Lv18
ユメがメンバーに迎えられてから、部活外で集まった以外に決定的に変わった事が一つある。
それは、稜子の怒声が俺以外に飛ぶようになったこと。言ってしまえば鼓ちゃんが怒られることが増えたこと。
とはいえ絶対数自体は減ったので、普段は平和なのだけれど。事実皆で出かけてから今日を除いて三回練習があったが、まだ三回しか稜子が怒っていない。
以前は一曲ごとに「三原」なんて言われていたのだからだいぶ少なくなったものだ。
「ユメ、遅かったわね。早く着替えてきてちょうだい」
「あ、うん。ちょっと待っていてね」
ユメが扉を開けたまま、怒られて落ち込んでいる鼓ちゃんを見ていると、こちらに気がついた稜子にそんな事を言われてユメが慌てて音楽室の後ろの方にある準備室に入る。
その時に綺歩が鼓ちゃんに声を掛けていたので安心したようにほっと一つ息をついた。
準備室とは名ばかりの軽音楽部部室のようなこの部屋は、それでも一誠のドラムを置いておくくらいで、後はライブの時の控室として使っていた。
そこにユメ専用の更衣室が作られるのにほとんど時間はかからず、綺歩の家に置いてあったユメの制服は今やこの部屋に置かれている。
最初は綺歩に教わりながら着替えていたが、何度か練習して今や目を瞑っても着替えられるほどユメのスキルは上達し、はれて俺も女子の制服を目を瞑ったまま着る事が出来ると言う要らない能力を得る事が出来た。
何で目を瞑るのかと言えば、下着まで着替えないといけないから。上はまだしも、下はユメの細さでスカートだと落ちてしまいかねないので、これだけ持参しないといけない。
着替えを終えて音楽室に戻ると、落ち込んだ様子だった鼓ちゃんの表情もいつもの笑顔に戻っていて、安心したようにユメも練習に加わった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
練習が終わって、ユメが着替えている間に一誠がドラムセットをせっせと片付ける。片付けるのは一誠一人だが、その後ろで稜子が見張っているらしく今まで覗かれた事はない。
そもそも目を瞑っているのだから覗かれても分かりはしないのだが。
十五分待たないと元に戻れない性質上、ユメが着替え終わっても俺にすぐに戻れないことが多々ある。
そんな時は鍵を俺に任せて皆適当に帰るため、一人時間を潰す――主にユメが――事もあるのだが今日はそんな事はなくてユメが音楽室に戻ると「ユメ先輩」と元気のない声をかけられた。
「鼓ちゃん?」
「ごめんなさい、ちょっと相談したいことがあって……」
「別に構わないけれど、それはわたしがいい? それとも遊馬?」
これは少し困ったことになったと思いながらユメの言葉を聞いていた。鼓ちゃんの相談に俺が乗らないといけないかもしれないということではなく――そもそも、俺が聞こうとユメが聞こうと言えることはほぼ一緒なのだから――、鼓ちゃんがとても追い詰められたような顔をしていること。
「えっと、あの……ユメ先輩に聞いてほしいです」
「わかった。でも先にちょっとだけ歌わせてね」
ユメは努めて穏やかな優しい口調を心がけていた。
それは間違いなく俺と同じ危惧でもって俺かユメかを選ばせたと言う事を物語っている。
ユメは敢えてなのか、難しい曲は歌わず誰もが聞いたことがあるであろう、合唱曲を歌った。
「やっぱり、ユメ先輩の歌はすごいですね」
「ありがとう。それで、相談って言うのは?」
鼓ちゃんの賞賛に笑顔で返すと、ユメは本題を持ちかける。鼓ちゃんは言い難そうに俯くと震える声を出した。
「先輩は、あたしの演奏が下手になったと思いますか?」
「そんな事無いよ」
「本当ですか? あたし先輩達と一緒に演奏していていいんですか? あたし先輩みたいに……」
