている遊馬君に朗報だが、始業時刻まで後一時間以上ある」
「じゃあなんでお前は着替えているんだ?」
「まあ、習慣だな。朝起きて勉強する時に制服着ていた方が気が引き締まる」
「あー……そう言えばお前学年上位の成績だったな」
「そうだ、崇めろ」
「それなのに馬鹿なんだな」
「馬鹿ぐらいでちょうどいいんだよ。高校生ってのは」
なんだかどや顔でいいことを言おうとして全然言えていない一誠がそう言えば音楽室から入ってきた事を思い出し尋ねる。
「もう女子組は全員起きているのか?」
「遊馬が最後に起きたな」
「それで、皆は?」
「シャワーを浴びに行ったみたいだな。女子だけ運動部用のシャワー室を開放しているんだと。
遊馬も行ってきたらどうだ?」
「俺は女子じゃ……ってユメで行けってことか」
「って言うか、隣で綺歩嬢が待っているから早くこいだと」
「何で綺歩が?
……まあ、いいか。ユメ替わるぞ」
『はいはい』
ユメの反応を待ってからユメと入れ替わる。着ていたジャージが急にダボダボになって見事に着られている状態に。
昨日お風呂に入っていないせいか、長い髪が不快指数をいくらか上げた。
「一誠おはよう。寝ぼけていなくて悪かったね」
「ジャージ姿のユメユメもなかなかに珍しくて新鮮だからよし」
「わたしはそのジャージ姿でシャワーを浴びに校内を歩くわけだけどね」
『恥ずかしくはないんだな』
「ジャージで恥ずかしがっていたら女子は体育出来ないと思うよ?」
『そういうもんか』
「多少感覚はずれているかもしれないけどね」
ユメの返答に納得するようなしないような心地でいると、制服を持ったユメが一誠に「じゃあね」と手を振って準備室を後にした。
音楽室に入ると確かにまだジャージ姿の綺歩が居て、ユメを見つけるなり笑顔で「おはよう、ユメちゃん」と声を掛けてくる。
「綺歩、おはよう」
「御崎君から話は聞いてるよね」
「シャワーを浴びに行くんだよね。でも、どうして綺歩はわたしを待っていたの?」
「だって、ユメちゃん一人じゃシャワー浴びれないでしょ?」
「そう言えばそうかも。家のお風呂ならまだしも始めて使う所だったら一人目を瞑ってってわけにはいかないもんね」
「じゃあ、急いで行こうか」
綺歩に手を引かれてユメが連れて行かれる。
一度階段を降り切って、運動場の方へ。その少し手前にあるシャワー室には何人かの女子が列を作っていた。
「やっぱり並んでるね」
「やっぱりこういう時って並ぶんだね」
同じことを言っているようでユメの方が妙に男目線。もしくは他人事と言った雰囲気がある。
並んではいても流れはちゃんとあり、十分くらいで中に入る事が出来た。
シャワー室の前に更衣室があって、その辺りで綺歩の手がユメの目を隠す。
「綺歩大丈夫だよ。ちゃんと目を瞑っているから」
「そっか」
綺歩の手が離れる感覚があっても真っ暗な世界は変わらずだが、湿っぽい空気と周りできゃいきゃいとはしゃぐ女子の声が男の俺には異世界にしか感じられず頭の中で素数を数える。
ユメはいつもの要領で服を脱ぎ「ユメちゃん服頂戴」と言う綺歩に脱いだ洋服を渡す。
そう言えばユメがきていた下着は男ものだった気がするのだが大丈夫なのだろうか?
そんな不安が僅かに頭をよぎったが、そんな不安など所詮の遊び程度と言わんばかりの状況に追い込まれていた事に気がついていなかった。
「あれ、志原さんその子って」
「え? ああ。ユメちゃんだよ?」
「この子がそうなの? こんな近くで初めて見た。皆噂のユメちゃんが来たよ」
綺歩が誰と喋っているかはわからないけれど、近づいてくる足音の数に嫌な予感しかない。
集まってきた人が思い思いに話していて正直何を話しているのか聞き取るのも大変だが大凡は「はじめて生で見た」とか「ちっちゃくて可愛い」とか。
「昨日音楽室で握手して貰ったの」と言う人が居たので顔を知っている人もまぎれているだろうけれど、その顔を見る事は出来るわけがないので誰と判別しようがない。
学校に迷い込んできた犬の気持ちが何となくわかる。
「どうしてユメさんは目を瞑っているの?」
最初に声を掛けてきた人――だと思う――がユメの様子が変な事に気がついてしまい、内心焦る。
綺歩も「それは、えっと……」と困った声を出していて本格的にどうしようかとパンクしそうな頭を捻っているとよく知っている声が聞こえてきた。
「ユメ先輩は罰ゲームでシャワー室で目を開けちゃいけない事になっているんですよ」
「そう桜ちゃんの言う通り」
「全く酷い話だよね」
「罰ゲーム?」
「昨日のライブの後軽音楽部の女子組でトランプしていまして、ちょっとスリルが欲しいかなと思ったので桜が提案してみたんですよ」
「軽音楽部ってそんな事しているんだ。何かイメージと違うのね」
「たまにはそう言う事もしますよ。ね、綺歩先輩」
「昨日は〇時までしか楽器使っちゃいけなかったもんね」
「そうなんだ」
「所で、ユメ先輩の肌って綺麗だと思いませんか?」
先に着ていたのであろう桜ちゃんの機転でこの場を乗り切れるかと思った矢先、その桜ちゃんが火に油を注ぎ始める。
桜ちゃんがこんな煽り方をするのは今に始まったことではないけれど、周りの様子を窺う事が出来ない状態なので妙に恐怖感が増す。
「それわたしも思ってたんだ」
「髪もきれいだよね」
「あと細い」