◇◇◇◇◇◇
「捨てられたりしませんか、か」
鼓ちゃんが帰った後、壁を背に座りながら音楽室で一人ユメが呟く。
鼓ちゃんはその言葉を言ったあとハッとしたような顔をして慌てて謝ると逃げる様に音楽室を出て言った。
その背中にユメが「鼓ちゃんは大丈夫だから」と声は掛けていたがそれが届いたどうかは分からない。
『どうしてユメが思いつめているんだよ』
「だってわたしも遊馬だもん」
『確かに捨てられたって言うのはクルものがあるよな。そんな風に見られていたと言うか何と言うか。古傷に塩塗られたと言うか』
「古傷に塩を塗ってどれだけ痛いのかなんて分からないけれど、そう思っているのに遊馬は表には出さないんだね」
『今表に出ているのはユメだけどな。それに、俺がどう思っているのかなんて分かるんだろ?』
そうじゃなきゃ出て行く鼓ちゃんに「大丈夫」なんて声はかけない。
ユメはわかっているということなのか、俺の言葉には触れず話を別の所へ持っていく。
「問題は鼓ちゃん……だね」
『あそこまで追い詰められていたとはな』
「でも自信がなくなるのは分からなくもないんだよね」
『以前は俺が鼓ちゃんの立場だったからな。俺は結局地声は本領じゃないといくらでも言い訳ができたけど』
「鼓ちゃんにはそんな言い訳も無かっただろうし、わたしが聞いている限りじゃ鼓ちゃん下手になんかなっていないんだよね」
『俺らの耳を信じれば、って言葉がつくんだけどな』
とは言え一年生が入部して以来何度も聞いているし、今日だって歌っていて違和感はなかった――歌っていたのはユメだが――。
「次の部活の時にでも綺歩か稜子に言ってみようか」
『いや、帰ってから綺歩にメールする』
「そっか。確かに遊馬じゃ稜子に相手にされないかもしれないし、わたしじゃ真面目な話をし続けるのは難しいから、それがいいかもね」
そんな所で十五分経ったのか俺に主導権が戻って来たので立ち上がり音楽室を出る。それから鍵をかけようと鍵穴に鍵を刺したところで「せーんぱい」と声をかけられた。
「まだ残っていたんだな」
「桜だってアンニュイな気分で廊下から音楽室の中を覗いたりもしますよ」
「それ自分から言うんだな」
「隠していても話が進まないだけですからね。もしくは桜ではなく先輩が選ばれた事に対する八つ当たりです」
「選ばれたのは俺じゃなくてユメなんだけどな」
自分でも分かるくらいにとんちんかんな返答をすると、桜ちゃんが少し楽しそうに笑った。しかし、すぐに真剣な表情に戻る。
「なんの話をしていたのかまでは聞こえていなかったのですが、鼓の事悪く思わないでくださいね」
「悪く何て思っていないからそんな気を遣わなくていいぞ。むしろ今は鼓ちゃんに気を配っていてほしいな」
「わかりました」
いつもの桜ちゃんらしからぬ真面目さでそう言うと、いつもの桜ちゃんの様相で続けた。
「先輩、ひとつ聞いておきたいんですけど」
「答えられるものならな」
「先輩がユメ先輩と入れ替わる条件って『裏声を出す』でしたよね?」
「実際裏声を出そうとしたらユメの地声になるからだせてはいないけどな」
俺の言葉を肯定だと受け取ったのか、桜ちゃんは「ありがとうございました」と言って出口の方へと歩いて行く。
俺はその桜ちゃんを追いかけることなく、鍵を返すために一度職員室に向かった。
◇◇◇◇◇◇
その日の夜、綺歩に今日の鼓ちゃんの様子を差し障りがない程度にメールをすると、すぐに返信が来た。
『件名:Re
教えてくれてありがとう。次の部活が終わった後に私から稜子と話してみるね』
そのメールに『助かる』とだけ返してその日は眠りについた。
しかし来たる次の部活の時、事件が起こった。