そんな声が聞こえはじめ、「本当に手触りがいいんですよ」と桜ちゃんがユメの背中に指を這わせユメが「キャ」と声を上げたのが恐らく引き金。
校内に紛れ込んできた犬よろしくあちらこちらからべたべたと触られた。
後はもう何が起こったのかわからなかったけれど、気がついたら温かいお湯が上から降ってきていて、誰とも分からない指が髪の毛を梳いていた。
それからシャワーが止まったところで聞き慣れた綺歩の声が降ってくる。
「ユメちゃん大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないかも……」
地面にペタンと座り込んでいるのか、内腿まで地面にあたっている感覚があり、限界まで運動したかのように身体が重い。
「ユメちゃんちょっと有名になりすぎちゃったし、何より文化祭の雰囲気で皆可笑しくなっちゃってたみたい。
途中でやりすぎたって気がついたみたいで謝ってはいたけど、あんまりシャワー室を占領し続けるわけにはいかないからって出て行っちゃった」
「それよりも桜ちゃんに謝ってほしいかな」
「助けたんだからこれくらいは許してくださいって桜ちゃんが」
「まあ、そう言う事だよね」
それを言われてしまえばもう何も言えはしない。つくづく桜ちゃんはずるいよなと思ってしまう。
綺歩の手はすでに髪の毛を洗い始めていて、それがとても気持ちいい事が唯一の救いとも言える。
「そう言えば綺歩。わたしどれくらい捕まってた?」
「五分行かないくらいじゃないかな? ちゃんと時計は見ていなかったけど」
「うーん……それじゃあ、わたしちょっと歌っているから後任せていい?」
「お湯で流す時は言うからその時は口閉じていてね」
「了解」
それからの綺歩の洗い方は、まるでユメの歌に合わせるかのようにリズミカルになっていった。
洗われながら思うのだけれど、やはり髪が長いと洗うのは大変そうである。
男だったら下手すると十秒もあれば泡を洗い流す段階に入るだろうが、綺歩はユメが一曲歌い終わってもまだユメの髪を洗っている。
単純に長い短いだけの問題でもなく、その髪への気配りも男とは違うのかもしれない。
「それじゃあ、洗い流すよ」
と言われユメが口を閉じる。流す時もたっぷりと――男と比べればだが――時間と水を使い洗い流し、泡が落ちたかと思うと今度はコンディショナーをなじませる――これ自体は普段からやっているが――。
ひとまず頭を洗い終わったところで綺歩が手を止めた。
ユメがどう考えているのかはっきり言えないが、恐らくボディーソープか石鹸か身体を洗えるものがあるか聞いて自分で洗おうとしたのであろう。
口を開きかけたところで、綺歩の手がユメの腕を滑る。
「えっと、綺歩?」
「タオルでごしごしするとあんまり肌に良くないんだよ?」
「そう言うことじゃなくて、自分で洗えるから」
「私に洗われるのは嫌?」
「嫌ってわけじゃないけど……恥ずかしいと言うか何というか……
これって遊馬の身体を洗っていることにもなるんだよ?」
「小さい頃遊君と洗いっこしてたし、今更じゃないかな?」
「それとこれとは……ひゃん」
「あ、ごめんくすぐったかった?」
綺歩の手がユメの脇腹を滑ったところでユメが変な声を上げる。
それから、ユメが諦めたように黙って洗われていた。
「ねえ、今日の午前中ユメちゃん達は何するか決めているの?」
「わたしはとりあえず遊馬に出てきてもらって、遊馬に任せるつもりだけど。
そう言えば綺歩はクラスの方で何かするんだっけ?」
「そう、部活で凝ったことする人が少ないらしくてね、それだったらクラスでなんかしようって事になっているの」
「でも、綺歩ずっと部活の方に来てたよね?」
「準備も運営も基本はそう言った人たちなんだけど、今日の午前中は手伝って欲しいって言われててね」
「それで何をするの?」
「……メイドカフェ」
「うわー……」
『うわー……』
ある意味定番と言えば定番。でも、リアルでやるのを見るのは初めてじゃないだろうか。
「そもそも衣装を買う予算はないよね」
「全員分はね。だから用意できたのは数着だけ。
あと、メニューも簡単なのしかないからギリギリ予算内には収まったみたい」
「綺歩が所謂メイドカフェって合わない気がするんだけど……」
「いわゆるメイドカフェとは違うみたい。「お帰りなさいませ」とは言うらしいんだけど、スカートは短くないし、オムライスに絵は描かないし。正統派メイドの落ち着いたカフェを目指しているんだって言ってたかな」
「綺歩は接客するの?」
「どうしてもって頼まれちゃって」
絶対にどうしてもってわけじゃない。
いや、どうしても綺歩のメイド服姿が見たいという意味ではそうかもしれないが、人出が足りないからどうしても手伝って欲しいという意味のどうしてもでは間違いなくない。
「それで遊君はどうするの?」
『適当にぶらぶらしてみようか。去年はほとんど参加していなかったし』
「去年の分もぶらぶらするんだって」
「私も行けたらよかったんだけどな」
「今年は難しそうだね。綺歩は二日目ほとんど潰れるだろうし」
「まわれるとしたら三日目の午前中だけかな~
遊君何かお勧めがあったら教えてね。急いで回ってくるから」
『了解』
そう言ったところで、またシャワーのお湯を浴びせられる。
シャワー室から出るときは入る時とは違いスムーズに出る事が出来たのでそのまま音楽室に戻って、準備があると言う綺歩と別れた。




